第46話 秘密

「ええ。先生の好奇心の旺盛さには驚かされます。まさか、私のことで実験しようと思うなんて、思いもしませんでした。それに、その」

「まあ、実際にシステムに組み込むとなると、プライバシー侵害も甚だしいものですね。いくら個人的な研究とはいえ、そしてここが個人宅とはいえ、許すべきではないです。せめてあなたに許可を取るべきだ」

「ええ。先生を信頼して打ち明けていただけに、非常に残念でした。しかし、その頭脳は素晴らしい。でも、許せない気持ちが勝ってしまいました。その頭脳だけになってしまえばいいのに。そんな、妄想に取りつかれたんです」

 妄想と言い切れるだけ、中野の中であの事件の整理はついているのだ。

 しかし、次の事件が起こってしまっている。これはどういうことだろう。聖明はじっと、中野の言葉に耳を傾ける。

「あの時の自分は、何だか夢を見ているようでした。きっと、いつか脳を復活できるだろうと、そんなことさえ思っていたのです。iPS細胞という手段まで考えました。しかし、同じ遺伝子を持っているからといって、同じ思考をするわけではない。

 それは、尚武さんや憲太さんを見ていれば解ることだったのに、その時の私は失念していました。栗原先生が一人になるタイミングを狙い、このために私のノートパソコンで動きが追えるように変更していました。ともかく、確実に一人の時を狙って犯行を行いました」

 中野はそこでふうっと息を吐き出した。

 思い出して語ることは、非常に辛いだろうと、聖明でも簡単に想像できることだ。だから、急がせることはない。

「差し入れとして持って行ったコーヒーに、睡眠薬を混ぜておきました。もちろん、それは準備の時間を稼ぐためのものです。準備を終えたら、用意していた笑気ガスで全身麻酔を掛けました。脳を安全に保存するために、大学の医学部の友人を巻き込みました。脳の取り出し方も、その方から伝授してもらいました」

 これは想像できていたことだ。理学部や工学部のある大学は、医学部もある場合が多い。ならば、そういう繋がりを疑える。聖明の勤める大学にだって医学部はある。

 理系と一括りにされやすいが、理学と医学、それに工学は差の大きな学問だ。誰かに教えを乞う必要があるのは、話題にするまでもなく解っていたことだ。

「その方については、辻さんにでも言ってください」

「はい。そして綺麗に、丁寧に脳を取り出しました。用意していた保存用の容器にそれを入れ、山の麓で待っていた医学部の方に渡しました。大学を調べてもらえれば、そこにあることが確かめられます」

 今頃、それは宮下あたりがやっているだろう。聖明は頷いた。ここまでは、ある意味で想像通りなのだ。

 解らないのは、まさしくここで起こった事件。尚武の方である。

「どうして、尚武さんを殺害したんですか」

 だから、我慢できずに聖明は訊ねていた。それに中野は、疲れたような笑みを浮かぶ。

「先生のように、指摘しない方の方が珍しい。そういうことです」

「ふうむ。なるほど。しかし君の身体検査をした平山君も、すぐに指摘することはなかっただろう」

 どうなのだろうと、聖明は解らなかった。わざわざ触れるべき内容ではない。そういう認識は生まれないのだろうか。

 中野と同じような人が苦労しているという話を聞くことは、もちろんあるのだが、どうにも社会が追い付かない理由が解らない。

「先生方の発想がリベラルなんですよ。それに私、ちょっと意地悪な誘導をしてしまいました」

「ああ、あれか」

 最初のあの一目惚れを思わせる反応。あれは聖明がどう対処するか、それを見るためだったのだ。そして聖明は見事に、あれが普段通りなのだが、ああいう意地悪な対応をした。さらに未来も、いつも通りにセクハラで訴えろと対応したわけだ。

 何にせよ、中野にとって二人は好都合な存在になったわけである。

「しかしなあ。トランスジェンダーは珍しくないと思うんだよ。どの国でも、一定数はいるはずだ。人間というのは、自己を考える生き物だからね。性別を問うこともまた、普通だと思うよ」

 聖明がそう言うと、世間がそういう流れになるといいですねと、中野は他人事のように言った。

 おそらく、この後の人生を考えての発言だろう。性別以外に、彼女は多くのものを背負うことになる。

「まあ、そうだな。現に尚武さんは指摘したわけだ。今になってどうしてかな」

 聖明はいつしか敬語を忘れ、自分の受け持つ学生に接するような気分になっていた。

 吉田から頼まれなくても、目の前の迷っている人を助けたい。そういう気持ちからだった。中野が優秀であることを理解しているから、その思いが勝手に湧き出たのだろう。

「おそらく、女性が多くこの場にいるから、ではないでしょうか。今まで、私の振る舞いに違和感を覚えなかったようですが、和田さんだけでなく平山さん、それに美典さんもいました。もともと自然言語処理をされていた方ですから、言葉遣いに違和感を覚えたのかもしれません」

 そういうものだろうか。聖明にはやはり、目の前の中野をちゃんと女性として扱う気しかない。生まれた時の性別なんて、特に問題ないように思う。それが人生において問題になる場面ならばまだしも、中野と接して議論するだけならば、そんなことは関係ない。

「言葉では解らないと思うけどな。それに尚武さんは、ああ。君と議論したのか。その時の違和感なのかな」

 ずっと引きずっていたとすれば、解る気がする。ふとした拍子に、違和感の正体に気づくというのは、研究での閃きに似ているものだ。聖明が腕を見て、この事件がフランケンシュタイン博士とは異なると見抜いたようなものである。

「そうですね。多くの言葉を交わしたのは、あの時だけです。そして事件の日、食堂に現れた後、私がトイレに行く時に指摘されました。その悪気のなさそうな言い方に」

「栗原亜土の陰を見た」

「――はい」

 中野は悔しそうに頷く。

 おそらく今までも不快な思いはしているのだ。しかし、それが尊敬する人と、その子どもとなると話は別だった。鬱積していたものが、弾け飛んでしまったということだろう。

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