ゼロの男

 霞が関の合同庁舎を訪ねると、通された部屋は狭く、薄暗かった。

 一歩を踏み出すと、靴裏が床を叩く音まで、やけに高く響いた。


「お初にお目にかかります、刈谷修治さん」


 その声は、窓際から発せられた。

 修治は背筋が凍り付いた。気配がなかったのだ。それほどに、己のブランクが長すぎたということか。


 背を向けたその男は、183cmある修治より、身の丈が高かった。折れそうなほどの細身ながら肩は厳つく、神経質なオールバックの髪。腰の後ろで手を組み、構えを解いているが、どこにも隙はない。

 頭身の高さに制服がよく似合っており、修治もジャケットスタイルにロングコートと出で立ちを整えてはいたが、見劣りしそうに思う。


 大正時代の美麗な将校がそこに立っているような、そんな感じ。


 しかし、それ以上に驚きだったのは、こちらに振り向けたその顔と目が合ったはずなのに、ほかの多くの人間にあるはずの、色を示すステータス・バーが彼の頭上には存在しないことであった。


「構えなくても良いですよ」


 男は鷹揚な声で言った。微笑を湛えてはいても、細く吊り上ったその瞳は鋭く、強かった。


冴木煉さえきれんです。楽にしてください」


 そう言うと、再び窓の外へ向き直り、背を向けた。


「ステータス・レッドになって、気分はどうですか?」


 そうたずねる。


「人の冷たさを、身を以て感じています」


 修治は答える。すべてを恨んでしまいそうな炎は、隠しておくことにした。冴木は、無言のままに続きを促しているように思えた。


「ここに向かうまでの間、皇居を歩きました。晴れた日ですから、芝生には人が多く出てきていました。彼らは皆、楽しそうでした。けれども僕を見ると、一瞬顔が強張りました。僕は、ステータス・レッドであることを隠しません。彼らは、そんな僕をとても恐れているように見えました」


「あなたの頭上にも、あの忌まわしいバーがあるのですね」


 冴木は振り返りもせず、言った。


「もっとも、私には見えません。私は、アイ・フィルターを付けてはいませんから」


「あえて、外されているのですか?」


 気になっていたそれを、修治は口にする。


「ええ。曇りなき眼で人を見るためには、ああいった尺度に頼ってはなりません。そう思いませんか?」


 アイ・フィルターは、コンタクトレンズの要領で眼球に装着する、皮膜状の装置だ。

 それはタグが埋め込まれており、相手もアイ・フィルターを装着している場合、そのタグを読み取って、「相手がどれだけ社会的に適切であるか」を即座に視覚化する。


 それが、頭上に表示されるステータス・バー。

 信号機よろしく、グリーン、イエロー、レッドに色分けされる。


 品行方正に、あくまでフツーの人として生きていれば、基本的にグリーンから色が変わることはない。

 けれども、一度決定的な過ちを犯し、ステータス・レッドに陥った人間は、社会の表舞台から放逐され、会う人のひとりひとりに、人ならざるものであるような冷たい目を向けられる。

 そんな恐ろしい仕組みが、誰に強制されるでもなく、ひとりひとりの自由意思による選択の結果として、社会全体にまで浸透している。


 それがこの世界。この時代。


「僕は、自らがステータス・レッドになるまで、この仕組みは市民の安全と安心を守っていると信じて疑いませんでした。その常識の外に出て、その息苦しさと、残酷さを思い知りました。非常に愚かであったと、あの頃を恥じています」


「ステータス・レッドなど、なるのは一部の人でなし。一般に誰もがそう信じることです。実際、『色つき』の人間の9割方はグリーンで、街を歩けば『色つき』ばかり。グリーンのステータス・バーを掲げることが当然であり、正常であり、まして赤いバーをそのままに晒す者など、そうそういない。ゆえにその赤い色は、即座に反社会性を示すというわけですね」


「僕は、反社会的なのでしょうか?」


 修治はぽつりとたずねる。挑発的ではあるが、恐らく冴木にはそのくらいが良いと思えた。


「そう思う人にとってはそうなのでしょう。生きる世界を狭めれば狭めるほど、より多くの他者が常識外の存在となりますから」


 冴木はひたすらに、窓の向こうに目を凝らしていた。

 まるで、見下ろす街にはびこる人々を、監視しているようだった。


「刈谷修治捜査官。亡くなった恋人のことは、今も思い出しますか?」


 それは唐突な質問だった。修治のことを「捜査官」と呼んでいた。


 修治は心臓を鷲掴みにされたようだった。それが彼の心を一番に抉る質問だった。

 むろんのこと、この男はそれを狙っているはずだった。


「あなたを見くびるつもりはない。あなたがここへ来たのは、何もエリートコースに舞い戻りたいからではない。まして私という権力者に、頭の上の赤いステータス・バーをなんとかしてほしいわけでもない。あなたはそんな器の小さい俗物ではない」


「紫乃を……」


 修治は抑えようもなく呻いていた。拳に力が入り、何もかも破壊してしまいそうな衝動に駆られていた。


 ――紫乃を、返せ。


 あと少しでそう唸ってしまいそうなのを、なんとか歯を食いしばってこらえる。


 ゼロの男は振り返っていた。見間違いようもなく、笑みを浮かべていた。


「そう、あなたは償いがしたい。最愛の人を奪ったこの世界に、復讐がしたい」


「償いを、その復讐を、許していただけるのですか?」


 ここは、我が国の警察権力の中枢だ。その使命は、国民の無自覚で無批判の安心と安全を護ることにこそある。然るに修治はそれを名指しし、告発したいと願っている。


 その想いを、夜の陰に紛れ有事を未然に防ぐ公安の長の前に曝け出している。


「抑圧は、何も国家のもたらすものではありません」


 ゼロの男は静かに語り出す。

 靴音も立てず、その細い目で修治を正面に捉えた。


「それは自由の保証された社会で、人々が互いにもたらすものです。抑圧の起源は、人々の総意にこそあります。自らの手で自らの首を締めながら、己もまた当事者であると自覚しえる者はほんのわずかです。あまつさえ、それをあるべき秩序として保守しようとします。ゆえに野放図なその愚昧こそ、我ら陰の権力が憂慮すべき仇敵なのです」


「この僕に、その愚昧を誅する役目を、与えてくださるのですか?」


「もちろんです」


 ゼロの男は、ニヤリと口角を吊り上げた。


「あなたには、これからある場所で、ある男たちと共に、それを成し遂げるチャンスを与えましょう」

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