出会いと始まりの音(5)

「……は?」


 眼前の光景を前にして、僕は反射的に間の抜けた一文字を口からこぼした。


「――うわぁぁぁ!」


 直後に、叫び声のお手本とも言えるような一声が目の前から放たれる。叫声に掻き消されるようにしてギターの音が止まった。


 幽霊にでも遭遇したかのような驚きと焦りを炸裂させ、石川は機敏に後ずさる。左手でネックを掴み、右手はピックアップ付近にかざしたままだ。


 四歩程度後退したところで彼女は足を止めた。動きに釣られるようにして彼女の足元へ目をやると、白無地の手袋が放られている。その横には一台のポータブルCDプレーヤーも置かれていた。上蓋が瑠璃色に色取られたそれは、年代物なのか表面の塗装が所々剥がれている。


「あ……えっと……篠宮、くん?」


 声をかけられてハッと彼女の顔に視線を戻す。語尾が少し疑問形だったのは、口にした名前が正しいものか自信が無かったからだろう。


「お、おう……」


 取り急ぎ、そう返すのが精一杯だった。こちらとしても、途轍もない密度の吃驚をたった数分で味わわされた状況だ。一言を絞りだせただけでも我ながら称賛に値する。


 続ける言葉を考えていると、空から絶えず降り注いでいる光の束を受けて彼女の右手が再び閃いた。銀色の金属に光が反射する無機質な煌めきを、ついまじまじと見つめてしまう。


「――あ」と、石川は思い出したように声を漏らし、素早く自身の右手を背後に隠した。


 隠す、というのはそれが見られたくないものだということを示す何よりの行為だ。焦りを孕んだその素振りを見た僕は、文字通り彼女の右手を包んでいた謎の答えを導き出しつつあった。


 だが、それを自分の口から問い質すことは憚られる。明らかに秘密を守り抜こうとする動作を見た後では、無理に詮索するのも気が引ける。そして、何よりの理由はその答えの事の重さにあった。


 だからといって何も喋らずに立ち去るわけにもいかない。彼女から見ればそちらの方が不自然に感じるだろう。少なくともあと十ヶ月以上は同じ教室で過ごすクラスメイトに不審な印象は持たれたくない。一年間の学校生活に面倒事が増えるのはゴメンだ。


 しかし、どう切り出すべきだろうか。尋ねたい事は大量にあるのだが、上手く言葉が纏まらない。遠くから聞こえるカラスの鳴き声で、胸中の焦りがより一層増幅する。


 逡巡の末、堆く積まれた疑問の中から最も当たり障りのないものを選び取って口にした。


「さっきの曲……ソニアモルトの『朝、目が覚めて』か?」


 極力話を広げやすくするために、あえて確信に至ってないような聞き方をしてみる。


「えっ、 篠宮くん、ソニア知ってるの!?」


 すると石川は飛び跳ねるような語勢でソニアモルトの略称を言い放った。丸っこい両目がより大きく見開かれ、その内に潜んでいた動揺や警戒の色も言葉と共に吹き飛ばされる。声音も記憶通りの溌剌さへと戻っていた。


「何で知ってるの!? 私たちの年齢だと全然世代じゃないのに」


 先ほど自分が思ったことと寸分違わぬ台詞を投げつけられた。後傾になっていた彼女の体は前のめりになっている。あまりにも興奮を抑えられなかったのか、腰の裏に隠していた右手は握り拳を作り、胸の前に掲げられていた。


「えっと……父さんがCD持っててさ。若い時に買ったやつがずっと家に置いてあって、それを聞いたことがあるんだよ」


「へえ、そっかそっか。それなら納得だ」


「……石川こそ、何で知ってるんだ?」


「あ、うん、私もそんなとこ、かな。お父さんの影響でね」


 そう言葉を交わしている最中も心ここにあらずで、両目は彼女の右手を追っていた。ブレザーの袖から覗かせている部分はやはり全てが金属で形成されている。磨き抜かれた鉄のように綺麗な光沢を見せる五指。一つひとつの関節は窪んでいる。まるで手骨が剥き出しになって銀のメッキを施されているようだ。


「あ」と、僕の視線に気づいた石川は再び右手を背後に回す。隠そうとしている割にはいささか油断し過ぎではないだろうか。


 再び数瞬の沈黙が訪れたが、今度は石川が先に口を開いた。


「えっと……篠宮くんはなんで屋上に来たのかな?」


「……いや、それは俺の台詞なんだけど」と、流石に我慢できずにこぼしながらも答える。家路につこうとした時に、校舎の影から不自然な輪郭が浮かび上がったことを伝えた。


「それで気になって見に来たんだよ」


「あー、なるほど。たしかにさっき一回端っこから下の景色を覗いたんだよ。その時に影が出ちゃったんだろうね。いやあ、先生とかに見られなくてよかったよ」


「ていうか、お前なんで屋上の鍵持ってるんだ?」


「ん? ああ、これね」と、ブレザーの左ポケットから一本の鍵を取り出す。


「前にね、放課後教室に忘れ物してるのに気づいて学校に取りにきたことがあるんだけど。その時職員室に教室の鍵を借りにいったら、棚の端っこの方に『屋上』ってタグが付いてる鍵がぶら下がってて」


 石川は悪戯っぽく口元を緩める。


「合鍵が一緒に掛かってたからさあ、ついつい一本持ってきちゃった。もし無くなってるってバレたらお店でもう一本合鍵作って棚に戻すつもり」


 事も無げに悪事を口にする。意地でも一本は手元に死守しておくつもりらしい。


「あ、悪いけど先生たちには内緒にしといてね」


「はあ、別にいいけど。でも何で屋上の鍵なんか持ちだしたんだよ?」


「え、だって屋上って一回は出てみたいと思わない?」


 質問を質問で返された。さも全員が共通の認識を持っていると信じて疑わないような語調で。たしかに僕も同じことを考えてこの場に足を運んだのだが。


「気持ちは分かるけど……それにしても何でギター? うちの学校軽音部とか無いのに」


 流れに乗って、溜めこんでいた疑問が口をついて出ていく。


「ああ……昔からギターが好きでね」と、石川は少しだけ目を細めた。


「結構小っちゃい頃からやってるんだけど、最近家で弾いてるとお母さんに止められちゃうんだ。だからここにこっそり持ってきて弾いてたの」


「……なるほど」


 どこか物憂げなその表情を見て僕は戸惑ってしまう。ギターを弾く、という行為は当然何も悪いことではない。音を鳴らすことで世界が崩壊するわけでも、誰かに死を与えるわけでもない。なのになぜ彼女の母親はそれを許さないのだろう、と僕は素朴な疑問を持った。


 もしかすると勉学に厳しい家庭で、帰宅すれば勉強漬けといった環境にあるのだろうか。それとも単純に演奏の音が近所迷惑になることを避けているのだろうか。


「でも勿体無いな」


 そんな勝手な憶測をした後に、気づけば僕は口を開いていた。


「へ、なにが?」


「いや、あれだけの演奏をできるのに自由にやれないっていうのがさ。石川ギター上手いよな。さっきも全くミスしてなかったし」


 素直な称賛の言葉が詰まることなく喉を通る。


「あの曲テンポ早過ぎて、俺、未だにコードチェンジの時に上手く弦を押さえられなかったり、余計な弦までピッキングしちゃったりするんだよ。ミスしないように意識し過ぎたらテンポが遅くなるし――」


「え、篠宮くん、ギター弾くの!?」


「あ」と、次は僕が漏らした。別に隠しておくつもりではなかったが言うつもりでもなかった。


「いや、まあ、まだ初めて半年弱ぐらいだけどな」


「へえ、でもちゃんと続けてるんだね。ほら、ギター買った人って最初にFコードが弾けなくて挫折しちゃう人が多いじゃん?」


 たしかによく聞く話だ。Fコードはその押弦の難しさゆえ、初心者にとって鬼門となる存在。実際僕も、安定して弾けるようになるまで相当な時間を要した。


「たしかに『朝、目が覚めて』ってソニアの曲の中でもテンポ早いもんね」


 そう微笑みながら石川は自然と両手をギターにかざし、小気味好いストロークを披露する。奏でられたのはイントロのリフだった。


「うーん、そうだなあ……まずは弾いてるコードの最後の拍で次のコードに移るようにしたらどうかな。少しだけ開放弦を弾いちゃうかもしれないけど、とりあえずそれは気にせず体に左手の動きを沁み込ませる感じで。ひたすら繰り返して感覚的にできるようになるまでね」


「とりあえずそれは気にせず、か……」


 そんなアドバイスを聞きながらも、僕は彼女の右手を気にせずにはいられなかった。再び無意識に出したであろうそれに熱視線を送ってしまう。


「で、左手を気にしながらちゃんと右手にも意識を向けないといけないよ。変なピッキングフォームが癖づいちゃったら後で矯正するのが大変だからね。ほら、こんな風に――」


 右手を六弦の上から振り下ろそうとした瞬間に彼女は動きと言葉を止めた。


 三回目の「あ」を漏らし、大仰な動作で右手を背後に隠す。


 ……もう、ここまできたら逆に物問わない方が不自然に映るのではないだろうか。


 そう考えた僕は満を持して最後の質問を彼女に投げかけようとした。

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