第三章 渦中の部外者たち

1

 朝練があって、いつもより教室に入るのが遅れたことが果たして本当に良かったのか、俺にはわからない。

 ただ、何も知らない俺が陸上部の面々と教室に足を踏み入れた時、既には起こった後だった。


「うーわ、何あれ」


 広沢が心配の欠片もなく、むしろ興味津々といった様子でうそぶく。俺は黙って教室を見回した。

 言うなれば、亀裂が走ったような状態だった。児備嶋と茜ヶ淵、その分断が縮図になって表れたかのように見える。

 ぐすぐすとわかりやすくすすり泣いているのは、掃除用具入れの前で猪上や元木に囲まれた大野。人目も憚らず、といった振る舞いだったが、彼女の場合見せつけているというよりは単純に感情を制御できない状態なのだろう。昔から大野はわかりやすくて、自分に嘘を吐けない性分だった。

 対して、物憂げな表情でうつむいているのは猫屋敷。いつもは干川の机の周囲にいる茜ヶ淵女子──無論、宝井は除く──だが、この日は猫屋敷の周りに集まっていた。小声で何やら話しているが、内容を知ることはできない。ただ、表情からして猫屋敷を気遣っているように見えた。

 正確に言えば、物理的に教室が二分化されている訳ではない。男子はばらばらに散らばっているし、大野もしくは猫屋敷から離れている女子も何人か見受けられる。だが、その誰もが異様な空気に対してしきりに野次馬めいた視線を向けていた。

 鈍い頭痛を覚えつつ、とりあえず俺は自分の席へと向かう。茜ヶ淵の女子が集まっているので、遠回りしなくてはならない。宝井はまだ来ていないようだった。


「おはよう、磐根君」


 その途中で声をかけてきたのは鷲宮だった。彼女の席の前を通ったのだから、挨拶されること自体はおかしくない。

 おはよう、と返してから、俺はそっと声を落として問いかける。何となく予想はついているが、状況の把握をしておきたい。


「……何があったんだ? 随分ぴりついてるけど……」

「ああ、下らないことなのだけれどね」


 鷲宮はにべもなく言ったが、教える気はあるらしい。俺とは逆に声量を落とさないまま続けた。


里中さとなか君、大野さんと付き合ってたのに、猫屋敷さんに乗り換えたんですって。でも本人は自然消滅した気でいたから、浮気じゃないって。その上猫屋敷さんまで余計なことを言うから、女子同士の方がヒートアップしたのよ。里中君からしてみれば好都合なんでしょうけど、さっきまで酷かったのよ、本当に」


 里中、というのは信也の苗字だ。鷲宮はあだ名で呼びたがる児備嶋女子の中では珍しく、全員平等に苗字と君、またはさん付けで呼ぶ。

 俺の予想は当たっていたが、嬉しいとは思えなかった。むしろ、昨日の今日で火種を爆発させる信也の詰めの甘さにげんなりした。

 その信也はというと、児備嶋の男子の中に混じっている。男子は敢えて突っ込まないようにしているのか、白々しく今日提出の課題の話をしていた。信也も、何食わぬ顔でまだ終わってないんだよなー、などと雑談していた。

 その信也と話していることの多い功一は、机に突っ伏して微動だにしない。ショートホームルームまで睡眠をとっているのか、はたまた揉め事を避けているのか……低血圧なのと面倒事が嫌いな性分からして、どちらもあり得そうだ。

 しかし、おとなしそうな猫屋敷が火に油を注ぐとは……一体どういうことだろう。あいつはどちらかといえば受動的で、自分から発言するようなタイプには見えないが。


「──友達じゃなかったの、ですって」


 俺の心情を読み取ったのか、鷲宮がぽつりと呟く。俺は反射的に顔を上げた。


「猫屋敷さんからしてみれば、里中君と大野さんは友達にしか見えなかったみたい。本当に馬鹿馬鹿しいことだけれどね」

「……友達、か」

「猫屋敷さんも頭が悪いわよね。いくらそう思っていたのだとしても、わざわざ口に出すことじゃないでしょうに。成績は良いみたいだけど、所詮は浅はかなものの考え方しかできなかったのね」


 違う。猫屋敷は空気が読めなかった訳じゃない。

 叫び出したくなるのを堪えて、俺はありがとう、とだけ伝えてその場を離れる。本音を言えば教室にすらいたくなかったが、それで遅刻扱いされては本末転倒だ。このくらいは我慢しなくては。

 猫屋敷とは同じ班ということもあって、席に着くと茜ヶ淵女子の会話が先程よりもよく聞こえた。鞄から教科書やノートを出しつつ、俺は聞き耳を立てる。


「姫魅ちゃん、大丈夫?」

「先生に言った方が良いよ。姫魅ちゃんは悪くないんだから」

「あんな子に目を付けられて、かわいそう」


 茜ヶ淵出身の女子は、宝井を除くと四人。そのうちの三人は、口々に猫屋敷を慰めた。


「……わたしは大丈夫。皆、心配かけてごめんね」


 猫屋敷の返答はいかにも謙虚だった。気丈に振る舞う彼女に対して、茜ヶ淵女子はさらに同情を色濃くさせた。

──胸がむかむかとする。

 猫屋敷は知っていた。少なくとも、俺が茜ヶ淵を訪れた時点で、彼女は信也と大野が付き合っているのを知っていた。それなのに、無知なふりをして、大野の傷を抉った。

 おぞましいと思った。猫屋敷は、わざと大野を傷付けたのだ。だというのに、素知らぬ顔で被害者のような素振りをしている。


「──ねえ、アリアちゃん」


 ざわめきの中にある教室だったが、その声はよく聞こえた。

 顔を動かした先には、茜ヶ淵の女子たち。そして、その前に立つ宝井がいた。

 声をかけたのは干川だった。干川はもう一度アリアちゃん、と繰り返す。


「今日からさあ、いっしょに帰んない? 姫魅ちゃん、五人いっしょが良いって」


 ね、と干川が目配せすると、猫屋敷が柔らかく微笑んだ。品行方正な、優等生の顔だった。

 宝井はおもむろに視線を上げる。長い前髪の奥にある両目が、鈍く他の四人を捉える。


「やめとく」


 そして、躊躇いなく誘いを断った。

 立ち塞がるように通路の真ん中にいた干川の横をするりと通り抜け、宝井は自分の席に着く。猫屋敷以外の茜ヶ淵女子は刺すような視線を向けていたが、気にする様子もない。うつむきながら着席し、鞄の中身を出して、前に見かけたのとは違う文庫本を机の上に置いた。

 間もなく、朝読書の時間になる。のろのろと図書委員が前へ進み出たのを見た生徒たちは、次々と自席に戻っていく。

 それでも大野のすすり泣きは、ショートホームルームまでやむことがなかった。

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