バビルの足音

 忌奴との電話を切ると、修治と鉋奈は陸地とバビルの塔を繋ぐ連絡橋を足早に進んだ。


 誰か追いかけてきてはいないかと、鉋奈は何度も後ろを振り返った。

 修治は初めから覚悟していた。ここは敵の本拠地の只中である。もしも見つかっていたら、そのときはお仕舞いだと。


 連絡橋を渡りきり、それが視界に入らないまで離れると、ようやくひと心地つく。


「……ごめん、ちょっと座りたい」


 鉋奈が情けない声で言う。ふたりは街路樹を囲む円形のベンチまでやって来た。


「これからどうしよっか……?」


 座り込んでしまった鉋奈はすっかり憔悴した様子だ。あれだけの緊張に晒されて、消耗する気持ちは修治にもよくわかった。


「ひとまずどこかに拠点を構えたいところだけど……」


 言いかけるも、修治は言葉に詰まる。鉋奈は観念した様子で、


「気にしなくていいよ。もう、どこでもいいから」


 すっかり観念した様子を前に、修治はしばし思案して、


「……仕方ない。僕のところでも平気かい?」


 ここは一応の礼儀で、許可を求める。


「平気だよ。アンタはいいの?」


「ああ。手を出したりしないから、安心してもらっていい」


「襲えって言っても襲わない奴なのは知ってるから、それはもういいよ。ごめん、宿無しで……」


「やめてよ。謝られると、調子狂う」


 しおらしくなられたらなられたで修治はやりにくいのだった。

 こうしてふたりは修治の暮らす一軒家にやって来た。もうすっかり日も暮れてしまっていた。


「いいとこ住んでんのね……」と鉋奈は、その家を見上げて唸った。


「紫乃とは結婚するつもりだったからね。気が早いけど、一緒に住む家は確保してあったんだ。それも、無駄になってしまったけど」


「まあまあ、これから有意義に使うってことで」と鉋奈は、にやにやしながら自分自身のことを示すなどしている。何も修治を慰めようとかそういうのではなく、素でそういうことをやっているものらしい。修治にはむしろそれがありがたかった。


 家の中に通すと、鉋奈は珍しそうに視線を巡らせる。


「ほおほお、やっぱりちゃんと片付いてるのね」


「真面目そうで家が汚かったら幻滅されるだろ? 君は、しっかりしてる人が好きそうだよね」


「まあね。前の彼も、部屋はすごくきれいな人だった」


「それって、例のストーカーされてる人のこと?」


「んん、まあ、そうだねえ。真面目な人だったよ」


 修治は意外な気もしたが、そうした人間ほど、確かに陰湿にもなりやすいのかもしれない。


「配信を熱心に見てくれるファンの人でさ。ダイレクトメッセージもよくくれてたんだよね~」


 鉋奈はソファにぼふっと座り、手近なクッションを胸に抱くと、遠い目で天井を見上げる。


「誕生日とかも覚えてくれてたし、大会の後とかもまっさきにねぎらってくれて、マメな人だったなあ。会ってみたいって言われて、普通は会わないんだけど、断っても熱心に誘ってくれてさあ」


「……たまにいるよね、そういう熱心な人。僕は絶対に真似できない」


「アンタ、ぶきっちょそうだもんね? その意味、同じ真面目でも彼は器用だったのかも。会ってくうちにいいなあって思って。付き合う? って聞いたのも、実はアタシのほう」


 確かに、鉋奈であったなら、自分から積極的に行ったほうがきっと向いているだろう。


「やさしくて、気が利いて、いい彼氏だったよ。でも、心配性すぎて、配信のことまで色々言ってくるようになったから、それだけは嫌だったの。で、ケンカも時々あったし。その極め付けが、まあ……」


「さっき話した一件だった、というわけか……」


「やけくそになったのもあるけど、アタシもステータス・レッドだし、まっすぐ過ぎる彼とはもう一緒にやってけないかなって思っちゃったんだよね。彼はまだ好きでいてくれてたし、アタシも嫌いになったわけじゃないから。たぶん、それでこじれちゃったんだよね~」


 鉋奈はクッションを抱いたまま、ソファに身投げするように横になる。それが泣いているようにも見えて、修治はどうしたら良いものか、束の間逡巡する。


「あ、ちょっと寝たいだけだから、別に大丈夫だよ」


 そんな修治の心中を察したように、鉋奈は言う。


「30分くらいしたら、起こして」


 そう言った声は、もう半分眠りに落ちていた。


「……何か飲み物、淹れておくよ」


 修治もそっと部屋を出ることにした。


 台所に向かい、さて、客に出せるものはあったかと迷う。もう人と会う習慣がなくなって久しかったから、こんな時、かつての勝手が思い出せない。

 ぶきっちょそうだと言った鉋奈の言葉を思い返す。確かに、その通りだ。自分は紫乃の気配りに甘えてしまっていたのかもしれない。ひどく未熟だったのかもしれない。


 そんなことを考えている、矢先だった。


 ガラスの割れるけたたましい音が鳴り響いた。


「いやっ――!」


 短い悲鳴の声まで聞こえる。


 修治は背筋が一気に冷たくなった。考えるより前に体が動いた。


「カンナ!」


 なんと呼ぶべきかなどと考える間もなく、居間に声を張る。そこには誰もいない。ベランダに面したガラス戸が、無惨に破壊されている。


 彼女のスポーツキャップだけが、ソファの上に置き去りにされている。


 何が起きたのかを理解するまで、時間は必要ない。

 修治は割れたガラス戸からベランダに飛び出す。左右を見回すも、人の姿はない。ただ、車の走り去る音が聞こえた。


 修治は表に向かった。道路は家の近くで三叉路になっている。車がどちらへ向かったのか。

 ――マズイ。

 心の中で舌打ちをした。すると、


「おい……」


 男の声が、死角から聞こえた。


 ――しまった!


 修治はとっさに距離を取り、身構える。相手は刃物か鈍器か、はたまた銃器か。

 攻撃を覚悟して備えるも、そこにはスーツ姿の戸惑った男がひとりいるだけだった。


「ち、違う! 俺じゃない! 俺はさらってない!」


 前髪を分けて丁寧に整髪しており、何かの営業をしているような、そう、とても真面目な印象。


「見てたのか?」


 男の胸倉をつかみ、修治は問いただす。


「アンタ、鉋奈の新しい彼氏か……?」


 男はそんなことを零した。それでその男が誰なのかは、もうわかった。


「警察を呼んだほうがいい。そのほうがずっと確実に助かる。素人がどうにかしようとしても、ダメだ……」


 男は気が動転しているらしかった。修治は自分が警察関係者だと、まさか言えようもない。素人なのは当然の事実だ。その上で、


「こういうときは、まずまっさきに駆け付けるべきじゃないのか?」


 そうとだけ告げた。脳裏には紫乃の笑顔が浮かんでいた。彼女が病院に運び込まれたとき、自分は同じことを己自身に言えただろうか?


 男は返答に窮するようだった。しかし、道のひとつを指差すと、


「……あっちだ。そこをまっすぐ行って、少し先を右折した。おそらく、向かったのは港のほうだ」


「ありがとう」


 修治は短く言うと、男を離した。そしてもう、走り出していた。

 まとわりつく幻影を、振り払おうとするように、修治は走り続けた。

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