第4話
今日はピアノ教室に潤一を迎えに行く日だ。
部活のない博人と学校帰りにピアノ教室へ行くと、先生に怪訝な顔をされた。
「お兄さんのお友達っていう人が迎えにきて、潤一くんを連れて行ったのよ。同じ制服を着てたから、てっきり…」
博人と顔を見合わせる。人に頼んだ覚えはない。
「それ、どんな奴でした?!」
「短髪のメガネじゃなかったですか?!」
具体的な聞き方に、驚いて博人を見る。
「ええ、そうよ」
ここへ来て事態を把握したのか、先生も青い顔をしている。警察への連絡を頼んで、教室を飛び出した。
「おいっ! なんか心当たりがあんのか!」
どういうことだ?
「話は後。俺らがよく遊んだ場所から探そう」
人気のないところと言えば、住宅地から離れた公園、神社、林の奥の空き地。
潤一の痕跡を探しながら、足早に住宅地から離れた場所へと進む。
「潤一にも、早くケータイ持たせとけば良かった」
そろそろ安全のため、持たせようかと話していたところだった。
「あれ、潤一のカバンじゃない?」
道端に不自然に落ちていたトートバックの中にはピアノの教本が入っていた。
「どっちだ? 神社か、空き地か」
神社へ続く、暗い道に目を凝らすと、また何か落ちている。
「潤一の靴だ」
博人がスマホを取り出すのを横目に、全力で神社に向かって走った。
昼間は子供の遊び場になるが、人があまり出入りしない小さな神社は夕方には真っ暗になり、時々変質者が出ると噂になっていたので、好んで近づく人はいない。
「潤一! どこだ!」
鳥居をくぐって、境内までの階段を駆け上がったが人の気配はない。
ここじゃないのか。間違ったのか俺は。
その時、あー、と神社の裏の林からかすかな子供の声が聞こえた。
「潤一!」
立入禁止のフェンスを乗り越え、高く茂った草をかき分けていくと近くで声が聞こえる。
「まぁー…! あー………くん!」
地面に押さえつけられた状態で、腕を必死に伸ばしている潤一に覆いかぶさる俺と同じ制服の後ろ姿が目に入った。
一瞬で、頭に血が上った。
「…! てっめぇ、何してんだ!」
男が振り返るのと同時に脇腹を蹴り上げ、起き上がった潤一を抱き上げる。
泥で汚れた手で必死にしがみつく潤一を肩に乗せ、這いつくばって逃げようとする男を、もう一度腹から蹴り上げた。
ひっくり返って晒された顔を見ると、あの駅前で見た顔だった。
「おまえ、田村か?!」
必死で逃げようとする背中を足蹴にして、うつ伏せになったところを動けないように背中を踏みつける。
「どういうことだ! なんでこんなことした?!」
「真幸!」
フェンスを乗り越えてきた博人が走り寄ってくると同時にパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「もういいよ、警察がくるから」
博人はそう言って、うずくまっている田村に近づいた。
嗚咽を漏らす潤一を抱え直しながら、ふたりの様子を見ていると、博人が田村の耳元で何かを囁くと見るからに怯えたような顔をした奴は、抵抗もせずに警察に連れられていった。
潤一を病院に連れて行くからと、婦警さんが手を差し伸べても潤一は離れようとしないので、そのままパトカーに乗り、俺と博人は病院へ付き添うことになった。
両親にも連絡が行き、母がすぐに来るという。
潤一は見たところ、大きな怪我はなさそうだったが、怯えきっていてしがみついたままだ。
「がんばって声出したな。よくやった。もう大丈夫だからな」
んー、んー、と唸るような声だけを出す。
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃだ。横から博人が顔を拭っているが、後から後から出てくる。
宥めるように背中をぽんぽんと叩くと、息を吸って、まーくんと言った。
病院につくと、母がすでに待っていて潤一と一緒に病室へと入っていった。
それを見送っていると、博人が俺のシャツをぱたぱたとはたいた。
「真幸も泥だらけだ」
「ああ…」
泥で汚れた潤一をずっと抱いていたからだ。
地面に押さえつけられても、あの小さな身体で必死で抵抗したのだろう。また怒りがぶり返して、思わず拳を握りしめていた。
それに気づいた博人が手に触れてくる。
「キスしたいけど、ここじゃダメだよね」
「…当たり前だろ」
けど、手は繋いだまま、人気のない待合室のソファに座った。
「潤一の声、初めて聴いた」
「そうだな」
「初めての言葉が、『まーくん』だったね」
ふふ、と博人が笑う。
久しぶりでうまく舌が回らないのか、潤一はずっとその言葉を繰り返してしがみついていた。
結局、潤一は一晩入院することになり母が付き添うことになった。
家に帰ると、父と好彦が待っていて説明を求められ、部屋に戻ったときは深夜になっていた。
風呂からあがって、ベッドに突っぷすと博人が俺の本棚の前に立って、赤いミニカーをいじっていた。
子供の頃、博人にもらったやつだ。
好彦が以前、いたずらして壊してしまったとき、博人がそれまで見たことのない剣幕で叱り飛ばした。
それ以来、好彦の手が届かない高い棚に置いてある。
「もう、寝ようぜ」
「うん」
まるで、壊れ物を扱うかのように古びたミニカーを丁寧に棚に戻して、ベッドに入ってきた。
「なんだよ、おまえはそっちだろ」
うつ伏せの俺の身体に乗り上がってきた博人を振り払おうとするが、なかなか上手くいかない。
疲れて、力も出ないし、もういいや、と思っていると、首のあたりに柔らかいものが触れた。
「潤一が無事でよかった…」
消えそうな博人の声。
「そうだな」
頸に唇をつけたまま喋るから、くすぐったい。
「博人、重い。いい加減に…」
振り返ろうとして、ちょうど尻の間に硬いものが当たっているのに気づいた。
「おいっ!」
「んー、せいりげんしょう」
疲れると、なるよね、とまったく動じてないけど、いい加減にしろ。
「おりろっつーの。あっ、触んなよ!」
「真幸は? なんない?」
「おまえが、触らなきゃ、なんねーよ!」
どかそうとしても、弱みを握られていて動けない。
おまけに、運動部の博人と違って、久しぶりに全力疾走した挙句、大立ち回りをして、その後ずっと潤一を抱えていたおかげで、もう身体は言うことをきかないんだ。
「俺はもう、くたくたで動きたくねぇんだけど」
「うん。俺が全部するよ。後始末までちゃんと」
あっ、そう。
なら、もういいや、と力を抜いた身体を仰向けに反転させられた。
整った顔が間近に迫って、唇が重ねられる。慣れた柔らかさに、少しだけほっとした。自分でも気づかないうちに、ずっと緊張状態が続いていたのかな。
下着を取られ、互いの熱いものが重なると息が漏れる。
博人が全部してくれるというので、開いた手で博人の顔に触れる。
父親に似ているけれど、全然違う。博人という生き物。
左目の下のホクロが、なんかいいんだよな。
「ん、なに?」
「きれいな顔だな、って…うぁっ」
ゆるやかに動いていた指が急に、強くなった。
「は…っ……あ……まてよ、……強いっ…!」
ごりごりと硬くなった熱いものに擦られて、声が出る。
「好きだよ、真幸」
熱い掠れた声に、俺も、と言いそうになって唇を噛んだ。
几帳面な博人にすべてを任せると、そこまでしなくてもいい、というくらい、すみずみまでキレイに整えてくれた。
隣に入った博人が身体をぴたりと寄せて、手を繋いできた。
子どもの頃はよく、こうして眠ったけど、最近はしなくなっていたから珍しい。
「おまえ、なんで犯人が田村だってわかったんだよ」
博人の手に力が入った。
「あいつ、昔から真幸に執着してたからね」
「どういうことだ? おまえの同級生だろ」
博人は少しためらったあと、中学時代の話をした。
「あいつ、写真部だったんだけど、真幸の隠し撮りをずっとしてたんだよ」
「…は?」
最初は小遣い稼ぎでやっているのかと思っていたが、どうやらそうではなく、完全に自分の趣味だということが分かって、博人はすべてのフィルムとデータを回収したのだという。
「けっこう際どいのもあったよ」
着替え中のとか。
「すっげぇ、怖い! すっげぇ、怖い!」
なんだよ、それ。
「だから、この間、俺らと同じ制服を着てるのを見たとき、ちょっとヤバいかなって思ったんだよね。なんか、拗らせてんのかなって。まさか、潤一に目を向けるとは思わなかった」
一生の不覚だと、心底悔しそうに博人は唇を噛んだ。
「…おまえ、取り上げた写真はどうしたんだよ」
「処分したよ。あいつの目を通した真幸が写ってるなんて、気持ち悪いから」
なら、いいけど。
なんか、疲れたな今日は。ふー、と息を吐くと、博人が腰を抱き寄せた。
「だけど、大丈夫。もう、真幸には絶対近づかないから」
「…あの時、あいつに何言ったんだよ」
博人は笑って、唇に触れるだけだった。
なんか、怖いよ、おまえ。
博人の言ったことは本当になった。
田村は、最初はいろいろ言い訳をしていたが、最終的には、いたずら目的で潤一を連れ出したのだと供述したらしい。
それなりの処分をということになり、その後、田村一家は早々に引越してしまった。
引越し先は知らない。
「あいつ、俺らの高校に入りこんでたんだよ。多分、真幸狙いだったと思うんだけど、証拠をつかもうとしていた矢先に、あんなことになって…。高校への不法侵入と真幸を盗撮してたのを、バラすって言ったのが利いたね」
と、後から博人が歯嚙みしながら言った。
「あいつにも、プライドみたいなものがあったのかもね」
ふん、と鼻を鳴らす博人の顔は見たことがないくらい冷たいものだった。
こいつだけは敵にまわしたくない、と心底思う。
潤一はというと、ショックは受けていたものの、次の日には落ち着きを取り戻していた。
何をされそうになっていたかは、知らないほうがいい。
そして、少しずつだが、言葉を喋るようになったのだ。
「まーくん、ほんま、ありがとう」
病室に行ったとき、潤一が言った。
感動的な場面にも関わらず、その顔から関西弁が出たのがおかしくて、博人とふたりで吹き出してしまった。
萎縮しそうになる潤一を抱きしめると、はにかむような表情を見せた。
正面から抱きついてきたので、そのまま膝に乗せてベッドに座り、昨日のことを聞いた。
潤一は、警察や母に、田村は俺の友達を装ったのだと話していたのだ。
やっぱりか。
「ごめんな。俺のせいで怖い思いさせたな」
肩に顔を埋める潤一の頭を撫でながら言うと、顔をあげた。
「ちゃうねん。まーくんのせいやない」
つっかえながら潤一が話すところによると、奴は俺の友達だといい、言葉巧みに潤一を連れ出したらしい。
俺に関して随分詳しく話したので、つい着いて行ってしまったのだと、潤一は言った。
「まーくんの秘密、教えてくれるって言うたんや」
しょんぼり、と潤一はうなだれた。
なに、それ。ほんと、こえーな。
「もう、知らない人に着いて行っちゃだめだよ」
博人が潤一の頭を撫でながら言うと、素直に頷いた。
家に帰ったその夜、両親と一緒に寝かせようかと言っていたら、
「まーくんがいい」
と言うので、俺らの部屋で寝ることになった。
そうなると、当然、
「俺も!」
と好彦がついてきた。
子どもとはいえ、二人が間に入るとベッドは狭い。
好彦が博人の方のベッドに入ると、
「ヨシくん、もし寝相が悪かったらベッドの下に突き落とすからね」
好彦のほっぺを引っ張りながら、にこやかに博人は言った。
灯りを消して寝る体勢に入ると、潤一が抱きついてきた。
「あんな…、ずっと言いたかってんけどな…」
言い淀む雰囲気に、肩を抱き寄せた。
「なんでも、言っていいぞ」
頭を撫でると肩に顔を押し付けてくる。
「…ピアノ、弾かせてくれて、ありがと」
潤一を見て、視線をあげると博人と好彦がこっちを向いていて、目が合った。
「ずっとピアノが弾きたかってん」
潤一が話すところによると、母親はバーでホステスをしていたようだ。
そこでは、ピアノを伴奏に歌を歌う人がいて、いつもステージの横からそれを見ていた。
その店でピアノを弾いていたおじさんに、小さい頃から抱っこされてピアノの弾き方を教えてもらったが、曲は全部、耳で覚えたので楽譜の読み方も知らず、曲名も曖昧だった。
博人が、だからか、と息を吐いた。
潤一が弾く曲は、クラシックもあればジャズもあり、懐メロっぽい歌謡曲なんかもあって、ジャンルがぐちゃぐちゃだったのだ。
「だからな、まーくんが膝にのっけてくれてピアノを弾いたとき、めっちゃ、嬉しかってん」
そのピアニストの事が潤一は好きだったのだ。
「いつも優しくて、お菓子をくれたりしてな」
でも、それを母親は良い顔をしなかったのだという。
「ピアノ弾きたい言うたら、おかんが怒ってん。そんで、おかんが、そのお店に行かなくなって…気づいたらおばあちゃん家に置いてかれてん。ピアノ、弾きたい言うたから捨てられたんかな、と思って」
そしたら、なんか、喋れんことなってしもうてん。
最後は消え入るような声だった。思わず、ぎゅっと潤一を抱きしめる。
「子どもがそんなこと考えなくていいんだよ。言いたい事、言っていいんだ。やりたい事、やりたいって言っていいんだよ」
「俺のこと、嫌いになったりせぇへん?」
「ならねぇよ」
ぎゅうとしがみついてくる小さな身体が愛しい。
いろいろ我慢してたんだな。もっと早く気づいてやれたらよかった。
気がつくと、潤一の背中から好彦が抱きついていた。
「そんなこと、気にすんなよ! 俺も兄ちゃんたちも潤一の味方だかんな! 言いたいこと言えよ!」
好彦ごと、博人も潤一を抱きしめた。
潤一は頭をぐりぐりと胸に押し付けて、小さく泣いた。
脇腹に衝撃を受けて、目が覚める。
潤一の膝が、きれいにヒットしたのだ。
「いてぇ…」
子供と寝るのは危険がいっぱいだ。博人のベッドを見ると、好彦が大の字になっていて博人の姿がない。
まさか、下に落とされてるんじゃ…。
「真幸、大丈夫?」
枕元で声がして、反対側を振り向くと、博人がベッドに凭れて床に足を伸ばして座っていた。
「こっちにいたのかよ」
俺も、ベッドを降りて横に座る。
「ヨシくんの寝相が予想以上に悪かった」
眠そうに博人が凭れてきた。慣れた体温が心地好い。
「潤一が思ったより、落ち着いてて良かったね」
何かあったら、絶対あいつを許す気になれなかった、と言った。
それは、俺もそうだ。
ベッドの上のふたりの様子を見つつ、俺は潤一の言葉が気になっていた。
「なあ…、田村が言っていた俺の秘密ってなんだと思う?」
博人は横目で俺を見ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「潤一の気を引くための方便だと思うけどね…。たとえば、左のお尻にあるホクロとか?」
「えっ?!」
思わず声が出て、慌てて口をおさえる。
「なんだよ、それ! 田村が知ってるわけないだろ!」
小声で博人を責めると、ますます嫌そうな顔になった。
「着替え中の写真もあったって、言ったでしょ。多分、水泳の授業の時だね。男だけだからって、マッパになるのやめなよ」
後姿だったから、前は写ってないから大丈夫だよ、と言うけれど。
「それ、ちゃんと処分したんだろうな」
博人の腕を取って詰め寄ると、ふいっと顔を反らした。
おいっ。
「まーくん…?」
ベッドから聞こえてきた声に、ふたりして振り向く。
潤一がごろんと寝返りを打って、好彦の方へと移動した。
寝言か、とほっとしたと同時に気が抜けた。
潤一が、俺のように怖い夢を見なければいい。それだけが不安だったんだ。
俺の心を読んだように、博人の手が触れる。
「潤一は大丈夫だよ。あのヨシくんが、もう『お兄ちゃん』になってるからね。怖いもん無しだよ」
「…そうだな。俺におまえがいてくれたみたいにな」
博人が驚いたように目を見開いた。指を絡めて握ると、きゅっと力が入った。
「逆でしょ。俺に真幸が必要だったんだよ」
そのまま互いに身体を寄せ、引き寄せられるように唇を重ねた。
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