勉強会

 綾音に勉強を教えると約束した週の終わり。約束通り、陽翔は綾音に勉強を教えることにした。


 場所は陽翔の家。一人暮らしの割に部屋が広く、静かだという理由だ。


「いやあ、悪いな陽翔。綾音だけじゃなくて、俺まで勉強を見てもらうことになって」


「悪いと思うなら、二人きりでも勉強に集中できるだけの自制心を身に着けてくれ」


「それは無理だな!」


 即答するのは、綾音の彼氏である大地。ここまで即答されると、いっそ清々しさすら覚えてしまう。


 今日の勉強会は綾音のためのものだ。大地を呼んだのは、他ならぬ陽翔だ。


 中学時代からの友人とはいえ、自分の彼女が男と部屋に二人きりという状況は、彼氏の彼にとって面白い話ではないだろうと配慮してのことだ。


 二人を一緒にすればイチャつく危険性もあるが、その時は陽翔が叩いてでも止めるつもりだ。


「それにしても……陽翔の部屋に来たのは久しぶりだけど本当に綺麗になってるな。これも黒川さんのおかげか?」


「……まあな」


 キョロキョロと興味深げに部屋の中を見回す大地に、陽翔は短く答える。


「ねえねえ陽翔、黒川さんって隣の部屋に住んでるんだよね。今部屋にいるのかな?」


「さあな、俺が知るわけないだろ。というか綾音、お前は今日何しにウチに来たのか忘れてないよな?」


「もちろんだよ。期末に向けての勉強会でしょ?」


「分かってるなら、さっさと勉強を始めるぞ。時間は有限なんだ、黒川のことを気にしてる余裕なんてないからな」


 三人は会話もそこそこにローテーブルを囲むようにして座ると、シャープペンシル片手に勉強会を始めた。


 それから一時間ほど、綾音と大地が分からない箇所を質問する以外の会話もなく静寂の中勉強を進めていたが、綾音が音を上げた。


「疲れたー。ちょっと休憩しようよ」


「ダメだ。まだ勉強始めてから、一時間くらいしか経ってないだろ」


「えー、まだ一時間しか経ってないの?」


「お前な、そんなんだと今度の期末は赤点だぞ」


「でも、疲れたものは疲れたよ」


 ブーブー文句を垂れる綾音。陽翔に教えを乞うたくせに、音を上げるのが早すぎる。本気で期末試験を乗り切る気があるのか謎だ。


 とはいえ、この勉強会は元々綾音のために始めたこと。肝心の綾音がこの様子では、意味がない。集中力を切らした状態でダラダラ勉強しても、時間の無駄だ。


「はあ……分かった。なら十分だけ休憩な」


「わーい、ありがとう陽翔!」


 陽翔が休憩を告げた途端、先程の言葉は嘘だったのかと思うほどの元気な返事をする綾音。現金なものだ。


 綾音は元気良く立ち上がると、「ちょっと外の空気を吸ってくるね」とだけ言い残してベランダに出た。


 しかし一分も経たない内に、綾音は何やら慌てた様子で戻ってきた。


「陽翔陽翔、今隣のベランダに小さい黒川さんがいたよ!」


「小さい黒川? お前何言ってんだ?」


「本当に見たんだよ。小学生ぐらいの小さい黒川さんが、ベランダで洗濯物を取り込んでたんだよ!」


「小学生……ああ、それは多分真那のことだな」


 真澄そっくりの小学生となると、該当する人物は陽翔の中には一人しかいない。


「真那? 誰それ?」


「前に話したことあるだろ。黒川の妹だよ」


「じゃああの子は、黒川さんの妹なんだ。黒川さんに似て可愛い子だったね。将来が楽しみだよ」


 真那のことを説明すると、綾音はあっさり納得した。


「へえ、黒川さんの妹か……俺も見てみたいな。まだベランダにいるか?」


「洗濯物取り込んでる途中だったから、いると思うよ。驚くぐらいそっくりだから、見たら大地もビックリするよ。一緒に見に行こう」


 まるで近所のコンビニに行くような軽いノリで、二人はベランダに出た。


「あ、おい待てよ二人共!」


 陽翔は慌てて綾音たちのあとを追う。あの二人が真那に余計なことをしないか見張るためだ。こんなことなら真那のことを話さなければと後悔の念を抱くが、今更だ。


 ベランダに出た陽翔がまず最初に目にしたのは、ほんの少し先にベランダに来ていた二人。彼らの視線を追うと、隣の部屋のベランダに洗濯物片手に立つ真那の姿があった。


「あ、陽翔お兄ちゃんだ! こんにちは、陽翔お兄ちゃん」


「こんにちは、真那」


 向こうも陽翔の存在に気付いたようだ。天真爛漫という言葉がこれ以上ないくらい似合う眩い笑顔が、陽翔に向けられる。


「陽翔お兄ちゃん、今何してるの?」


「俺か? 俺は期末試験に向けて勉強会中だな。あ、期末試験っていうのはテストのことな」


「陽翔お兄ちゃん、テスト勉強してるんだ。お姉ちゃんと一緒だね。お姉ちゃんも朝から今度のテストのために勉強してるんだよ」


「朝から勉強か、それは偉いな。……どっかの誰かさんも、少しでもいいから見習ってほしいもんだ」


「陽翔、どうして私を見ながら言うのかな?」


 その答えは自分の胸に手を当てて、よく考えてみてほしい。


 綾音の言葉をスルーして真那の方に向き直る。真那は陽翔ではなく、綾音と大地を見ていた。


「ねえ陽翔お兄ちゃん、その人たちは誰なの?」


「こいつらか? こいつらは――」


 友人二人を軽く紹介しておこうとしたが、綾音は陽翔を押しのけ前に出て口を開いた。


「初めまして、私は陽翔の友達の綾音って言うんだ。こっちは彼氏の大地。よろしくね、真那ちゃん」


「よろしくな、真那ちゃん」


 二人揃って笑顔で自己紹介をする。人間関係は第一印象が大事だからか、二人の声音はとても柔らかく親しみに満ちていた。これなら、少なくとも初対面で悪感情を抱くようなことはないだろう。


「よ、よろしくお願いします……」


 初対面で緊張でもしているのか、やや硬い声と聞きなれない敬語でペコリとお辞儀した。


 そんな真那を、友人二人はしげしげと観察する。


「……改めて見ると、真那ちゃんって黒川さんにそっくりで本当に綺麗だよね。将来美人になるのは確定だね」


「確かに。これは将来が楽しみだな」


「おいお前ら、あまりジロジロ見てやるなよ。真那が可哀想だろ」


 隣室のベランダのため距離は離れているが、それでも十歳近く年上の男女二人にジロジロ見られれば居心地が悪くて仕方ないはずだ。


「あ、ごめんね真那ちゃん。ジロジロ見られて嫌な思いさせちゃったね。謝るから、お姉ちゃんたちのこと許してくれる?」


「……うん、怒ってないからいいよ」


「ありがとう、真那ちゃん」


 小さく頷く真那に、綾音は笑顔で謝意を告げた。元々あまり心配していなかったが、この分だと二人は良好な関係を築けそうだ。


 二人の今後に安堵していると、真那の側にあったベランダのドアが開かれ、見覚えのある隣人が姿を現した。


「真那、洗濯物を取り込むのにいつまでかかって――戸倉君? それに天道さんと磯貝君も……どうしてここに?」


「今度の期末試験のために勉強会をしようってことになってな。三人で集まって勉強してたんだ」


「そうだったんですか。それで天道さんたちも一緒だったんですね」


 事情を説明すると、あっさりと納得した真澄。


 二人のやり取りを黙って見守っていた綾音が、突然会話に割って入った。


「ねえねえ、黒川さん。黒川さんって、今時間あるのかな?」


「今ですか? 今日は試験勉強以外の予定はありませんから、時間は空いてますけど……」


「そっか。それならさ、せっかく会えたんだし黒川さんも私たちと一緒に勉強しない?」


「私も……ですか?」


 綾音の提案に、真澄は目を丸くした。

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