Status Red -ステータス・レッド-

えぎりむ

序章

すべてを喪って

 1%の悪意が、許せなかった。

 心無い99%は、もっと憎かった。


 彼女は――紫乃しのは、この国の四季のように心豊かな女性ひとだった。

 ただそれが、時として抑えがたいときもあったというだけだ。

 この国だって、嵐が吹き荒れ、地鳴りが襲い、海が迫るときはある。

 だからって、この国を疎ましく思う奴なんていないだろう?


 なのに、どうして人は、いつも穏やかな凪でいることが、当然の礼儀のように言われるのだ?

 なぜ、そうしていないと、厚顔無恥な非難を浴びせられるのだ?

 どうして想像力を働かせ、理解を示そうとしないのか?

 同じ景色を共にながめようとしないのか?


 そんな連中が許しがたかった。

 そんなこの時代が、許しがたかった。



   *  *  *  *



 刈谷修治かりやしゅうじは、警察学校のエリートだった。文武両道を貫き、人柄も秀でて、将来有望として評判だった。


 修治には、道行く誰もが振り返るような美しい恋人、紫乃がいた。

 溌剌として明朗な紫乃は、養成所修行を早足で駆け抜け、新米のアイドルとして注目を集めていた。皆の心を一瞬で掴む美音と、曇りの無い実直さはすぐに多くのファンを獲得した。ふたりは誰もが羨む模範的なカップルで、波風のひとつさえ起る気配はなかった。ふたりは修治が警察学校を卒業したら、結婚しようと約束を交わしていた。何もかもが順調だった。


 けれども、まっすぐな紫乃は、そのまっすぐさゆえに、とあるネット配信の番組で共演者と揉めてしまった。相手の何気ない発言を差別的と疑問に感じた彼女は、番組の進行も遮って、その人への批判を並べ立ててしまったのだ。

 彼女は正論だった。しかし見方を変えれば、一方的で攻撃的でもあった。電子空間の人々は、そのことを批判した。ファンの期待まで裏切るものとして、批判の炎はたちまち燃え上がった。


 修治は、全面的に紫乃の味方だった。その甲斐あって、紫乃も一度は持ち直した。表舞台で、彼女は再び笑顔だった。ファンも溜飲が下がり、批判の嵐は止んだ。

 ゆえに修治は、彼女の深い心の傷に気がつくことができなかった。もう立ち直ったものとばかり思い込んでいた矢先、最愛の人は自室で孤独に命を絶った。机の上には「ワタシに居場所はない」といびつな文字が彫り込まれていた。


 遺書はなかった。修治は、彼女の死の理由を血眼で求めた。警察関係者を名乗りながら、彼女の身辺の人々に迫った。誹謗中傷の事実はなかったか、陰で嫌がらせを受けていなかったか。

 電子空間で彼女に寄せられたコメントのひとつひとつが悪意に満ちているように見えて、名誉棄損や侮辱罪の角で個人情報の開示請求まで各所に独断で行った。


 結果として、修治は警察学校を追われた。彼の頭の上には、忌まわしい赤い色のステータス・バーが現れ、それが彼を見る人の目を醜悪に曇らせた。


 どこにも行く宛てを失って、修治は死んだ恋人の心境を考えた。あの一件を立ち直ってから、紫乃は彼の前でいつも笑っていた。けれども、元は怒ったり、泣いたりするときも多い人だった。熱くなって言葉を尖らせることも珍しくなかった。然るに、その人が終始、笑顔だったのだ。


 彼女の笑顔は引きつった嘘であった。本当の気持ちは笑顔の裏側で殺され、遂にはその命まで奪ってしまったのだ。

 世の人の前に露出するための仮面が、彼女自身の「ワタシ」を抑圧し、破壊してしまったのである。


 誹謗中傷する人間は、全体の1%程度にも満たないとする説もある。けれども、残りの99%にしても、石を投げないだけで、同じ軽蔑の目を向けているのではないか。偽りの笑顔と薄っぺらい品性を求め、そうしないからと蔑むのではないか。


 その浅はかな蔑みが、世の100%の真実なのだ、俺の最愛の人を奪ったのだと、修治は憎悪を募らせた。かつて世のため人のために尽くそうと願い、そのために青春まで賭した誠意が、熱意が、やり場のない怒りへと変わり果てていた。


 けれども、修治は果たすべき仇討あだうちの対象を持ちえなかった。世も人も全てが敵ならば、怒りの矛先はどこにも向けようがない。まして彼自身、100%の悪意たちの一角を担ってしまった。気付かなかったことは、味方しなかったことは、敵に与したのと同義である。彼女にとって世間のすべてが残酷で、彼もまた残酷さの一部に過ぎなかった。だからこそ、誰に何を語ることもなく、彼女は静かに命を断った。ゆえに彼は、恨めば恨むほど、己自身を恨むより他になかった。


 修治は毎日が灰色だった。死神が鎌を携え、首を刈り取りに現れるその瞬間ときを待ち続けた。けれどもそんな日は訪れなかった。

 代わりにある日、電話が鳴った。ノイズ交じりに聞こえる声は、死神のそれと聞こえた。


「ワタクシ、警備企画課の冴木と申します」


 細い男の声は、そう名乗った。

 ――ゼロだ、と修治は思う。その名で呼ばれる公安部門の存在を、知識としては知っていた。けれども、直に接触するなど、考えたこともない。


「一度、お会いできませんか?」


 鋭利な刃物のような声はそう続ける。これは、きっと俺が待ち望んでいた死神の刃だと修治は思う。けれども、それは彼の首を刈るために現れたのではない。むしろ、共に刈り取るために現れた。復讐の術を携えて現れた。これがメフィストフェレスなら、俺は喜んで悪魔と契約してやろう。修治は電話の声に耳を傾けながら、そんなことを考えていた。

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