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 部活帰り、天神さんを覗くと宝井がいた。前に見た時と同じように、賽銭箱の横に腰掛けて何か書き物をしている。

 うるさくするつもりはなかったのだが、妙に緊張したせいか思いがけず大きな音で砂利を擦ってしまい、宝井はすぐに顔を上げた。すぐにノートを閉じて、此方に刺すような眼差しを向ける。

 何故こうも睨まれなくてはならないのだろう。そう思ったが、口にするのはやめておいた。きっと、俺にとっては造作がなくても、宝井からしてみれば気に障る……ということがあるのかもしれない。


「お……お疲れ」


 何と声をかければ良いのかわからなかったので、とりあえず労っておいた。功一の話だと、恐らく今日は剣道部の活動日だったはずだ。

 幸い……なのかどうかはわからないが、宝井は特にこれといった指摘をせず、うん、とうなずいた。


「あのコピー、読んだ?」


 そして、平坦な声で尋ねる。俺は勿論首肯した。


「実際に城跡にも行った。城下町なんだな、茜ヶ淵って。俺、全然知らなかった」

「茜ヶ淵に住んでても、知らない人はいっぱいいる。そういうのに興味ある人、少ないし」

「あってもなくても、住んでる地域について調べる機会はあるだろ。小学校の、学活とかでさ」

「なくはなかったけど……でも、多分皆忘れてる」


 俺は平静を装っていたけど、実を言うと内心ではほっとしていた。前回、ここで宝井と話した時、喧嘩別れのようになったのを気にしていたのだ。

 宝井が怒るポイントというか、基準のようなものが、俺にはよくわからない。こんな言い方をしたくはないが、生きる世界が違うのだから、仕方のないことではある。単に俺の努力が足りないだけと言われたら、ぐうの音も出ないのだけれど。

 何はともあれ、今の宝井は上機嫌とまではいかないが、不機嫌という訳でもないらしい。表情はいつも通りの仏頂面だが、何となく違いはわかる。今日はまだ、機嫌を損ねてはいない。


「茜ヶ淵城については少しわかったけど、肝心の呉井璃左衛門についてはさっぱりだ。コピーにも、それっぽいことは載ってなかったし……宝井はどこで知ったんだ、呉井璃左衛門のこと」


 発言が許されそうな空気だったので、俺はかねてより抱いていた疑問を口にする。

 宝井がくれた資料は、茜ヶ淵城について知る手がかりになった。しかし、宝井が現在進行形で追っている呉井璃左衛門に関しては、一切触れられていなかった。単体でも調べてみたが、結果は高が知れている。一地域の伝承に語られる人物なんて、そんなものだ。

 俺の問いかけに対して、宝井はすぐに答えをくれなかった。長い前髪の奥で、視線をゆらゆらさせる。記憶の糸をたぐり寄せているようだった。


「……あのコピー、まだ持ってる?」


 上手く思い出せなかったのか、宝井は僅かに顔をしかめる。俺はすぐにうなずいて、持ってるよ、とクリアファイルを取り出した。


「わざわざ学校に持ってきても、重いだけなのに」

「このくらい、別にどうってことない。それよりも、どの辺りに書いてあるんだ」

「急かさないで。書いてあるって訳じゃない」


 宝井が唇を尖らせる。不機嫌な顔はよく見るけれど、こういうのは初めてだ。


「うちのお墓があるお寺で聞いたの。智水寺ちすいじってところ。知ってる?」

「いや、初めて聞いた。茜ヶ淵地区にあるのか?」

「そう。そこって、茜ヶ淵氏の菩提寺でもあったみたい。だから、色々資料とか残ってるらしくて……運良く、戦災もあまり被っていないみたいだし」


 俺からコピーを受け取った宝井は、ゆっくりと用紙をめくっていく。しばらく経ってから──といっても一分にも満たない──彼女は、ん、とぶっきらぼうにコピー用紙の束を突っ返してくる。


「ここ。これが智水寺」


 宝井に示されたページを、俺は黙って注視した。

 それは、ちょうどお盆の時期に更新されたと思わしきページだった。寺の正面にあるのだろう立派な門を映した写真が載っている。

 そういえば、そんなページもあった気がする。少なくとも見覚えはあった。茜ヶ淵城や呉井璃左衛門に関係なさそうだったから、読み飛ばしていたのかもしれない。

 じっと写真を見つめる俺を、宝井は見慣れたしかめっ面で眺めていた。そのまま、気になるなら行ってみれば、と投げやりに提案する。


「今はあんまりお墓参りに来る人もいなさそうだし、一回行って、色々見てみれば良いんじゃない。どうせこの辺りの人くらいしか知らないお寺なんだし」

「俺、ここの寺に墓ないけど……」

「檀家じゃなきゃ行っちゃ駄目なんてきまりはないでしょ。たしかに、お葬式とか法事やってる中に飛び込むのは非常識だけど……でもあそこのお坊さん、たまに小学校とかに行って読み聞かせとかやってるから、すごく排他的って訳ではないと思う」


 一息に話し終えてから、宝井は再び真っ直ぐこっちを見た。


「磐根君、茜ヶ淵こっちのこと何も知らないんだね。茜ヶ淵の子たちとも仲よさそうなのに」


 言葉だけなら責めているようにも感じられるだろうが、その声色にこちらを詰問する色はなかった。単純に、俺の無知を不思議に思っている。

 否定はできない。俺は広沢のような茜ヶ淵出身の同級生ともそれなりに話すし、女子程の断絶の中で生きているつもりもない。必要なら都度話すし、そうでない時はどうともしないのが俺のスタンスだ。茜ヶ淵だから、児備嶋だからとあれこれ制約をかけるのは、正直に言って自分たちの首を絞めているも同然だと思う。


「実際に住んでると、そんなに気にしないものなんじゃないか。それに、話すたって、学校にいると話題が限られるし」

「まあ、たしかに」

「それに俺、そんなに女子と話すことってないから。差別とかじゃないけど、男女で見えるものも違ってくるんじゃないかな」


 俺としては、何の気なしに続けたつもりだった。

 しかし、宝井にとっては違ったのだろう。前髪越しでもよくわかる程目を見開いてから、びっくり感を漂わせたまま瞬きを繰り返す。


「……そんなに驚くことか?」


 何となく居心地が悪い。視線を逸らしながら尋ねると、宝井もまた目線を外して答える。


「……女子の中では、結構人気なんじゃないの、磐根君。優しいし、下品なこと言ってこないからって」

「そうでもないよ。それに、信也とかに比べたら女子と話すことなんてほとんどない」


 学級委員の大野とは、仕事が同じということもあって他の女子に比べたら話す方かもしれない。でも、昼休みにわざわざ彼女のところに行こうとは思わないし、ましてや恋愛対象でもない。大野に限らず、クラスの女子と付き合うっていうビジョンが、俺には全く見えないのだけれども。

 ただ、宝井がを多かれ少なかれ意識しているというのは意外だった。どのグループにも所属していないから、てっきりその手の話題には疎いのかと思っていた。……というか、宝井の側に俺のことを評価している人間が一時でもいたかもしれないのは、少し面映ゆい。

 ふうん、と宝井は肯定とも否定ともつかない相槌を打つ。そして、じろ、とよく見る──といっても幾分か柔らかく──横目で睨んできた。


「鈍感」

「……たまに言われる」

「今日とか、普通に鷲宮さんと話してたのに。あれでほとんど話さないって言えるの、ある意味すごい」

「仕方ないだろ、今日の騒ぎは雑談とかのレベルじゃなかったし。あそこまで揉めるとは思わなかった」


 遅かれ早かれ露見することではあると思ったけど、それは別としてああいう空気は苦手だ。周囲の部外者たちが野次馬じみた立ち位置に自ら立って、口では心配しながらもイベントのように楽しんでいる素振りも、できることなら見たくない。

 俺も宝井も、今回の一件に関しては部外者だ。下手に首を突っ込むべきではないと思うし、実際に宝井も無関係を貫きたいように見える。俺が話題を持ち出したら、苦々しげに唇の端を歪めた。


「……早く終わって欲しい、あの空気」


 今にも舌打ちしそうな勢いで、宝井は吐き捨てる。強烈な拒絶。たとえ自分に向けられたものでなくとも、背中がざわっとする。


「……宝井もああいうの、気にするんだな」


 一生懸命、言葉を選んで言ったつもりだった。

 それが言い訳だと、俺は自覚している。本音を言えば、あの時、何故宝井が茜ヶ淵の女子たちからかけられた誘いを断ったのか、その真意が知りたかった。俺も立派な野次馬だ。

 案の定、宝井はますます顔をしかめて、強く睨み付けてきた。悪い、と刺々しい声が返ってくる。


「関係ない人間は、口出ししちゃいけないっていうの?」

「いや、そういうことじゃなくて……宝井は、茜ヶ淵にも児備嶋にも肩入れしていないように見えたから。単純に迷惑ってだけかなって思ってた」

「迷惑だよ、あんなの」


 宝井が膝の上で、拳を握り締める。皮膚が白く変色していたから、きっと柔な力は込められていない。


「勘弁して欲しい」


 呪詛じみた言葉だった。長い前髪に覆われた両目は、どんな色を湛えているのか。俺には、想像できる気がしなかった。

 不意に、宝井が顔を上げた。躊躇うように唇を何度か開閉してから、磐根君、と呼び掛ける。


「私の名前、わかる?」

「え?」

「下の名前」


 唐突な問いだった。さっき宝井がしたのと同じように、俺は目を瞬かせた。

 宝井の名前。珍しい響きだったから、よく覚えている。児備嶋の女子たちは、キラキラネーム、なんて言って、一年の頃はその名前が呼ばれる度にわかりやすくクスクスと笑っていた。


宝井たからい詠亜アリア、だろ」


 間違っていたらどうしよう、という一抹の不安と共に発音する。

 詠亜。アリア。一度、その意味を調べたことがある。

 詠唱。旋律的な独唱曲。音楽、それもクラシックなんてほとんど聞かない俺にとって、その単語が意味する音楽というのはなかなかイメージできなかったけれども、何となくヨーロッパの、荘厳で格式高い雰囲気を感じる響きだと思った。

 ちらっと宝井の方を見遣ると、彼女は僅かに顔の筋肉を弛めている……ように、見えた。上手く言い表せないが、知っている言葉で形容するなら、安堵が一番近いかもしれない。


「うん、そう。宝井詠亜。よくわかったね」

「クラスメートの名前くらい、普通は覚えてるものじゃないか?」

「そうじゃなくて、発音。ちゃんと、アリアの……他で例えると、ダリアとか、マリアと同じ響きで呼んでくれたでしょ。中には、タイヤの発音で呼んでくる奴もいるから」

「訛ってるのかな。でも、先生方はちゃんとした発音で呼ぶだろ?」

「うん。けど、茜ヶ淵の連中は未だにタイヤ呼び。だから、運が悪かったらあっちの方が正しいんだって思われるかも。あれ、嫌いなんだよね。気持ち悪い」


 宝井の声に、表情に、嫌悪が滲む。それだけで、彼女が茜ヶ淵の女子たちを良く思っていないことは明らかだった。

 いつも四人で群れている、茜ヶ淵の女子たち。アリアちゃん、と呼ぶそれは、宝井が嫌悪する響きを持って、俺の耳に残る。


「磐根君、里中君と仲良かったよね?」


 宝井がこちらに向き直る。

 他者との関わり合いを避けている宝井でも、俺たち幼なじみが気の置けない間柄であることを知っている。以前までなら何を思うでもなくうなずけたのだろうが、今となっては少し気まずい。今日の帰り道、俺たち三人は揃って下校したけど、別れの挨拶以外の会話が交わされることはなかった。きっと、信也も功一も、今朝のことを気にしている。

 首を縦に振ってから、なんで、と短く問う。自分では見えないけど、恐らく宝井の視界には、怪訝そうな顔をした俺が映っているのだろう。


「多分、ろくなことにならないから。里中君」

「信也が?」

「猫屋敷姫魅と付き合うことになったんでしょ。あの女、ろくでもないから。きっと里中君も良いように使われるだけだよ」

「……そんなに酷い奴なのか? 猫屋敷は」


 そうは見えない、という気持ちと、あいつならあり得るかもしれない、という気持ちが、俺の中で割れている。城跡を見に行った日、あの二人に遭遇していなかったなら、前者が勝っていただろう。

 表立って出すことはないものの、猫屋敷の挙動の端々には確かな悪意が込められている。それが確実なものと言い切ることはできないけれど、一度抱いてしまった不信感はちょっとやそっとじゃ拭えない。

 酷いなんて、と宝井は笑った。朗らかさとは縁遠い、嫌悪にまみれた笑い。夕暮れの空気に、それはやたらと乾いて響いた。


「そんなものじゃないよ、あの女は。私、あいつ、大嫌い」


 短く毒づいた宝井は、次の瞬間にはいつもの気だるげな雰囲気に戻っていた。はあ、と息を吐き出して、鞄にノートをしまう。


「そういう訳だから、あの二人は長続きしないと思う。面倒なことになりそうだったら、距離を取ることをおすすめするよ。里中君には悪いけど」

「……信也も一回やらかしてるから、今日より酷いことになるとは思えないけど……」

「さあ、二度あることは三度あるっていうし、どうだかね」


 軽く肩を竦めてから、宝井は鞄を背負って立ち上がる。彼女の影を夕日が映し出し、細長く伸びた。

 じゃ、と短く告げて、宝井は天神さんを後にしようとする。俺はその背中を追い、慌てて自転車に跨がった。


「どうしたの」


 同じくサドルに腰掛けていた宝井が、ぎょっとした顔で俺を見る。ここまで驚かせるつもりはなかったから、申し訳ない気持ちになる。


「いや、なんか……置いて行かれると思ったら、いてもたってもいられなくて」

「なにそれ」


 変なの、と宝井がこぼす。一瞬だけだが、いつも真一文字に引き結ばれている唇がほころんで、微笑みの形を作った。

 それは、俺が初めて見た宝井の笑顔だった。

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