第23話
その日は不思議な夜だった。
客間のピアノの前に座って、彼女が何か弾いている。
音は聞こえないし、彼女の声も聞こえないので、客間に座って、ただピアノと彼女を見ていた。
白い肌と華奢な細い身体。どんな声で、どんな喋り方をするんだろう。
まーくんのような透通った声? 博人くんのような包み込むような優しい声?
分からないんだ。やさしげな佇まいのあなたが、なぜ二人を傷つけたのか。
どうして、博人くんを道連れにしようとしたの?
何が苦しくて生きるのを諦めてしまったの?
あなたがここにいるのは、後悔しているから?
それとも、許しが欲しいの?
まーくんを苦しめ、博人くんを傷つけたことに対して。
俺は知ってるよ。
母親と暮らしていた頃、貧乏だったから古いアパートや建物に住んでいた。
古い家には、いろいろなものが憑きやすい。
そういったものたちは、ピアノの音に限らず楽器の音を嫌う。
この家は古いにも関わらず、あなたがいるから悪い気のあるものは近づかないし、悪さもしない。
まーくんと博人くんが住み始めた頃からピアノの音が聞こえるようになったって、裕くんが言ってた。
ずっと、まーくんと博人くんを守ってたんだよね。
「どうした? ピアノ弾かないの?」
襖を開け放した隣の居間から博人くんが声をかけてきた。
博人くんは居間の卓袱台でパソコンを開き、データ整理をしている。
まーくんは仕事で遅くなるって言ってたし、ヨシくんは友達のところに泊まると言っていたので、博人くんと二人だけだ。
「うん。今日はやめとく」
そう言って、博人くんの傍に行くと、何か飲む?と聞いてきたので、俺は台所へと向かった。
「俺が用意するよ。何がいい?」
「じゃあ、カフェオレお願い。スティックのでいいよ」
俺も同じものを淹れて座ると、博人くんがまっすぐ俺を見た。
「そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
「えっ…?」
心臓が跳ねた。博人くんは何か気づいてたのかな、彼女のこと。
「……なに?」
「何か見えてるんじゃないの?」
「…なんで…?」
「子どもの頃から、時々ネコみたいに一点を見つめて固まってる時があったから。何か見えてるのかなって思ってたよ。この家にも何かいるの?」
彼女に気づいてるわけじゃなかった。
でも、よく見てるな。博人くんは、気づかないフリをして、いろいろ見ていることが多い。俺のことだけでなく、ヨシくんやまーくんのことも。
視線を上げて、横目に客間を見る。言ったほうがいいのかな。まーくんもヨシくんもいない今日は、話すチャンスなのかもしれない。
「あんな…女の人がおる。髪が長くて白い服着た人」
「定番だね」
博人くんが笑う。半信半疑な感じだ。
「その人、まーくんに似てる」
ふ、と博人くんの表情が変わり、少し間があってから、そう、と言った。
「その人、何か言ってる?」
「ううん。俺、声は聞こえへんから。ただ、いつもピアノを弾いてる」
もう一度、そう、と博人くんは言った。それから、カップを手にして、中身をじっとみつめている。
「潤一には、彼女はどう見えてるの?」
「あの人、まーくんに似とるけど、博人くんにも似とる。俺には優しい気しか感じへん」
ふうん、とどこか他人事のように博人は庭に視線を向けた。
整った横顔が、なんだか知らない人のように見えて不安になった。
「博人くんは、あの人のこと許せへんの?」
彼女の姿をずっと見ていたせいか、少し情が移ってしまったのかもしれない。
できれば、いつも俺やヨシくんに向けるような優しさを彼女にも向けて欲しいと思うんだ。
けど、博人くんの硬い表情は変わらなかった。
「たとえ、俺と間違えたからといって、真幸を道連れにしようとしたのは許せないよ。真幸が連れ去られたときの恐怖は、今でも忘れられないから」
その時、博人くんは3歳だったけど鮮明に覚えているのだと言う。
博人くんにとって、まーくんはすべてなんだね。
二人の間には誰も入れないし、離れる事も想像できない。ヨシくんは疎外感を感じるのか時々不満そうにしてるけど、俺は二人を見てるのが好きだ。
互いにはみ出した部分がピタリと合わさったパズルみたいで好き。
俺がじっと見ていることに気づいたのか、視線を戻して微笑んだ。
「真幸には言わないほうがいいね。怖がりだから」
「うん、わかってる」
「それに、お人好しだから。あんなことされたのに、簡単に許してしまうしね」
博人くんは優しい目をして言った。
まーくんのことを話すときの博人くんも、とても優しくて好き。
博人くんは、ただ、と言った。
「産む選択をしてくれた事には感謝してるよ。おかげで、真幸と好彦の兄弟になれた。潤一にも会えたし、両親には大事にしてもらったしね」
産む選択。俺とさほど変わらない歳で博人くんを産んだ人。
俺には、そんな状況事態、想像が出来ない。
「それに、潤一の母親にも」
「え、オカン?」
虚をつかれて、思わず高い声が出た。
「潤一を産んでくれたことに感謝してる」
そう言って頭を撫でられた。
「こんなイイ子の成長を見られないなんて、もったいない事だよね」
ストレートな言い方に頬が熱くなってきた。
昔から3人は、良いところをとことん褒めるスタイルなので、こっちが恥ずかしくなる。
「…どうした、潤一。耳、真っ赤だぞ」
「え、あ…」
いつの間にか背後にまーくんが立っていた。
「おかえり。ご飯は?」
「食べてきた。これ、お土産」
「あ、桃!」
博人くんの気持ちはもう、桃に移っていた。
ほんと、食いしん坊だな。
二人が台所に立つ後ろ姿を見ていると、なんだか安心する。
彼女に、二人はどう見えているんだろう。
俺にとっては、二人は幸せの象徴なんだけどな。二人が仲良く笑っててくれれば幸せ。
ぼんやりと見ている間に、いつの間にかテーブルの上に綺麗にカットされた桃が置かれていた。
甘い桃を3人で頬張りながら、何てことはない話をする、こんな時間がずっと続けばいいなと思う。
その後、先に風呂に入れと言われて風呂場へ行ったものの、下着を忘れたことに気付いて引き返した。
居間の前まできたとき、ふたりが身体を寄せてキスしているのを見てしまった。
まーくんの顔は見えなかったが、さっきとは全然違う博人くんの何もかも預け切った穏やかな表情に、なんだか胸が熱くなって足音をさせないように風呂へと戻った。
まーくんの前でだけ、あんな顔をするんだ、博人くんは。
ずっと、あんなふうに二人寄り添って生きてきたんだな。
もう子どもじゃないから、ふたりの間に割って入りたいとかは思わないけど、なんだか羨ましい。
あんなふうに、心も体も預けられる人がいるってことが。
湯船の中で脚を抱えて思う。俺もいつかそんな人を見つけられるんだろうか。
―――その時は、俺はオカンのことを許すことができるのかな。
風呂から上がり、部屋に戻ろうとした時、暗闇の中で博人くんがピアノの前に立っているのが見えた。
暗くて博人くんの表情は見えず、横に彼女が寄り添っているのに、博人くんは気づいていない。
博人くんは、鍵盤の蓋をあけると、ぽーんと一音だけ出した。
音が家中に広がるように響き渡り、静かに音が消える。
と、彼女が俺を振り返り、まーくんによく似たキレイな顔で微笑み、初めて唇が動くのを見た。
ありがとう?
さようなら?
そして、ゆっくり博人くんから離れ、煙のように消えた。
それ以後、二度と彼女が現れることはなかった。
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