出会いと始まりの音(3)

 クラスメイト全員が同時に動き出し、椅子と床の擦れあう音が響く。それぞれが部活動や帰宅の途に就き始めた。


「じゃあな、修志」と、友人がこちらに声をかけて教室を出ていく。


「おう、また明日」


 見送った後で、体中の気怠さを振り落とすように座ったまま小さく伸びをした。体勢と目線を元の位置に戻すと、既にそこに石川の姿は無かった。チャイムが鳴ってまだ三十秒も経っていないが、随分と行動が早い。


 今日も話さないまま終わったな、と頭の中で呟いて僕は立ち上がった。中身の少ない薄く潰れた鞄を肩にかけて教室を後にする。


 帰宅部の自分は放課後に長く学校に残る必要はない。普段から足早に下校するが、特に今日は一刻も早く家に帰り、ギターを弾きたい一心だった。昨晩の練習中から一つの技術のコツを掴みかけている。感覚を忘れない内に繰り返し音を鳴らして体に沁み込ませたいと思っていた。


 廊下に出ですぐ傍にある階段を歩き慣れたリズムで降りていく。その途中には様々な光景があった。


 何が面白いのか大声で笑い合う生徒たち。書類を抱え綺麗な姿勢で歩く女子。膨れ上がったエナメルバッグを肩に吊るし、忙しない足音を立てて駆けていく男子。簡素な掲示板に校内新聞を貼り付ける生徒。寄り添うように肩を並べて歩く男女。少し離れた渡り廊下からはチューニングを行う金管楽器の音が聞こえる。


 校内は雑多な放課後の騒めきで満ちていた。皆、いわゆる青春の日々とやらを満喫しているのだろう。


 僕はそんな輝かしい存在とは無縁の毎日を送っている。友人は人並みにいるが、そのほとんどが部活動に加入しているため、放課後誰かと一緒に無益な馬鹿話を繰り広げながら下校することもない。僕自身は帰宅部なので、血反吐を吐くような練習も、その中でチームの絆を深めながら全国大会出場をかけた試合に臨むようなイベントも無い。色恋沙汰も無ければ、叶えたい夢に向かって勉強に励むことも無い。タイムリープも起こらないし、異世界に迷い込むことも無い。絵に描いたような平々凡々な日常を過ごしている。


 別にそういったものに憧れや妬みを覚えるわけでもないが、少しくらいは何かが起きてもいいのではないかと、高校二年生にもなって漠然と考えてしまう。劇的でも奇跡的でも幻想的でなくても、普遍的な、ありふれた何かが、だ。


 下駄箱に着いて上履きから靴に履き替える。踵がフィットせずにつま先を二度三度叩く。それでもうまく入らずに結局指で整えて歩き出した。


 校門に向かって進んでいると、傍らに広がるグラウンドで運動部の生徒たちが高らかに声をあげている様子が見える。端から陸上部、サッカー部、野球部と続く。そんないくつもの青春を横目に歩く。憧憬や嫉妬を覚えなくても少しばかりの虚しさは感じる。あれほど熱を注げる何かが僕にもあれば、と。ため息に似た息を小さく吐いて視線を前に向けた。


 数十メートル先に見える門の傍には遅咲きの桜が悠々と揺れていた。花びらの数は残り少なく、貧相で寂しげな様相だ。しかしそんな見てくれでも桜の華やかな香りはたしかにそこに浮かんでいる。


 その手前には西日に照らされたホームルーム棟の影が門に向けて長く伸びていた。横長の校舎とその上にある給水塔が角ばった黒として地面に映し出されている。僕の足が少しずつ影と光の境界線に近づく。


 あと数歩でそれを超える辺りのことだった。


 水平に伸びたその影の上端から、まん丸とした輪郭が一つ、浮かび上がった。まるで海面に揺蕩う浮き玉のように、ふわりと。


 しかし一秒と経たずに校舎の影に呑まれ、地面には再び無機質な直線だけが残った。僕は反射的に立ち止まり、その正体を探してみる。


 位置的に僕の頭の影ではない。周囲を見渡してもそれらしい影を作りそうな人間はいない。背後を振り返り、逆光を受けて薄い黒に色づいた校舎を仰ぐ。その上端に鳥が飛び交ったり風船のようなものが浮かび上がっていたりすることもない。というより、もしそのような存在ならもう少し違った影のでき方になる筈だ。


 ならば残された可能性は、誰かが屋上にいてその人間が動いた、といったところだろう。しかし屋上は立ち入り禁止になっていて鍵もかけられている。生徒が容易に立ち寄れる場所ではない。もしかすると教員が何かの用事で登っているのかもしれない。


 そんな思案に耽りながら、僕はいつの間にか踵を返していた。


 目指す場所はもちろん屋上。生徒にしろ教師にしろ、もし何かの理由で屋上が開放しているのであれば一度その光景を拝んでおきたいと思った。ただの僕の見間違いや思い過ごしの可能性もあるが、もう一度校舎に戻る程度、大した手間ではない。たまにはこれぐらいの寄り道も悪くないだろう。全く面識の無い人物と出くわせばさぞ気まずいだろうが、その時は『これもまた一興』と胸の中で唱えてやろう。


 純粋な好奇心に背中を押されて僕は歩を進めた。

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