哀しみの覚醒

 忌奴と電話で話したとき、何かを隠されていることはわかった。

 けれども、そこから生まれる予感が、修治に真実の一端を予測させていた。


 おそらく、偽装フィルターはもともとバビルが自ら開発したものだ。そして、わざわざステータス・レッドの人間を偽装させたわけ。それは、その人間に後ろめたい何かをさせるため。


 考えられるとしたら、私兵としての用心棒。


 あのバビルの塔には、あちこち監視カメラがあるのも修治は気づいていた。だから、たとえ誰と目を合わさずとも、そのカメラが修治と鉋奈の偽装を見破っていたであろうことも想像できていた。その上で、バビル側がどう動くのか、様子を見た。


 忌奴の指示を仰いで、それから動くつもりでいた。けれども、敵のほうが早かった。


 鉋奈をさらったのは、少しでも勝機を増すためだ。正面からぶつからず、なるべく修治を無力化するために違いない。

 完全に敵の術中に嵌められた。わかっていたはずなのに、嵌められた。そしてその過ちの結果、一番の危険にさらされたのは、鉋奈だ。彼女が傷つけられたとしたら、それはすべて、修治のせいだ。


 ゆえに、修治は走った。敵と戦う体力を温存することも考えながら、走った。


 先ほどの男の証言には、ひどく助けられた。そのおかげで、行先はひとつに絞られた。

 近くの港には、バビルのグループの運送会社が所有する、倉庫群が存在するのだ。


 修治はそこに到着すると、立ち入り禁止の門が開いたままになっているのを見出し、迷うことなく敷地に足を踏み入れる。

 不自然に止められたワゴン車はすぐに見つかった。その傍らの倉庫に、修治はまっすぐに向かった。


 足音は、あえて聞こえるように大きく立てた。倉庫の入口はわずかに開いており、窓は四面に複数。月は出ており、明るい夜だ。それでも倉庫の中は暗がりだが、人のいる気配はわかった。


 入口に一歩、また一歩と近づく。誰かが殴りかかってくるのを予想した。けれども、そうする気配はなかった。

 修治はそれがわかると、ゆっくり入口をくぐる。敵の目論見は伝わった。倉庫の窓から月明かりが差し込み、所々が明るく照らされている。


 その一角、はっきりわかる位置に鉋奈は口元を押さえられ、立っていた。彼女は怯えた様子で、涙を流している。彼女を取り押さえた男の表情までは、わからない。


「刈谷修治だな?」


 恐らくその男が、たずねた。暗がりの中に、少なくとも10人はいる。


「そうだ」と臆さず、修治は答える。


「お前の後ろ盾について、教えてもらおうか」


 そう問われることは、予想が付いていた。


「偽装フィルターは僕が自分で作った。協力者はいない」


「ウソだ。お前は技術者じゃない」


「だから、その子が必要だった。その子はエンジニアでもあるからね」


 鉋奈が口元を押さえられながらも、フルフルと強く首を横に振った。当然だ。修治は嘘をついたのだから。けれども、男は修治の発言を今回は否定しなかった。


 なぜ? 修治の経歴には、警察学校の出身であることが明記されている。そこで何を学んだかも明白だ。しかし、鉋奈の経歴は、専門の詳細までは不明確な書き方だった。

 とすると、男が知っているのは、あくまで修治と鉋奈のアイ・フィルターに記録されている情報の範囲内。今もふたりは偽装フィルターを嵌めているが、恐らく男は、その偽装を見破りながら、修治と鉋奈の人隣りを読み取っている。


 だとするなら、男たちもきっと、偽装フィルターを使用している。やはり、彼らはバビルの差し金のようだった。


「僕から情報を引き出したいんだろう?」


 男が何か言う前に、修治は口を開いた。主導権を握っておく必要があった。


「でも、僕らは捨て駒だから。その子がどうなろうと知らないし、僕も舌を噛んで死んだっていい」


 暗がりに見えない男を睨み付け、修治は凄んだ。鉋奈の瞳が恐怖に揺れていた。取り押さえられながらも小刻みに震え、先ほどよりも激しく涙を流していた。

 修治は心を暗くした。敵を騙すには、彼女も騙さねばならなかった。彼女が本気で絶望することで、敵もまた、修治が本気であることを理解するのだから。


 そして何より、これから敵を迎え撃つために、心を闇よりも深く沈めておく必要があった。


「取り押さえろ」


 男が指示を出した。暗がりで何人もの気配が動くのがわかった。


 ――ノッた。


 心中でそう呟くと、修治はもう、別の誰かに己の体を委ねるような心地だった。


 拳を掲げると、握りきらないその形は、東洋に伝わる拳法の型となった。


「カンナ」と、消える間際の意識で、最後につぶやく。


「隙を見て、逃げるんだ」


 そうして、修治は修治でない、別の誰かになった。



   *  *  *  *



 紫乃を失って間もない頃、警察学校を追われた修治は、自らの命を絶とうとしたことがある。


 それは残酷なほどに晴れた日で、遠くに山が見えて、修治はふらりとその山へ向かったのだ。

 どこへ行くでもなく、山の奥へ、さらに奥へと進んだ。そのまま帰らないつもりでいた。


 暑い盛りの頃で、一夜を山で過ごしても、凍死することはできなかった。

 翌日は、山と山の間に雲海の立ち込める、どんよりと曇った一日だった。

 気温もグッと下がり、極めつけに夕方から雨まで降ってきた。


 修治はようやく死神の足音を聞いた。暗くなりはじめた頃、無事に体が動かなくなってきた。修治はうずくまり、死を待った。けれどもそのとき、誰かが側に立った。

 死の間際に死神は姿を現すものなのかと修治は思った。けれども、それは袈裟を身に着けた老人だった。


 老人は問うた。このまま死を迎えるか、惨めな死をさえ選ばせた宿命に復讐を果たすのか。


 修治は消えていく意識の中で、わずかに考えた。死ねば紫乃と会えると思った。しかし彼の口から出たのは、その想いとまったく異なる言葉だった。


 ――紫乃を、返せ。


 それが、修治の選択になった。そして修治の選択は、死出の道の代わりに、復讐の道を切り開いたのであった。



  *  *  *  *



 気が付くと、静けさだけが夜を支配していた。

 修治は倉庫の真ん中に、先ほどと変わらない立ち位置に、じっとたたずんでいた。

 両の拳から血が滴っていた。それは、彼自身の血ではなかった。

 暗がりに、何人もの男が布きれのように倒れているのがわかった。けれども、何が起きたのかはわからなかった。


 ただひとつ、小さな嗚咽だけを、修治は捉えた。倉庫の隅で、鉋奈が口元を押さえ、震えながら泣いていた。彼女はもう誰にも押さえられていなかった。けれども彼女は、先ほどよりずっと怯えきって、立ち上がることもできずに、むせび泣いていた。


 ふと、誰かの気配がすぐ側に迫った。


 修治は、とっさに拳をそちらに打ち付けた。けれども、厚い壁にぶつかったように、拳は止められた。

 そこには、彼の拳を受け止めて、忌奴麗士が立っていた。


「ご苦労だったな」


 忌奴は修治の肩を叩き、その傍らを過ぎていった。修治は立ち尽くすことしかできなかった。


 忌奴はゆっくりと、鉋奈に足を向けた。鉋奈は座り込んだまま、後ずさった。助けが来たと認知している様子ではなかった。


「安心しろ。俺も、こいつも、お前を傷つけない」


 そう告げたとき、忌奴の声が、哀しげな響きを含んでいるのを、修治は聞き逃さなかった。

 どこか遠くから、パトカーのサイレンが幾つも重なりながら、弔いのように鳴り響いてくるのが、聞こえていた。

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