第3話

「……ジェリン、エヴァンジェリン、家に着いたよ」


 やがて聞こえてきたオズワルドさまの声に、わたくしははっとして飛び起きました。

 あわてて口元を拭いましたが、幸いにしてよだれは垂れていなかったようです。あ、あぶないところでしたわ……! 寝顔をさらしたうえよだれまで見られたら、もうお嫁にいけなくなるところでした。


 そんなわたくしを見て、またオズワルドさまがくすりと笑います。


「少しは痛みも収まったかな?」

「あ、あら……そういえば」


 言われてみれば、さきほどまでの痛みはすっかり消えていました。きっとお薬が効いたんですのね。


「さ、エヴァンジェリン。手を」


 先に馬車から降りたオズワルドさまが手を差し出します。わたくしはその手をとり、馬車から出ようとして……オズワルドさまにじっと見つめられていることに気づきました。


「オズワルドさま?」

「……エヴァンジェリン、君に聞きたいのだが」


 そこでオズワルドさまは一度言葉を切りました。それからすぅっと息を吸って言います。


「――私の妻になる気はないか?」

「えっ!?」


 驚きすぎて、つい大きな声が出てしまいました。


「お、オズワルドさま! 急に何をおっしゃるのです!」


 これはわたくしをからかっているのでしょうか? それとも婚約を解消されたわたくしに同情しているのでしょうか? お優しいオズワルドさまなら、ありえますわ……!


 わたくしが動揺していると、オズワルドさまがどこか悪いお顔をして言いました。


「冗談ではないよ。私はずっとこの機会を待っていたんだ。ダスティンが、君を手放してくれるのを」


 えっ? 待っていたってどういうことなんですの? ついていけなくて目を白黒させるわたくしの手を、オズワルドさまがゆっくり引き寄せます。


「驚かせてしまってすまないね。……胃は大丈夫かい?」

「は、はい、なんとか……!」


 胃は大丈夫ですが今度は心臓がばくばくしすぎて困っていますわ!

 そんなわたくしに、オズワルドさまは続けます。


「エヴァンジェリン、私は本気だよ。私の妻になってくれないか?」

「だだだだ、駄目ですわ!」


 オズワルドさまの美声に身を震わせながらも、わたくしはきっぱり答えました。


 正直、気持ちだけで言うならすっごく嬉しいですわ。オズワルドさまほど素敵な殿方は他におりませんし、何より……オズワルドさまは長年密かに憧れていた方だったからです。


 けれど、憧れと結婚は別。そもそもダスティン殿下に婚約を解消されたのも、わたくしの胃が弱かったからこそ。


 次期公爵家当主であるオズワルドさまの妻は当然、公爵夫人。王太子妃ほどではないものの、やっぱり責任が重すぎます。

 こんなに貧弱な妻では、彼に迷惑をかける未来しか見えません。いえ、今も十分かけているのですけれども……。


「……わたくしに公爵夫人が務まるとは思えません。わたくしなどを娶ったら、きっとオズワルドさまが笑われてしまいますわ……。それに、ダスティン殿下とオズワルドさまの仲がこじれてしまわないかも心配です」


 正直な気持ちを伝えると、オズワルドさまは静かにうなずきました。


「なるほど。つまり、君自身は私との結婚が嫌なわけじゃないんだね?」


 あ、ええ、まあ、そこはオズワルドさまの言う通りではあるんですけれど……なんて思っていたら、彼が言いました。


「なら、返事はしばらく保留にしてくれないか。……その間に、私が障害を片付けよう」


 にっこり微笑んでおられますけれど、障害って言葉がやたら不穏なのは気のせい……ですわよね?


「それより、エヴァンジェリン」


 まるで何事もなかったかのように、オズワルドさまは話題を変えました。


「しばらく養生する気なら、私の別荘に来ないか?」

「オズワルドさまの……別荘?」


 わたくしは首をかしげました。

 オズワルドさまは公爵家のご嫡男であるため、彼個人の別荘を持っていてもおかしくはありませんが、なぜ急に?


 そんなわたくしの疑問に答えるように、オズワルドさまは言いました。


「実は、漢方好きが高じて専用の部屋を作ってしまってね。そこにはさまざまな生薬を取り寄せたんだ。君がいつも飲んでる桂皮ケイヒ延胡索エンゴサクはもちろん、葛根カッコン鬱金ウコンもある。もちろん皆、薬になる前の姿だ」

「まあ! 実物が!?」


 またもや声を上げてしまいました。

 だって、わたくしがいつも見るのは既に丸薬になった姿だけ。ケイヒ桂皮はクスノキ科ニッケイの樹皮だというのは教えてもらいましたが、実物は一度たりとも見たことがないのです。興奮せずにはいられませんわ!


「それに、生薬専用の畑も作っているんだ。桔梗や菊などを自分たちで育てられれば、わざわざ仕入れる必要がなくなるからね」

「まあまあ! 生薬専用の畑まで!? なんて素敵な……!」


 行きたい! 今すぐオズワルドさまの畑に行きたいですわ! でも、先ほどわたくしは求婚されたばかり。この誘いにうなずいたら、そちらにもうなずいたことになるのでは……!?


 わたくしがそう考えているのを、オズワルドさまも気づいたのでしょう。にっこりと微笑みながら続けられました。


「もちろん、一人でとは言わないよ。君の妹も連れてくるといい。これは家同士の交流だ。アンジェラは喜んで来ると言っていたし、君の父も了承してくれた」

「まあ、妹と父が?」


 アンジェラは今年十歳になる、歳の離れたわたくしの妹です。名前の通り天使のように愛らしく、目に入れても痛くないほどかわいい子なんですの。


「別荘の辺りは空気が綺麗な田舎だが、少し行けば観光に適した街もある。君もアンジェラも、退屈しないと思うよ」

「まあ……それなら……」


 オズワルドさまの言う通り、妹が一緒でお父さまも了承しているのなら、それは家同士の交流に値しますわよね? ううん、知らないけどそういうことにしておきましょう。


「それに、材料だけじゃなくて道具もそろっているから、君も実際に薬を作ってみてはどうかな?」

「行きますわ!」


 とどめの一言に、気付けばわたくしは一もなく二もなくうなずいていました。漢方薬作りができるなんて、そんな魅力的な提案をお断りできるわけがありません。


 ああ、今日はことごとくオズワルドさまの提案に負け続きです。


 でも、後悔は全くしていません。だって漢方の原料に触れられるんですもの。こんな心ときめくことが、オズワルドさまのお顔を眺めること以外にあったなんて!


 そのあと、わたくしはわくわくしながら、彼の馬車を見送りました。それからふと気づいたのです。


 ……あら? そういえば、オズワルドさまはいつのまにアンジェラやお父さまに別荘のお話をしたのでしょう?


 首をかしげながらも、わたくしは深く気にせず家に入りました。だって、楽しみの方がはるかに大きかったんですもの!

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