出会いと始まりの音(4)

 再び上靴に履き替えた僕はホームルーム棟の階段を上っていく。


 校舎は数分前までの喧騒が幻だったのではないかと疑うほどの静寂に包まれていた。この棟は名の通り、クラスのホームルームのみで構成されているため、放課後に人が残ることはほとんど無い。


 最上階である四階に辿り着くと、そこから一つの踊り場を挟んで十段ほどの短い階段が二つ続いている。これを上れば、全校生徒憧れの屋上という秘境に繋がる。


 それまでとは一転して、一段一段を踏みしめるように足を動かしていく。ほとんど人の出入りが無い空間ゆえか、床には満遍なく埃が積もっていた。薄い膜のようなその灰色を踏むと、濡れた足で乾いたアスファルトを歩くように靴底の形が刻まれる。


 そうして作り出していく足跡の傍にはもう一つ、同じ形で同じ方向に向かう軌跡が残っていた。僕よりも少しサイズが小さく歩幅も狭いそれの上に、まだ新しい埃は被っていない。やはり今屋上に誰かがいる可能性は高いようだ。


 踊り場に足をつける。二畳程度の広さを有した空間は壁面の小窓から西日が差し込むことによって小さな陽だまりとなり、不思議な暖かさが充満していた。まるでこの場所だけ何年も前から時間が止まり世界から取り残されているような、そんな現実味の薄れた感覚を覚える。


 手すりを掴みながら右手に一八〇度回転する。再び十段程度の階段を上り最上段に辿り着くと、眼前には一枚の古めかしい鉄扉が現れた。文字通り、屋上への入口だ。どこにでもある何の変哲もない開き戸だが、今はどこか荘厳な雰囲気を携えているように感じる。開けばどこか異世界にでも繋がっているのではないかとも思える。


 しかしまだ鍵が開いていると決まったわけではない。先ほどの影は僕の見間違いだという可能性もあるし、階段に残されていた足跡も今日作られたものとは言い切れない。


 おずおずとドアノブに右手を伸ばした。ひんやりとした感触が手のひらに伝う。思いがけず強く握ったそれを時計回りに回しながら、ゆっくりと前方に向けて力を入れた。


 ギイッ、と錆びた金属が擦れ合う音が鳴る。それと同時に、桜の香りの混じった空気が僕の頬を撫でた。


 ――開いた


 鉄扉はその動作に重みを持ちながらも当然のように動いた。両目には、乾いた刷毛で塗ったような雲の浮かぶ空が映っている。そこを飛び交うカラスの鳴き声も何に遮られることなく聞こえてくる。そんな外界の空気を体で感じながら扉の枠を跨いだ。


 ……本当に屋上へ出ることができた。


 期せずして訪れた出来事に高揚感と動揺が胸中で交錯する。期待しながらやってきたというのに、実際に事が起きるとたじろいでしまう。我ながら見事な腰抜けっぷりである。


 扉を出た正面には一面に金網のフェンスが取り付けられていた。転落防止のためか、手前に少し反り返った形となっている。左手にも同様のフェンスが設けられていた。どうやら屋上の広々とした空間は右手に広がっているらしい。


 そう考え、体をそちらに回そうとしたその時だった。


 ――ピーン


 不意に、一つの音が視界の右側から聞こえた。一本のか細い金属が震えるような音だ。そしてそれはよく聞き慣れた音でもあった。


 Bの音。ギターのレギュラーチューニングにおける二弦の音。


 というよりも、響いたその音はまごうこと無きギターの弦の音だった。


 慌てて音の出どころに顔を向ける。その動きと同時に、唐突に強い向かい風が吹き、思わず目を細めた。風の流れが落ち着くのを待って、ゆっくりと瞼を持ち上げる。長く続いたトンネルを抜けるように視界が鮮明になっていく――


 次の瞬間、僕は言葉を無くした。


 真っすぐに向けた視線の先にあったのは見覚えのある少女の背中だった。


 小柄な背丈。紺色のブレザーとスカートを纏った華奢な身躯。柔らかな輪郭を保つ、軽くウェーブがかかった亜麻色の髪。


 そこに、石川彩音が立っている。


 彼女はこちらに背を向けたまま風に髪を揺らしていた。強い西日に照らされた後ろ姿は、教室で見るよりも不思議と少しだけ大人びて見える。


 既に下校したと思っていた彼女がなぜいるのか。それよりも、どうして屋上にいるのか。どんな理由で屋上の鍵を持っているのか。一瞬にして多くの質問が脳裏を過ぎった。だがそれらもまた一瞬にして、たった一つの吃驚に相殺された。


 石川はそのたおやかな左腕からギターのネックを覗かせていたのだ。遠目だが、白色に近いメイプルの木材が見える。見間違いかと思い、一度目頭を押さえ、改めて凝視してみる。


 しかし、むしろそうすることで、ネック以外の部位の輪郭も瞭然となっていった。左肩から腰の右側までゆったりとかけられている黒無地のストラップ。そしてその終点から僅かにはみ出た艶めくボディ。それらを目にして疑惑は確信に変わった。


 なぜ彼女が放課後の屋上でギターを携えているのか。


 その一言だけを残して僕の思考回路と両足は動きを止めていた。


 石川はこちらに全く気付くことなく、チューニングを進めている。二弦を調弦し終え、続けて一弦をEの音に合わせようと弦を弾く。繰り返して響く、か細い音が少しずつ高くなっていく。


 ネックの先端にチューナーらしきものは付いていない。シールドを繋げて使うカード型チューナーを使用している様子もない。一つひとつの音階を自らの耳で正確に聞き取って調律しているようだ。いわゆる絶対音感というやつだろうか。


 一弦のチューニングも終え、石川はペグから左手を離した。謎に包まれた例の右手はピッキングをするために体と重なっていてここからは見えない。


 彼女は体をほぐすように、一度軽く肩を竦めてストンと落とす。腿にボディが触れるほど低く構えたギターが共に揺れる。そのまま体の正面で右手を持ち上げて振り下ろした。


 ――ジャーン


 正確に調律された六本の弦が震え、綺麗な音の羅列が響く。


「よし」と、石川は小さく呟き、左手をネックに置いて弦を押さえた。間髪入れずに右手でストロークを始める。


 そうして彼女の手元から鳴り始めたその音は、あまりにも僕の耳に、手に、記憶の底に染み付いている曲のイントロだった。


 猪突猛進とも言えるほどのテンポで奏でられる爽快感に満ちたリフ。夏の陽光を映す海面のように燦然とした輝きを湛えた音色。夜明けの瑞々しい空気を感じさせるような、朝の到来を祝福するような、そんな旋律。


 そしてそれは、僕の一日の始まりを告げる一曲。


 ――Sogna mortoの『朝、目が覚めて』だ。


 目を丸くして僕はその音を耳にする。休む間も無く頭の中で吃驚が塗り重ねられていく。


 なぜ、石川がこのバンドを知っているのだろうか。


 Sogna morto――ソニアモルトは今から二十年前、僕たちが生まれる数年ほど前にインディーズデビューを果たし、一世を風靡したバンドだ。その稀有な活動歴と楽曲の完成度の高さから、数曲は今日の邦楽ロックファンの間にも知れ渡っている。だが現代の高校生からすると、世代としては完全にかけ離れている。僕は父親の持っていたCDを聴いたことが彼らを知るきっかけとなったが、石川も同じ口だろうか。


 勝手な憶測をしながら僕は石川が奏でる音に耳を傾けた。


 彼女は依然として僕を認めること無く滔々と演奏を続けている。原曲と同じ猛然としたテンポで滑らかに両手を動かし、音を生み出していく。それでも弦を押さえ損じることは無く、余計な弦をピッキングすることなども無い。不要な音は鳴らさず、譜面通りの綺麗な旋律を淀みなく奏で続けていた。


 エフェクターもアンプも通していないスチール弦の震え。音量は小さく音色は乾いている。しかしそれが野暮なものだとは感じない。元々ほとんど音を歪ませていない曲だということもあるが、理由はそれだけではなかった。


 ただ純粋に、並外れて、石川の演奏が巧かったのだ。


 あまり耳が肥えていない自分でも分かる。過言だと非難を浴びることを恐れずに言えば、プロとして十分に通用するレベルの技量を誇っていると感じた。まだ一曲しか演奏を見ていないが、少なくともこの曲に関してはそう思える。そう自信を持って言えるほど僕はこの曲を聴いているし、自分でも弾いている。ソニアモルトのギタリストであるユウキの演奏そのもののようだとも思えた。


 そんな美技を前に僕はただ息をのんで立ち尽くしていた。既にいくつもの驚倒や動揺で言葉を無くしていたが、その理由が彼女の演奏に対する純粋な感嘆に変わっていた。


 そのまま曲は続きBメロに入る。軽快かつ正確な石川のピッキングは続く。その華やかな音色を深く耳に刻もうと、一度両目を瞑ってみた。音の波が空気を伝い、鼓膜を震わせ、全身に染み渡っていく。イヤホンをつけて曲を聴く時と同じように、まるで今自分の立っている場が他の世界に入れ替わったかのような感覚がした。


 爽快な曲調と弾むような演奏が相まって、僕の瞼には一つの情景が浮かぶ。空には満天の青。地面には色鮮やかな花々。そこに柔らかい春の日差しが降り注ぎ、花弁はそれぞれ様々な輝きを見せる。肌には暖かな空気が伝う。体は心地の良い浮遊感に包まれる。息をすることも忘れてしまいそうになる、不思議な幸福に満たされた空間。


 そんな錯覚に浸っているうちに石川が辿る五線譜はサビの直前まできていた。この先に待つ音の奔流に、思いがけず体が強張る。


 流麗に響くコードの終尾をスタッカートで小気味よく切り、サビが始まる。


 それと同時に、僕の脳内で描かれていた景色は一瞬にして別世界へと姿を変えた。


 一面に広がっていた花畑は純白の深雪に埋もれ、辺りの空気は恐ろしいほどに澄み渡る。体の底から五指の先に凛々とした風が流れ、意識が鮮明となる。しかし不快感は微塵も無い。


 あまりにも甚だしい世界の変化に、僕は焦るように瞼を持ち上げる。そこで起きていた事は一つ。それはとても何気ない出来事だった。


 石川が曲のメロディを鼻歌として歌い始めたのだ。きっと気分が高まり、衝動的に口を開いたのだろう。耳に入ってくる音程は原曲そのもの。別に音痴というわけではない。衝撃の要因は、その歌声にあった。


 彼女の口から放たれる音の質は、恐ろしく透き通り、冷ややかで、今にも消え入りそうな美しい揺らぎを帯びていた。まるで冬の夜に舞う綿雪を思わせる。降っては一瞬で溶け失せる氷の粒のように、確かな形を持って空間に生まれるが、それを感じ取った次の瞬間には輪郭は朧になり、世界のどこか見えない場所へと消えていく。余韻として漫ろな寂寥感だけが残る。そんな、酷く儚げな歌声だった。


 しかし、教室で友人と会話する彼女の声を聞いたことはあるが、目の前のそれとは全く違う印象だった記憶がある。どちらかと言えば快活な声色だった筈だ。


 様々なギャップに対して呆然としている僕を余所に、石川は両手と口を動かし続けている。サビの終盤に近付いてきたところで演奏を続ける体の動きが激しさを増してきた。僅かに屈した両膝をリズムに合わせて揺らす。左手に掴んだネックを強く体に寄せ、右手のストロークは肩を大きく弾ませるほどのものになっている。


 そしてサビが終わりを迎えるタイミングで、遂にボルテージが最高潮に達したのか、彼女はその身を翻した。両膝を折るように小さくジャンプしながら、こちらに体を向ける。先ほどまで背中に浴びせられていた陽光が正面を照らしていく。彼女の体が宙に浮いているその瞬間だけ、まるで世界に魔法がかけられたように、目に映る全てがスローモーションになった気がした。


 石川は満面に愉楽を浮かべ、手足の隅々にまで感情を浸透させるように、全身をふわりと弾ませている。穏やかな陽光に包まれたその様相は、まるで彼女の触れる空気そのものが喜びを示しているようにも、世界が彼女の存在を祝福しているようにも見えた。


 体の転回と共にギターの存在も露わになる。そのボディは橙色と黒色のグラデーションに染められていた。いわゆる3トーンサンバーストと呼ばれるカラーだ。そんな鮮やかなボディにも強い日差しの束が降り注ぎ、その表面にあるいくつかの金属が煌々と輝いている。


 ペグ。ブリッジ。ピックアップ。フレット。六本のスチール弦。


 そして、彼女の右手。


 ――――右手?

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