「ホタルの名」
(本なんて、何の役にも立たないものだろ…!)
…気づけば、そこはサミダレ・ビルヂングのキッチン。
先ほどの言葉を発したのは、どこか若い印象のミツナリの姿で、向かいに立つ母アズキはカウンター越しにじっとその言葉に耐えているように見えた。
(これを読んでうまい飯でも食えるのかよ?出てくる人間のようなリッチな暮らしや事業の大成功でも収められるのか…無理だろ?しょせん現実は現実だ。読書なんて無駄な時間でしかねえんだよ!)
バンバンと机の上に叩きつけられるのは、アズキの愛読書の雑誌。
インタビューや小説やエッセイなどが載った冊子をミツナリは乱暴に机に叩きつけ、片手に持ったワイングラスをあおる。
(というかさあ…そんな暇があれば、働けよ)
突っ伏しながら、カウンターでつぶやくミツナリ。
(今日さあ、役所の人間に言われたんだよ「…では、ミツナリさん。あなたがたご夫婦は現在定職に就かれておらず、今は貯金を切り崩してホテルを転々としていると。ですが、奥さんが無事出産できる保証を受けるにはこの星で住所を持って働いていただくか、もしくは、あなたの親類にあたる身元保証人の証明が必要になりますので」だってさ。何の話をしているんだよ!)
愚痴りながらも、カウンターから顔を上げるミツナリ。
(俺はすでに身内の星を出ちまっているし、お前さんの親類には頼れない。そうなれば、どうよ?どっちかが働くしかないじゃねえか?)
そんなミツナリの言葉にアズキは何も答えない。
ただ大きくなった腹をさすり、夫であるミツナリをぼんやりと見つめる。
(…なあ、頼むよ)
ついで、すがるようにしてアズキを見上げるミツナリ。
(俺の代わりに働いてくれよ。仕事をしようにも、三日と続けられる根性なんて俺には無いし。できることは描くことだけだ…それにうっかりともすれば出身星の人間に、こっちのことを嗅ぎつけられちまうしさ。どうすりゃいいのさ)
泣きそうな顔で頭を抱えるミツナリに、アズキはぼんやり宙空を見つめると「わかった」とひとこと告げる。
(私が職を探してみるわ…オオグマ弁護士事務所に相談すれば、アナタが
それを聞くなり(良かったぜ)と胸を撫で下ろすミツナリ。
(そうだな、オオグマなら足もつかないだろう。まあ、最近になって俺の担当も若い奴に変わったらしいし…聞けば、俺の学生時代の同級生だったとか?まあ、顔なんて覚えちゃいないが。でも、話が確かなら、後任がいくら変わったところで向こうさんには仕事上の制約がつきまとう…連帯で契約を結んでいるようだし、下手なことにはならないだろう。あの星におんぶに抱っこだった俺の親父から聞いた話しだから
ついで苦虫を噛み潰したような顔をするミツナリだったが(…よし、そうと決まれば)と言うなり、アズキに向かって指を立てる。
(あとは子供の名前も決めておくか。認めたくはないがお前さんのほうが言葉のセンスはあるからな。俺の子供にふさわしい名前にしてくれよ)
アズキはそれに(…そうね)と答え、ミツナリの手元の雑誌へと目を落とすとしばらく考えてから、こう答える。
(ホタル、ホタルにするわ)
表紙に描かれていたのは一匹のホタルのイラスト。
途端にミツナリは(…ほう、そうか。そうか)と満足そうな顔になる。
(そうだな。俺がこのイラストをお前さんの出版社に持ち込んだのがそもそものキッカケだったものな。良いじゃないか…ホタル。お前さんはホタルだ)
そう言って、カウンターから身を乗り出すとミツナリは大きくなったアズキの腹へと手を伸ばす。アズキもそれに抵抗することなく腹に触れさせ、ゆっくりと腹を撫で回しながらミツナリは含み笑いを漏らした。
(お、動いた。生まれてくるのが楽しみだなあ)
どこか違和感のある光景。
カウンターの上には空の酒瓶が並び、書類も散らかり放題。普段の綺麗好きなアズキからは想像もできないほどにカウンターは乱雑としていた。
「…ふむ、こうしてミツナリ氏はアズキ嬢とこのサミダレ・ビルヂングを手に入れたということか」
不意に届くクラハシの言葉に「え?」とホタルは顔を上げる。
…そこは見慣れた自室。
ディスプレイは未だクラハシのメッセージを映し続け、映像ファイルは砂嵐となっていた。
「メールが送られてきてから、時間が経ってない…夢だったのかな?」
寝ぼけ眼で照射された時刻を確認し、首を傾げるホタル。
「ここんとこ、過密スケジュールで忙しかったからなあ」
椅子の上で伸びをすると膝上にどことなく暖かい感触がする。
…これは、ホタルが疲れを覚えているときに必ず感じる感覚であった。
「気のせいかもしれないけど…ありがとう」
そうつぶやき、習慣で膝の上へと手を置く。こうしても何の感触も無いのだが、この心地よさがホタルの疲れ切った心を慰めてくれてもいた。
「でも、何だったんだろうね?特にあの奇妙な格好をした助手の姿なんか…」
未だに膝を撫でつつも、ふとドアを見たホタルは動きを止める。
…いつのまにか開かれたドアとその先に見えるカフェスペース。
そのカウンター席で何やらうごめいている黄色い塊があった。
「ちょっと!アンタ、人の家で何してるのよ!」
慌てて習慣で卓上のカメラを手に取り、駆けつけるホタルに「ああ…起きたんだ」と顔を上げるのは、防護服を半分脱いだザクロ。
彼の前には読みかけの本が数冊積まれ、横にはカプチーノが淹れられたカップと食べかけのハムチーズクロワッサンの載った皿が置かれていた。
「ごめんね、小腹が空いちゃって…でも、すごいねここ。蔵書量も半端ないし、食べたいものもリクエストすれば、ほぼ間違いなく出てくる。特に内蔵しているレシピ量がすごくてさ」
そう言って、クロワッサンを手に持ちながら投影されたメニュー表を観察するザクロに「ちょ、ちょ、ちょ!」と、ホタルは慌てて声をかける。
「待って、話を聞いて…ってかクラハシはどこよ?一緒じゃないの?」
その質問にザクロはクロワッサンを皿に置くと「博士ならこっちに来てすぐにプレ・オープンの会場に向かったよ」とカプチーノへと口をつける。
「伝言係として残るよう博士に言いつけられてね。このままだと、君を混乱させたままになるから、残って質問に答えてあげてって言われてるんだ」
「…はあ?」
ザクロを聞いてさらに混乱するホタル。だが、ザクロはそれを気にする様子もなく「でもさあ」と、かたわらの本を手に取る。
「君のお父さんも
そう話すザクロはどことなく背が伸びている気がしたが、すぐにその背も縮みだすと「…まあ、ミツナリさんにも、何かしら事情があるのかもしれないから、そう簡単に批判はできないんだけれど」と声が小さくなっていく。
そのとき、ホタルの鼻をレモンに似た匂いが掠め、同じ香りを空間航路で嗅いだことを思い出す。
「ねぇ、もしかして…今の話って、さっき見た夢のこと?」
そう問うホタルにザクロは本を開きつつも「夢?違うよ」と首を振った。
「あれはこの建物の記憶。『アンカー』無しで移動を行うときに起きる副作用。いくつかパターンもあってね。僕も全てを体験したわけではないのけれど、一緒に移動した相手の声が聞こえたり、移動先の情報を読み取ったり、場合によっては移動先にいた相手の過去も見えたりするって話だよ」
ついで、本を閉じたザクロは「『アンカー』はね、安全装置なんだ」と静かにつぶやく。
「精神的な影響を受けないための惑星委員会公認のセーフティ装置…博士によれば、もう何十年も使われているシステムだそうでね、これに頼りきっている以上惑星間の文明が進まないんじゃ無いかと苦言を漏らしていたよ」
「へー…」と、ザクロの話に生返事をするホタル。しかし、ふと、カウンターに照射された時計の数字に違和感を持ち、疑問を口に出す。
「あれ?時計が進んでいない気がする。なんで?」
それにつられてザクロも顔を上げると「ああ、言い忘れた」と一言。
「博士がこっちに来たときに止めたんだ。君もすごい疲れているようだったし、これからは忙しくなるだろうから。プレ・オープンが終わるまで博士が休ませてあげようって。さっきも言っていたけれど、博士はミツナリさんと主催のカネツキ氏の今後の動向を観察するって先に行ったんだよね。今ごろ会場だよ」
途端、ホタルはカフェスペースから飛び出すと驚くザクロをそのままに一目散にロッカールームへと飛び込むとパーティ用のスーツをつかみだす。
「ポイント!ビルジング外、半径1メートル!」
電光石火の勢いでスーツに着替え、髪を整えながら声高に叫ぶホタルに対し「え、ちょっと、どこに行くんだよ!」と追いついたザクロがロッカールームのドアから顔を出す。
「親父のところよ!仕事!」
彼など構っていられないホタルの身体はすでに転送を始めており、位置として定めたミツナリの持つ本の半径1メートル以内へと空間移動する。
(親父が本を持っていますように…!)
万が一にでもあの慎重なミツナリが持っている本を手放すはずはないが、こうしてイレギュラーなことが複数重なっている以上、何が起こるかわからない。
(…ってゆーか、なんで親父だけ先に行っちゃうのよ!普段だったら同伴しろってしつこいくせに!)
苛立ちながらも転送されるホタルの身体。
そこは、豪華な装飾のなされた廊下。
位置情報が正しければ、ミツナリの近くのはずであったが…
「やあ、やっぱりすぐ来たか。こんなこともあろうかと先に移送先をずらしておいて正解だったね」
ホールのドアの前でそう答えるのは、クラハシの声。
しかし、その様子がどこかおかしく…
「え、クラハシ?でも、なんで?いや、それよりアンタ…!」
事実に気づき、思わず声をあげるホタル。
…そう、今やホタルの目の前にいるのは、ホタルと同じ格好をした一人の少女であった。
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