第10話
指定された時間より少し前に病院の前にたつと、壁を塗りかえたのか記憶よりも綺麗な建物だった。
二軒隣が祖父の家だ。
鍵はないので、垣根越しに覗くと、梅の木の隙間から庭と雨戸を閉めた平家の古い家屋が見えた。
懐かしいが、庭はこんなものだったかな。もっと広いような気がしていた。
「俺たちが大きくなったんだよ」
と博人が梅の木を見上げた。
「おばあちゃんが元気だった頃は梅の実を送ってくれてたよね」
「ああ、梅干しやシロップ作ったりしてたな」
「もう、手入れもロクにできないもんね」
梅の木が大きくなりすぎている、と博人が少し残念そうに言った。
この家は寂しい。父が家を出、『瞳子』がいなくなり、祖父母が亡くなってからは、住む人はおらず時が止まったままなのかもしれない。
このまま朽ちていくのだろうか。
歩き出してから家を振り返ると、人気のない家はまるで亡霊のようだと思った。
錦古里病院は心療内科専門の病院だ。
診察室に通されると、穏やかそうな表情の医師が迎えてくれた。
年齢よりも若く見える。
「二人とも随分、大きくなったね」
錦古里さんは、整った顔立ちで声もよくとおり、話し方も静かな人だ。
「最後に会ったのは、坂本のおじさんが亡くなった時だったかな」
博人と顔を見合わせる。3年前の葬式の場で会っているのか。覚えていない。
「ああ、その頃、僕も今とはちょっと髪型とかも違ってたからね。見てもわかんないかも」
どんだけ、変わったんだよ。
「で、何が聞きたいの?」
診察室の椅子を進められて並んで座ると、まるで診察を受けてる気分だ。
「…叔母の『瞳子』のことを聞きたいんです」
錦古里さんの目が、すっと細くなった。
それまで、和やかだった雰囲気が消え、まるで値踏みするように俺らを見る。その鋭い視線に気圧されそうになるが、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。
「瞳子ちゃんね…。彼女の何を?」
「知っていることを全部」
錦古里さんは、ペンを手に取ると少し考えるように指で弄び始めた。
「…ふたりは、どこまで何を知ってるのかな?」
「彼女が、10代で子供を産み、兄夫婦に預けたこと。20歳で亡くなったこと。それだけです」
「誰から聞いた?」
口調が少し厳しい。
博人と視線を交わす。博人が口を開いた。
「親戚の人が話しているのを偶然、聞きました」
そう、と視線を落とした後、顔をあげた。
「人の口には戸を立てられないってことか。悲しいことだね」
そう言って、本当に悲しげな表情を見せ、静かに立ちあがった。
「噂話レベルのものを知ったところで、気持ちが悪いだけだろう。少し話が長くなりそうだから、場所を移そう」
応接室へと招き入れてくれ、暖かいお茶を煎れてくれた。
「てっきり、僕は、どちからかが心の悩みを抱えているのかと思って診察室へ通したけど、予想外だったね」
そう言って、彼は話し始めた。
僕と瞳子ちゃんは、親同士が仲が良かった事もあって、幼稚園から中学まで、ずっと一緒だった。
君たちのお父さんにもよく遊んでもらったし、家族ぐるみの付き合いをしていたんだよ。
彼女は、生まれつき身体が弱く、学校も休みがちだったから、僕がよくプリントなんかを学校から預かったりしてね。
気を許した相手にはよく話して笑う、明るい子だった。小さい頃から細くて華奢で綺麗な女の子だったよ。
「顔立ちは真幸くんによく似ていたね」
長い髪と透き通るような白い肌、大きな日本家屋の家に住む、ちょっとしたお嬢様って感じだった。
中学生になっても、同じように学校へはあまり通えなくて、友達もいなかったと思う。
その頃には僕も、疎遠になってしまっていてあまり顔を合わせることもなくなっていたけど、親同士が話す会話は見聞きしていたから、なんとなく事情は察していた。
高校も体力的に通学するのは無理だろう、と通信制にしたと言っていた。
その頃、君たちのお父さんが結婚することになったんだ。
引きこもり気味の彼女の唯一の楽しみは、東京で就職していたお兄さんが、たまに帰ってくることだった。
けれど、結婚をしてしまえば、もう別の家族になってしまう。
彼女は、ますます家に引きこもってしまった。
寂しかったんだろうね。
彼女にとっては、気を許せるのは家族だけだったから。
それから、少しずつ彼女は心を閉ざしていった。
「閉ざして?」
「そう」
「どういうふうにですか?」
「……自己否定感が強くなっていったんだ」
やがて、ウチの病院に通院するようになった。
気持ちの浮き沈みが激しく、たまにふらりと外に出てしまうこともあった。
ある夏、東京から海の家に住み込みでバイトに来ていた大学生と親しくなったらしい。
時折、見かけぬ年上の人と歩いているのを見るようになった。
その時の瞳子ちゃんは、明るく楽しそうだったから、本来の彼女を取り戻しつつあるように見えた。
けれど、夏が終わり学生たちが東京に戻ると、彼女はまた一人に。
それから、しばらくして彼女が妊娠していることが分かった。
心臓がどくん、と跳ねた。
博人の手を握る力で、意識を保つことができた。
「相手は…その大学生ですか?」
「わからない。彼女はその事については一切、口を開かなかった」
彼女に問い詰めても、頑として相手の名を口にしない。ただ、産むとだけしか言わなかった。
当然、まだ未成年でもあり、何より彼女の身体が出産に耐えられる保証もなかった。
周囲は反対したが、彼女は産むの一点張り。
根負けして産む事になったが、さっき言った通りいろいろ不安があったから、僕の父親の知り合いの病院で出産することになった。
心配に反して、元気な男の子が産まれたよ。
そして、新たな問題が出てきた。その子を誰が育てるかだ。
瞳子ちゃんは出産には耐えられたものの、ますます心身の調子を崩し、入退院を繰り返すようになってしまっていたから。
「高齢のご両親には荷が重い。そこで、名乗りをあげてくれたのが君たちのお母さんだ」
「え…、父ではなく…?」
錦古里さんの表情が柔らかくなる。
「すごい人だね。自分だって、まだ幼い子を抱えていて大変な時なのに、言わば他人の子を育てるっていうんだから」
今、なんて言った?
「…待ってください、母に子供がいた?」
身を乗り出して問うと、錦古里さんは視線を俺と博人、交互に向けた。
「そうか…誤解があるんだな」
「…え?」
「瞳子ちゃんが産んだのは、真幸くんじゃない」
息をのむ俺の手を、博人が強く握った。
「博人くんだよ」
思わず博人の方を見ると、静かな目で俺を見ていた。
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