第11話

帰りの新幹線の中でも、博人は俺の手を離さなかった。

マフラーで繋いだ手を隠していたので、まるで手錠でも嵌められているみたいだ、とぼんやりと思う。

窓に目を向けると東京を離れてから降り始めた雪が、吹雪のようになっていた。

列車は徐行運転を繰り返し、とうとう途中の駅で止まってしまった。

吹雪のため、運転休止と振替輸送の案内がアナウンスされた。

駅員の説明で振替輸送も途中駅までしか行かず、そこから先の保証がないことがわかると、近くのビジネスホテルを紹介してくれた。

博人は俺の手を取ったまま、席を立った。俺は手を引かれるままに歩き、一晩、ホテルで過ごし朝の運転再開まで待つということになった。


部屋に入り、俺がシャワーを浴びている間に博人は家に電話を入れていた。

「錦古里さんからお父さんに電話があったらしい。帰ったら話をちゃんとするって」

「そうか」

正直、何をどう話していいのか分からない。

ここまでくる間も、博人との会話は無く、ずっと錦古里さんの話を反芻していた。



子供から引き離された彼女は、ますます心を閉ざし、精神を病んでいった。

入院先からも、時折、抜け出しては家に戻ろうとすることもあったので、僕の父と坂本のおじさんは相談して、ウチに入院させることに決めたんだ。

体調の心配もあったけど、むしろ心の方が心配だったからね。


そして、あの事件がおきた。


あの日、お兄さん夫婦が瞳子ちゃんのお見舞いに病室を訪れていた。

子供ふたりは実家に預けて。

そのあと、お兄さん夫婦は僕の父に挨拶に行き、その間に彼女は病室を抜け出した。

病院を出るのを受付の人が見ていたが、たった今、お兄さん達が来ていたから、てっきり一緒だと思ったそうだ。

彼女が向かったのは、実家だ。

門から庭に入り、ちょうど庭に真幸くんがいて、博人くんと間違えたんだ。

出産以降、彼女は博人くんに会っていなかったし、真幸くんは顔立ちがよく似ていたから。

そして、真幸くんを抱いたまま、体力のない彼女からは考えられないほどの速さで海へ向かった。

土地を知り尽くしている彼女は、誰にも見られずに海へと行き、人気のない沖の海へと入っていってしまった。

近くにいた人が、真幸くんの泣き叫ぶ声を聞いて、ふたりを助け出したが、彼女はもう、その時には意識がなかったと聞いた。

真幸くんはすぐに病院で治療をして助かることができた。


「夏でよかった。もし、人の少ない秋や冬だったら、気づかれなかったかもしれないからね」


鎌倉の海を知り尽くしている彼女は、観光客のあまり立ち入らない場所から海へと入っていったのだという。

彼女がなぜ、そんな行動に出たのかは、今となっては誰にもわからない。



寒々としたベッドに入り、目を閉じる。

慣れない布団の中では眠ることなどできず、ただ頭の中は冴えていくだけだ。

背を向けて寝ている博人との距離も、今までこんなに離れて寝たことがあっただろうかというくらい遠い。

実質的な距離よりも、精神的なものが大きいのかもしれない。

いつもは手を動かせば、触れる距離にいるのに。

しんしんと雪が降る気配が窓の外からしてくる。

眠れないのか、博人ももぞもぞと動いている。

「真幸……寒くない?」

「…寒い」

暗闇の中、博人が動く気配がして、身体を慣れた体温が包んだ。

けれど、違和感を覚える。今、俺を抱いているのは、ほんとうに博人なんだろうか。

まるで昨日とは別人のように感じる。

そんなふうに思う俺は、薄情で冷たいんだろうか。

無言でいると、ますます身体にまわされた腕に力が入った。

「……真幸…何か言って…」

不安げに揺れる博人の声。こんな博人は初めてだ。

「おまえ…いつから知ってたんだ」

背中にぴたりと張り付いていた身体が震え、少し間があって、小さな声で博人は言った。

「……3歳」

「…は?」

思わず、起き上がって博人を見下ろす。

どういうことだ。

博人もゆっくりと身体を起こし、ベッドの上で向かい合わせに座る。

「真幸は覚えてないかもしれないけど、俺は、真幸が連れ去られる瞬間を見ているんだ」

「……覚えてんのか? おまえ」

なんだ、その記憶力。

博人は、言葉を探すように口をつぐみ、俺が見ていることに気づくと少しずつ話し出した。

「真幸は、あの赤いミニカーは俺がくれたって思ってるみたいだけど、あれは元々真幸のものなんだよ」



あの日、おじいちゃんが俺と真幸にミニカーをくれた。

赤いのを真幸に、青いのを俺に。

縁側のある部屋で、二人だけでミニカーで遊んでいたとき、俺の青いミニカーが縁側から庭に落ちた。それを拾ってくれようとして真幸は庭に降りたんだ。

その時、門の方から白いワンピースを着た髪の長い女性が庭に入ってきて、まっすぐ真幸に近づいた。

真幸は青いミニカーを持ったまま、その人を見上げると、その人は

「ひろと」

と呟いて真幸を抱き上げ、そのまま門から出て行ってしまった。

俺は驚いて、すぐに追いかけようとしたけど、縁側は高くて、うまく降りられずに転がるように庭に落ちてしまった。

大声で泣いたのを聞きつけて、お母さんやおばあちゃん達がかけつけ、俺は泣きながら説明した。

真幸が女の人に連れてかれた。髪の長い女の人だった。真幸のことを「ひろと」と呼んだ。

お母さんたちは、驚愕して家の中は大騒ぎになった。

大人達の間で『瞳子』という名が飛び交っていた。俺は、真幸を連れて行ったあの女の人が、『瞳子』という人なんだと、その時知った。

それから、お母さんは俺を抱きしめて、片時も放さなかった。

俺は残された赤いミニカーを握りしめて、ずっと泣いてたんだ。

真幸は俺と間違われたんだ。俺の青いミニカーを持ってたから、俺と間違われて連れ去られたんだって。

子供って、変なこと考えるよね。そんなことあるわけないのに。

それから夜になって、お母さん達と一緒に白い病院へ行くと、真幸が眠っていて、俺は心底ほっとしたんだ。

でも、お母さんたちは、真幸が目を開けてはいるものの、全く反応しないことに不安がってた。

俺は、ただもう真幸が戻ってきたことが嬉しくてベッドに近寄って、ずっと握りしめてた赤いミニカーを差し出した。

これを持ってれば、真幸は俺に間違われない。大丈夫だって思って。

真幸が、赤いミニカーを手に持って、俺の手を握った。

その時、俺はもう絶対真幸から離れないって思った。



3歳児の恐るべき記憶力。

その頃の博人を思い出すと、とにかく俺の傍らから離れず必ず手を繋いだ。あれは、俺が心配で傍にいたのか。

「5年前、お母さんと親戚のおばさんが話していたのを聞いて、『瞳子』が俺と真幸を間違えたのだとしたら、彼女が産んだのは俺なんじゃないかと思った。でも、確信はなかったし、真幸がウチの子じゃないって思ってるのを知っても、言えなくて…」

博人の長いまつ毛が震えて、伏せられた。

俺は、胸がしめつけられるような痛みに思わず博人の頬に触れた。

「おまえ……ずっと、それを一人で抱え込んでたのか?」

博人は驚いたような顔をしたあと、泣きそうな顔になった。

「真幸、お人好しにもほどがあるよ。ここは、俺を怒るとこでしょ? なんで、黙ってたんだって、俺を騙してたのかって」

「そりゃ…ショックは受けてるけどさ…」

そんなことより、あの小さな博人が秘密を抱えていたのかと思うと、そっちの方が胸が痛む。

博人が静かに息を吐いた。

「子供心に怖かったんだ。俺がウチの子じゃないって知ったとなったら、余所にやられるんじゃないか、真幸から引き離されるんじゃないかって」

博人の手が、俺の腕を強く掴む。

「今では、俺が『瞳子』の子供でよかったと思う。真幸はちゃんとしたウチの子なんだから、なんの負い目もないし、家を出る必要もない。家族と離れることなんてないんだ」

濡れた目が強く光る。

「俺はもう、出て行けと言われようが、いらない子だと言われようが気にしない。何が何でも家にしがみついて、絶対に真幸から離れない…!」

博人の真剣な目が俺を射ると、覆いかぶさるようにして抱きついてきた。

「離れたくない。ずっと、ずっと、真幸だけだった」

「博人…」

首筋に熱い息と嗚咽のような声が触れて、震える背中を抱きしめる。

こんなふうに泣く博人は何年振りだろう。

博人は昔から強くて、転んでも虐められても泣くことはなかった。ただ、俺と引き離されそうになった時だけ、泣き叫んで離れようとしなかった。

ああ、思い出した。俺が小学校に上がる時もそうだったな。

お母さんが、駄々をこねることを見越して、ぎりぎりまで博人に黙ってたんだ。

朝、別々の場所に行くことに気づいた博人が俺についてこようとした。お母さんに引きとめられて、泣き叫んでいた。

お母さんも、好彦を抱えて大変だったろうな。

ふふ、と思い出し笑いをすると、博人が顔をあげた。

「何、笑ってんの?」

赤い目で不機嫌に睨んでくるが、俺の頭の中は、あの可愛いかった博人でいっぱいだ。

「俺はおまえが可愛くて可愛くて仕方なかったよ」

「…急に、なに?」

不審げな表情に変わった博人の頭を抱え込んだ。

「俺の後をずっとついてきて、手放しで懐いてくれて、ぬいぐるみみたいに抱きしめても嫌がらず、傍にいてくれた。おまえのストレートな好意を受けていたから、俺はこの家にいてもいいんだ、と思えたよ」

ま、おれの勘違いだったんだけど。

博人のさらさらの髪を梳きながら、独り言のように呟くと、博人の腕がぐっと俺を引き寄せた。

「真幸…ごめん。本当のこと言えなくて、ずっと辛い思いをさせてて」

博人の声が胸に落ちる。

「いいさ。俺も、おまえも、いらない子なんかじゃないんだよ。少なくとも、お互いに必要だったんだ」

博人が顔をあげ、濡れた目でまっすぐに俺を見た。

その目が子どもの頃の博人と重なる。ずっと、俺だけを見ていてくれたんだな。

「俺こそ、ごめんな。俺が余計なことをしたばっかりに、おまえを傷つけることになって…」

「そんなの、いいよ。真実なんて俺にはどうでもいいんだ。真幸がいてくれさえすればそれでいい」

目の下のホクロを指でなぞると、その手を取られ、指先に唇が触れた。

「真幸と離れたくない。離れて暮らすなんて想像できないよ」

「博人…」

しっかりと掴まれた手は暖かい。

俺も、この手を失うことなんて考えられない。

二人、一緒にいるためには、どうすればいいんだろう。

いつまでも、このままというわけにはいかないんだろうな。

「…何考えてんの?」

「おまえと一緒にいるには、どうしたらいいのかなって」

「…俺と、ずっと一緒にいてくれるの?」

少し抑えた甘い声が胸に響く。唇が触れるくらい近くに顔が寄せられた。

「ああ…。おまえが、もういいって言うまで」

「そんな事、絶対言わないよ!」

口を尖らせる博人の頬に触れて引き寄せ、もう、何度したか分からないキスをする。

「…好きだよ、博人…」

キスの合間のほんの一瞬唇が離れた瞬間に囁くと、博人の身体が離れた。

「…初めて言われた」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

男でも見惚れる整った顔でキレイに笑う。

「おまえの顔も、声も指も全部好きだよ」

さっき、博人がしたように指に唇をつけると、泣きそうな顔になった。

「…どうしたんだよ」

「なんか…盆と正月が一度にきたみたい。運を全部使い果たした気分」

肩に顔を埋めて熱い息を吐くから、くすぐったい。

博人の体温を感じながら思う。きっと、博人と離れることなんてできない。

『瞳子』の子が博人でも俺でも、多分関係は変わらなかったんだ。

俺がひとりで勝手にからまわっていただけだったんだな。

背中に腕を回すと、するりと手が下着の中へと入り込んできた。

慣れた博人の手に身を委ねようとして、慌てて手を掴んだ。

「そこは、やめろって!」

どさくさに紛れて指を入れようとしたろ。

手を払いのけると、少し残念そうに手を離した。

「なんだよ。今のままじゃ不満か?」

「真幸と混ざりあいたいんだ」

ひとつになりたい、真幸の中に入りたい、と熱っぽく囁く。

「……そのうちな」

まだ心の準備ができてないから無理。

少し不満そうだが、夜着を脱がせてくる手には躊躇がない。

部屋は空調が利いているが、素肌を晒すとさすがに寒くて、二人して上掛けにくるまった。

触れてないところがないくらいに、ひたりと肌を合わせてキスを繰り返すと互いの間で硬くなったものが擦れ合う。

「なんか…久しぶり」

感触を楽しむように、俺に覆いかぶさっている博人が腰を揺らす。

そういえば1か月近く、キスも触れることもなかったな。

それを取り戻すかのように、俺が音を上げるまでキスは続いた。

「ん…あ…も、博人…!」

後ろ髪を引っ張ると、やっと唇を離した。

「なに?」

それでも、名残惜しそうに頬や耳元に唇で触れてくる。

「一晩中、キスしてるつもりか?」

結構、お互い限界だと思うんだけど。睨んで見上げると、いつもの意地の悪い笑みを向けてくる。

「キスだけで、イケるかなって思って」

「ばかじゃねーの」

互いに目を合わせて吹き出すと、そこからは気持ちよくなることだけに集中した。



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