バベルのはらわた①

 ――まさか、初任務がストーカー調査とは……。


 世間の全てを憎むほどにまで塞ぎ込んでいた己が滑稽ですらある。

 修治は公衆トイレの鏡に映った自身をながめながら考えた。


 忌奴から渡されていたフィルターを、右目に装着する。あらかじめ装着していた自身のフィルターの上からだ。

 聞いていた通り、赤いステータス・バーが、緑色のそれと差し替わる。修治の写真はそのままに、名前が別人のそれへと変わり、経歴も見事に、偽装されたそれへと書き換わっている。

 修治は、その経歴のひとつひとつに、丁寧に目を通す。網膜を読み取るアイ・フィルターは、他人のものを装着してもエラーとなる仕様である。ゆえにこの偽装フィルターは自身のフィルターの上から取り付けるわけだ。仕組みは理解できるが、そうそう簡単に開発できる代物ではない。


 後ろ盾に不足はない。あとは、何を成し遂げるかだ。


 紫乃の死を無駄にはしない。報われたと心から思うために、何ができるだろうか。

 あの楽天的に過ぎる鉋奈に寄り添うことが、その一歩にはなるかもしれなかった。紫乃とは似ても似つかない性格の彼女ではあるが、置かれた境遇は紫乃とよく似ている。


 彼女もまた人前に姿を見せることを生業とし、そのせいで虚像を押し付けられ、人格を否定された身の上だ。あっけらかんとしているようで、追い詰められている一面もあるかもしれない。そうであれば、彼女を第二の紫乃にさせてはならない。

 修治は己に言い聞かせ、公衆トイレを出る。そこは駅近くのショッピングモールで、鉋奈はガムか何かを噛みながら待っていた。


「うあ~、本当にグリーンになってるわ」


 気のない感じで言う。


「ん〜、でもこうやってじいっと見ると、エラーが出て赤に戻るね。あははは、アンタってアカに戻ると、なんだか人相わっる〜」


 人の顔を不躾に指差して笑い転げるその姿は、苦悩や感傷などとは縁遠いようにしか見えない。

 修治は心の中で先ほどの誓いを撤回した。この子がそこまで追い詰めることなど、まずありえない。


「じゃ、行っきますかね~」と、あくびをしながら鉋奈は言う。ふたりは、鉋奈がそうしたいからと、先ほどの駅から電車でややも離れた別のターミナル駅に来ていた。ここは海も近く、沿岸沿いに観光スポットも点在していた。


 何より、バビルの本社ビルが屹立しているのも、この近くである。


「用事があるなら、さっさと済ませてほしいな」


 鉋奈は、どうしてもここへ来たいと言って聞かなかったのだ。修治は無理やり付き合わされた格好である。


「まあまあ、せっかくグリーンに戻ったんだしさ。楽しむっきゃないでしょ!」


「で、どこに行く気さ?」


「そりゃね、あのバビルの塔とかじゃない?」


 駅からすでに見えるその塔を見上げる彼女は、なぜか急に物憂げな横顔をしていた。


 ふたりは、海の上を渡る巨大な連絡橋へとやって来た。動く歩道に身を任せていると、何人もの人たちが忙しげに傍らを過ぎていく。ステータスをグリーンに偽装しても、避けられているような心地は変わらなかった。


「赤になってさ、時間の流れがゆっくりになった気がするんだよね」


 透明なガラス製の天井越しに空を見上げ、鉋奈はそんなことを言う。空ばかりでなく、床までが透明に見渡せて、波打つ海面が足元にたゆたっていた。


「なぜ、君はステータス・レッドに?」


 修治はおもむろにたずねる。聞くとしたら、今をおいて他にないと思った。


「自分らしくいたせい、かな?」と、鉋奈は遠い誰かのことのようにおぼつかなく言う。


「あんた、ゲーム実況なんて見ないでしょ?」


「訓練生時代は、そんな暇もなかったからね。その前も、将来のことで頭がいっぱいだったし」


「模範的だねえ。それだけフツーに優秀なのにさ。ステータス・レッドだなんて。人生わかんないもんだなあ」


 動く歩道は、ひどくゆっくりだった。歩かずにただ運ばれるだけでいるのは、初めてかもしれなかった。


「言われてもわかんないと思うけど、アタシのやってたゲームはニッチな格闘ゲームでさ、ニッチだとファンも古い人が多いんだよね。そうすると、考えも古くなる。この御時世にさあ、オンナが格ゲーやるなあ! だなんてさ、平気でコメント来たりするの」


「君は、なんでわざわざそんなゲームで実況を?」


「好きだったからだよ。ただそれだけ。なのに、新参者は問答無用で叩かれるし、その上でオンナだし、扱いは散々だったよ」


「まさか、問題発言が目立ったのも、そのせいで?」


「自己正当化する気はないけどね。かわいらしくヒヨってたら、生き残れると思う? そりゃね、中には愛され女子演じてさ、男に認めてもらってる子もいるけど。アタシはそんなのは御免だし」


「都合の良い偶像なんて、なる必要ないよ」


 修治はとっさに語気が強くなる。紫乃がまさに、その偶像に己を合わせ、心を壊してしまった犠牲者だ。修治自身、その偶像を無自覚に崇めてしまっていた。


「アタシもそう思うよ。でも、運営側は私がいけないって言うんだ。意固地になっちゃってね。あるとき配信中に、ブスは死ね、消えろって煽られてさ。頭来て『死ぬのはお前のほうだ』ってね。んで、アタシの暴言だけ切り抜かれて、大拡散、大炎上」


「そして、君は反社会的発言の責任を取らされ、引退させられた、と」


「自主的に引退すれば経歴に傷は付かないぞって運営から脅されてねえ。ま、ハメられたんだよね。んで、ふざけんなってケンカ売って、契約解除。晴れてステータス・レッドってなわけ」


 すずしい波の音をバックに、高い空を見上げて、子どもの頃の思い出でも語るように鉋奈は言う。天井のガラスの向こうには、現代のバベルの塔が見えてきていた。


「さて、くそったれの腹ん中でも引っ掻き回してやりますかね」


 動く歩道の終点はバビルの塔の中枢に繋がっており、そこは一般向けに開放された商業地区なのだ。鉋奈はそちらへ足を向ける。用事というのは、買い物だったのだろうか。


 紫乃はアイドルだったが、派手なことは苦手で、買い物に付き合わされたこともほとんどなかった。ここへデートで訪ねるカップルも多いのだが、修治たちは予定もなかなか合わず、いつか行こうと話した約束もとうとう果たされなかった。

 鉋奈は紫乃の代わりではないし、これを償いと呼ぶのはお粗末だ。けれども、しばし付き合おうと修治は思った。


 追いすがる何かを振り払おうとするように鉋奈は明るかった。束の間ではあるが、ふたりは楽しかった。

 まるで、いつか恋人と送ったかもしれないその日を、再現するように。

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