第8話

予備校に提出する書類に印鑑をもらうのを忘れていたことに気づいた。

両親は明日の夕方に帰ってくるが、明日には提出してしまいたい。

長男の特権で、印鑑を置いてある場所は教えてもらっているので、その箪笥の棚を開いて印鑑を取り出したとき、ひっかかるように手紙が落ちてきた。

中から、白い紙に包まれた写真が半分飛び出していたので拾って差出人を見ると、「錦古里一志」と書かれている。住所は鎌倉。

そういえば、お祖父さんの家の近くに錦古里病院というのがあったな。

珍しい名前だから覚えている。そこのお医者さんか。

戻そうとして、手紙の文面がちらりと見えて、手が止まった。

『瞳子』

おそるおそる手紙を開くと、丁寧な縦書きの文字が並んでいた。

内容は、父親の病院を継いだ報告と、父親の遺品整理をしていて「『瞳子』ちゃんの写真が出てきたので送ります」ということだった。

瞳子の写真。

白い紙を外して写真を取り出す。古い。20年近く前の写真だ。

病院の前、祖父母と白衣を着た医師の間に立つ、白いノースリーブのワンピースを着た、華奢で細い手足の女性。切れ長の目と長い髪。


どくん、と心臓が跳ねた。


これが『瞳子』。

俺は彼女を知っている。


昔見た写真は子ども時代のおかっぱ頭のものだったから、気づかなかった。

埋もれていた記憶が怒涛のように押し寄せて、立っていられずに膝から崩れ落ち、畳に手をついていた。


暗くて冷たい海。

恐くて俺を抱いている女の腕から逃れようとするが、細いのにすごい力で抱きしめられていて、逃げることができない。

やがて口元まで塩辛い水がきて、腕や首に濡れた長い髪がまとわりつく。

いやだ、助けて、と叫ぶと口の中に海水が入り、苦しくて噎せる。

女は俺を抱きしめながら、ごめんね、ごめんねと繰り返していた。

苦しい、寒い、恐い、恐い、恐い。

女もろとも暗い海に引きずり込まれていく。


彼女が『瞳子』だったのか。


『瞳子』は身体が弱くて、俺を育てられずに両親に預けたのだと思っていた。

少なくとも、産んでくれたからには、そこに愛情があったのだと信じたかった。

両親に俺を委ねてくれて、ありがとうと言いたかった。


でも、違ったのか。

彼女は俺と死のうとしていたのか。

だとしたら、俺は…、俺は…。


息が苦しい。まるで海の底に沈んでいくみたいだ。

もがきながら、手を伸ばす。

博人…!



「真幸」

頬を軽く叩かれ、重い瞼を上げる。

目の前には、暗闇の中でも見慣れた白い顔。

「こんなにうなされるのは、久しぶりだね。…大丈夫?」

時計を見ると、深夜0時をまわっている。ちゃんと息ができることを確認して、大きく息を吐いた。

博人は、いつもと少し様子が違うと思ったのか、心配そうに頬から首まで手を這わせてくる。

少し肉厚で無骨な指が、女性の華奢な指の感触を忘れさせてくれる。

もっと触って欲しくて、触れていない方の指に指を絡めた。

「博人…もっと、触って」

驚いたような表情を見せる博人にしがみついて、唇を重ねる。

舌を絡めると、強い腕が俺を抱きすくめて、耳元に息がかかる。

「真幸、どうしたの?」

眉を寄せて覗き込む博人から逃げるように目を伏せた。


思い出したことは話せない。まだ、自分自身、消化しきれないことを口に出すなんてできないんだ。

初めて博人に秘密を持ってしまった。

手が離れてしまうのが怖くて、絡めた指にぎゅっと力を入れる。

「…気持ちよくなりたい」

まだ不信感をぬぐいきれない博人の顔が、少しだけ優しくなる。

「……いいよ…気持ちよくしてあげる」

繋いでいない方の手で、下着を器用に下ろし触れてくる。

慣れた指とキスが俺の思考能力を奪って、気持ちいい事だけでいっぱいになっていく。

もう、何も考えたくない。

博人がくれる快楽だけを追って、今だけ全てを忘れることにした。



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