第3話

潤一がこの家に来てから2ヶ月が過ぎた。


医者には喉も声帯も異常がないので、声が出ないのは精神的なものだろうと言われた。

ほとんど学校に行っていなかったせいで、学力は低いが知能に問題はないということだったが、しゃべれないということもあって支援学級に席を置いて様子を見るということになった。

「なんかあったら、俺に言えよ」

お兄ちゃんぶりたい好彦が、毎朝元気に潤一を連れて登校してくれるので、大変助かる。

最初は振り回されがちだった潤一も、すぐに慣れて、体つきもだいぶ子供らしくなってきた。

ガリガリだった身体も、俺と博人がせっせと食べさせた成果が出て肉がつき始め、ほっぺたもふっくら赤くなって可愛いくなった。

相変わらずデコが目立つけど、目鼻立ちが整っているので、ハーフみたいに見える。


意外だったのがピアノに反応したことだ。

テレビから流れてくる音楽に合わせて、指でテーブルを叩いていることに、博人が最初に気づいた。

「ピアノ、弾いたことあるの?」

博人の問いかけに、首を振って否定した。その様子が少し怯えているように見えたという。

ある時は、たまたまつけたチャンネルでクラシックのオーケストラ音楽が流れた時、食い入るように見ていた。

両親にその話をした後、母が試しに音楽教室へ連れて行ってみたが萎縮してしまって、何も出来なかったらしい。

「あれは、弾いたことのある指使いだったけどな」

博人は考えるように言った。

俺も思い当たる節がある。

「この間、音楽ゲームをやらせたら、やたらリズム感が良かったんだよな。なんか、ピアノに触れちゃいけない訳でもあんのかな」

潤一の生い立ちは謎だらけで、少しずつ紐を解いていくしかない。

博人と目が合う。

「俺の担任、音楽の先生なんだよね。ちょっと音楽室を借りて潤一を連れて行ってみようか? 人がいないところならピアノに触るかもよ」

「それいいな」

母に了解を得て、学校帰りに学童へと迎えに行った。

「今日は、俺らの高校に行くぞ」

手を繋いで電車に乗り、下校する生徒の流れを逆に教室へ向かう。不思議そうに振り返る生徒もいるが、気にしない。潤一がきょろきょろ珍しそうに見ているほうに、意識が向いていた。

音楽室の前で博人が待っていた。

人のいない音楽室は意外に広く、教室の前にアップライトのピアノがある。

途端、潤一が後ずさった。

逃げないように抱き上げて、ピアノの前に座る。

「俺らしかいないから、好きに弾いていいぞ」

膝の上で、俺と博人の顔を交互に見ている。

潤一の手を取って改めて見ると、子供にしては綺麗な長い指をしていた。

その指をとって、適当な鍵盤を叩く。

ポーン、と音が響くと、潤一の身体がぴくりと揺れた。

もう一度、確認するように俺と博人の顔を見てピアノに向き合った。


ひとつ音が出ると、もう止まらなかった。

指先から途切れなく流れる音が教室中に響く。

一心不乱に弾き始めた潤一の身体がずり落ちないように、支えながら、顔を見ると目がきらきらしていた。

横に立っていた博人も驚いている。

弾けるんじゃないか、とは思ってたが、まさかここまで本格的だとは思わなかった。

楽譜も見ずに、子供がこんなふうに弾けるものなのか。

「すごいよ、潤一」

「…おまえ、天才じゃね?」

興奮のためか、ほっぺたをますます赤くした潤一は、はにかむように笑った。

様子を見に来ていた博人の担任も、潤一のピアノを聴いて、とても褒めてくれた。



帰りの電車の中で、興奮して疲れてしまったのか潤一は、うつらうつらしている。

「今日は収穫があったね」

「ああ、びっくりだな。どこで習ったんだろう?」

博人が母から聞いた話では、潤一の母親はまだ若いうちに家を出て、水商売をしていたという。

「特に、音大を出てるわけでもないし、ピアノを生業にしていたわけでもないみたいなんだよね」

潤一のピアノを聴いた先生は、ちゃんとした指遣いをしていると言った。それどころか、すぐにちゃんとした先生に師事した方がいいとまで言ってくれた。

「お母さんに、相談だね」

博人は二人の間で眠っている潤一の頬を突いた。

駅に着いても起きない潤一を背負い、博人に鞄を持ってもらって駅を出ると、もう暗くなり始めていた。

「好彦もちょうど塾が終わったみたいだね」

スマホを確認して、博人が言う。

塾は駅に近いので、ついでに迎えに行くため駅前の通りを歩いていると、博人が立ち止まった。

「どうした?」

反対側の歩道を見つめる視線の先には、俺らと同じ制服をきた男子高校生が歩いているのが見えた。

「知り合いか?」

「うん…。真幸は覚えてる? 同じ町内にいた田村って」

「んー? いや、覚えてねぇな」

「俺と同じ年で中学まで一緒だった。さっきの田村だよ」

「あー、よくお前にくっついてた奴か。なんだ、俺らの高校に入ったのかよ」

「いや…受験したけど落ちたんだよ、あいつ」

「え、だって制服…」

「だから、おかしいなって思ってさ」

なに、その怖い話。

潤一を揺すりあげると、ぎゅっと肩をつかんできた。

「起きたか? 自分で歩けるか?」

ぎゅうっと抱きついてきたので、仕方なくそのまま好彦を迎えに行くと、好彦が嬉しそうに走り寄ってきた。

「あ、潤一、いいなぁ。博人くん、俺もおんぶ!」

笑顔でほっぺたを抓られていた。


その後、話はトントン拍子に進み、潤一にピアノを習わせようということになった。

ピアノを買う算段も両親は進めているようだ。

潤一はというと、俺や博史が褒めたことで、ピアノを弾いていいのだと認識したらしく、嬉しそうにしていた。

ただ、やはり大勢の人がいるところは苦手らしく、家から10分ほどの個人宅で教室を開いているところへ通うように決めた。

よっぽど好きなのか、潤一は嫌がらず毎週きちんと通って、年配の先生にも気に入られたようだった。

これで、話せるようになったら、もっといいんだけどな。

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