第2話

 しん……と辺りが静まり返ります。


 そりゃそうですわね。真実の愛と呼ばれた男爵令嬢が、よりにもよって王太子であるダスティン殿下の頬を思いっきりひっぱたいたんですもの。


 殿下もびっくりすしぎて声も出ないみたいです。ほっぺに見事な紅葉が咲いてらっしゃいますわ。秋ですわね……なんて思ったら怒られるかしら。


「マ、マチルダ、なぜ……?」


 弱々しくもらしたのはダスティン殿下です。お声が泣きそうになっていらっしゃるわ。


 一方のマチルダさまは烈火の如く怒り始めました。


「なぜ、じゃないですよ! 私何度もお断りいたしましたよね!? 王妃になる気はないですし、エヴァンジェリンさまを蹴落とすなんて絶対にごめんだと!」

「そ、それは、照れ隠し……」

「照れ隠しのわけあるわけないでしょうがこのスットコドッコイ王子が!」


 まあ。すっとこどっこいなんて単語、本当に使っているのは初めてお聞きしましたわ。

 言葉全体の歯切れも良くて、なんと愉快なお方なのでしょう。本当は不敬だと突っ込むべきなのかもしれませんが、ダスティン殿下が怒ってないなら気にしないことにします。


 なんて感心していたら、マチルダさまはダスティン殿下を放置して、わたくしの元にやってきました。それから騎士が膝をつくように、わたくしの前にひざまずいたのです。


「ああ、エヴァンジェリンさまにはなんとお詫びしていいのか……! 信じてください、私は本当に、こんなスットコドッコイと結婚する気などないのです」


 本日二回目のスットコドッコイをいただきましたわ。

 わたくしはどう返事したらいいのかわからなくて、頬に手を当てました。


 実際の所……ダスティン殿下がこの方を選ぶことに、わたくしは何の異存もないのです。

 だってわたくしは王妃になりたくありませんし、そもそもこの女性――マチルダ・S・エインズワース男爵令嬢は、とてもいい方なんですのよ。


 清く正しく美しく。

 そんな言葉を体現しているようなマチルダさまは、はきはきとした物言いと媚びない態度のせいで一部の方には嫌われているようですが、わたくしはいつか仲良くなれたらとずっと思っていましたの。


 それに、前に一度ダスティン殿下をいさめているのを目撃して、とても感動したことがありますわ。どうも年が五つも離れているせいか、わたくしはいつも殿下を甘やかしてしまいますから……。


 だからわたくしよりもダスティン殿下と年が近く、その上健康そのもののマチルダさまは殿下の妻にぴったりだと思ったのですけれど……。


「まあ……ということはダスティン殿下の片思いだったんですのね?」

「はい! 私は王妃の座に座ろうなど、そんなおこがましいことはまったく! 微塵も! 毛ほども思っておりません!」


 マチルダさまが断言するたびに、隣ではダスティン殿下が死にそうな顔をしています。ちょっとかわいそう。こんな公衆の面前で振られるなんて。でも仕方ありませんわね、恋は戦争ですもの。


「マチルダさまのお気持ちはわかりましたわ。でも、わたくしのことを気にする必要はありません。実はわたくし、王妃にはどう考えても向いておりませんから、婚約破棄はとってもうれしく――じゃなかった。妥当なことだと思っていますの」


 にっこり微笑んで、マチルダさまのお手をとる。


「ですから、どうぞマチルダさまはダスティン殿下と一度向き合ってみてくださらない? ちょっとお馬鹿――じゃなかった、暴走しがちなところはありますが、根はいい子なんですのよ」


 哀れな殿下のために、ここは元婚約者としてお相手の背中を押して差し上げなければ。……いえ決して自分が逃げ切りたいからとかではありませんわよ? 本当でしてよ?


「えっ……!?」


 マチルダさまは明らかに困惑なさっています。


「まあ無理もありませんわよね。突然王妃にだなんて、プレッシャーで胃が痛くなってしまいますもの。……イタタ、そう言っているうちにまた胃が」

「大丈夫ですか、エヴァンジェリンさま!?」


 マチルダさまの勢いに呑まれて一時的に痛みを忘れていましたけれど、残念ながらわたくしのしつこい痛みはそう簡単には逃してくれません。……ただ、逃げ出すためにちょっぴり過剰演出したのはこの際黙っておきましょう。


「もっとお話ししたいけれど、わたくしは一度退散させていただきますわね……あ、婚約は滞りなく解消してくださいまし」


 にっこりと微笑むと、わたくしはその場を後にしました。最後は少しわざとらしくなってしまいましたが、こうしてわたくしは無事、王妃という重責から逃げることに成功したのです。





「……ふぅ」


 足早に乗り込んだ馬車の中。温石を抱えたままため息をつくと、隣に座っているオズワルドさまがくすりと笑いました。


 ……うん? 隣?


「あ、あの、オズワルドさま……? なぜ馬車の中に……? ダスティン殿下についておられなくて平気ですの?」

「先ほど言っただろう? 『家まで送るよ』と」

「そ、そうでしたかしら……わたくし、聞き逃していたんですのね……」


 そんな爽やかな笑顔で言われたら、もう何も言えませんわ……ただでさえわたくしはオズワルドさまの笑顔に弱いのに!


「それより、君は大丈夫なのか。胃もそうだが、心が傷ついているのでは」


 そう言って心配そうにのぞき込んでくるオズワルドさまも素敵……って見とれている場合じゃありません! ぐっとこらえて、わたくしは淑女らしく笑みを浮かべました。


「大丈夫ですわ。むしろ、婚約破棄されてほっとしておりますのよ。王妃の座はどう考えてもわたくしには重すぎますから……」

「……それなら君は今後、どうするつもりなんだ?」

「そうですわね……」


 聞かれて、わたくしは考え込みました。

 嬉々として返事をしてしまったけれど、残念ながら今後のことは何も考えていなかったんですのよね。


「とりあえず家に帰って……しばらく養生しようかと思っておりますわ。社交界の逃れられないさだめとは言え、ここの所お茶会続きでわたくしの胃はずっとへとへとですもの」


 色とりどりのスウィーツに、たくさんのご令嬢がいらっしゃるお茶会。それはとても楽しいのですが、わたくしの貧弱な胃にはかなり負担になっていたのですよね。


 この際だから、婚約破棄されて傷心であることを理由にしばらくお休みしてしまおうかしら? 皆さまに会えないのが残念だけれど、背に腹は代えられませんわ。


「それがいい。ずっと思っていたんだが、食べるものを制限すれば君の胃はもっとよくなると思うんだ」

「まあ、そんなことまで考えていてくださったんですの? オズワルドさまにはお薬といい勉強といい、お世話になりっぱなしですわ。本当になんてお礼を言ったらいいのか」

「お礼なんていらないよ。私こそ感謝し足りないくらいなんだ。君のおかげでおもしろいものにたくさん出会えたのだから」


 そう言って微笑むオズワルドさまは、銀の髪がきらきらと輝いて本当に気高い天使さまのようです。


――オズワルド・N・ランドン公爵令息。それがオズワルドさまの正式なお名前。


 彼はダスティン殿下の従兄弟であるため、幼い頃から殿下のお守り役と言いますか、お目付け役といいますか、とにかくダスティン殿下のおそばにいることが多かったお方です。


 わたくしは殿下の婚約者だったため、当然わたくしともよくお会いする機会があり、そうしているうちにオズワルドさまともお話しするようになりました。


 とくに、知っての通りわたくしは昔から胃弱。

 色々試したのですが残念ながらどのお薬も治療法も効かず……それを知ったオズワルドさまが、はるか東の島国に伝わる“漢方かんぽう”と呼ばれるお薬をわざわざ仕入れてきてくださったのです。


 おまけに、一年間あちらの国に留学して学ぶ本格っぷり。そもそも一年で語学どころか薬のことまで覚えるなんて、オズワルドさまは一体どれだけ優秀なのかしら……。


 そんな彼が仕入れてきてくれたお薬は、見た目も匂いも味もとても強烈。その代わり今まで飲んだお薬の中で一番の効果を発揮しました。恐らく、わたくしの体に合っていたのでしょうね。


 それからです。わたくしがオズワルドさまを師と呼んで漢方のことを教えていただくようになったのは。


 わたくしより五つ年上のオズワルドさまは、殿下に帝王学を教えながら同時にわたくしに漢方を教えていたのです。なんて多才なのでしょう。


 あっ、イタタ……! 思い出しているうちにまたもや痛みがぶりかえしてきました。ぎゅっと温石を抱えると、それに気付いたオズワルドさまがすぐさま声をかけてきます。


「座っているのもつらいだろう。無理せず横になりなさい。私の膝を枕にするといい」

「えっ! そ、そんなわけにはいきませんわ。反対側で横になればいいんですもの」


 言いながらわたくしはごくりと彼の太ももを見ました。オズワルドさまに膝枕してもらうだなんて、そんな! 動揺するわたくしをよそに、彼はいたずらっぽく微笑みます。


「男の硬い太ももで申し訳ないが、枕があった方が楽だろう。……大丈夫、これは二人の秘密にすればいい」


 人差し指を口にあてて、しぃと言うオズワルドさまの、なんて魅惑的なこと……! 気付いたらわたくしは、しっかり彼の太ももを枕にしておりました。


 ごめんなさい、お父さまお母さま。恨むならわたくしの虚弱な胃を恨んでください。……それに、秘密にすればばれませんわよね?


「いい子だ。そのまま家に着くまでひと眠りするといい」


 オズワルドさまの低く甘い声と、優しく髪を撫でられる心地よさといったら。気づけばわたくしは、すやすやと夢の世界へと旅立っていたのです。

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