番外編
Tonight
潤一が風呂に行ったあと、さっき聞いた話を思い返していた。
「どうした?」
無言で桃を見つめていたせいか、不思議そうに真幸が声をかけてきた。
「―――もし、『瞳子』に会えるとしたら、なんて言う?」
少し目を見張って、考えるような素振りを見せた。
「んー? そうだなぁ……まあ、強いてあげれば、『博人を産んでくれてありがとう』かな」
真幸の人の良さには呆れるばかりだ。
あんなひどい目にあって、ずっと苦しんでいたのに。
「そうは言うけどさ。出産って命がけなんだぜ。10か月、身体の中で育てて痛い思いして産んでさ。『瞳子』は身体が弱かったから、自分の命と引き換えにするつもりだったんじゃないかな」
「…育てられないのに産むのは無責任じゃない。まわりに迷惑かけてさ」
俯いた俺の頬に真幸の指が触れて、顔を上げさせられた。
「まあ、そう思う気持ちも分かる。それは息子であるおまえの権利だしな。だから代わりに俺が感謝するんだよ」
温かい手で両頬を挟まれ、引き寄せられる。
「『俺に博人をくれてありがとう』ってな」
「…キザだよ。俺、どんな顔をすればいいの?」
「いつものエロい顔すれば、いいんじゃね?」
間近に黒々とした眼が迫り、唇が触れる。
軽く触れてから離れて、食むように唇と舌が動いた。真幸主導のキスに身を任せると、身体の芯から愛しさが込み上げてくる。
真幸のちょっと抜けたおおらかさには、敵わない。俺の足りない部分をいつも補ってくれる。
俺は神も仏も信じないけど、真幸のことだけは信じるよ。
真幸の言葉だけを信じる。
肩を抱き寄せると主導権が自分に移り、薄く真幸が笑うのが分かった。
ピアノの前に立ち、蓋をあける。
潤一はあなたを優しそうな人だと言い、真幸は許すと言う。
ふたりにそう言われてしまっては、俺だけが憎み続けるのは難しいんだ。
只でさえ亡くなった人を恨み続けるのにはパワーがいるし、年月と共に負の感情は薄れていくから。
だから、今は両親に預けてくれた事に感謝する。
あなたが普通の結婚をして俺を産んでいたら、真幸とはただの従兄弟同士で、たまの冠婚葬祭に顔を合わせるだけの存在だったかもしれない。
真幸の結婚式に従兄弟として招待されるなんて、考えただけでぞっとする。
お父さんが言ったように、今となってはあなたが何を考えていたのか、もう分からないし、あなたも理解してほしいとも思わないだろう。
本当の父親が誰かなんてことも、俺はどうでもいいんだ。
俺のすべての基準は真幸なのだから。
きっと、人としてどこかおかしいのかもしれない。
ふ、と息を吐いた。
息子として、あなたに出来る事は、俺には何もないんだ。
真幸を手に入れ、俺は俺の人生に満足している。
だから、あなたももう俺達に負い目を感じることはないよ。
鍵盤に視線を落とすと、白い細い指が見えたような気がした。
その鍵盤を叩くと、ぽーんと高い音が家中に響き渡った。
音の余韻が消えると同時に、指も消えた。
その日を境に、潤一が彼女の話題をする事は二度となかった。
End
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