第22話 絶望と懇願


 魔物達との戦いが一層酷くなると、彼女は自ら先頭に立ち、皆を導いていた。

 本来ならば、誰よりも守られなければならない存在である筈だとアステリアスは考えていたのだけれど、彼女はそれを良しとしなかったのだ。

 これ以上、誰かが傷つき悲しませるのは嫌だ、と言って。

 清廉潔白、純真無垢、誰よりも清らかで誰よりも勇ましく誰よりも強い彼女が戦う事を、周囲の人間達は大層喜んでいた。

 次代の女王として戦う少女に感化され、戦士達の士気は高まり、誰一人として国の為にと戦う事を厭わなくなる。

 その事に、アステリアスだけが違和感を感じて眉を顰めていたとしても。

 白銀の髪を靡かせ、透き通る青い瞳で前を見据え、自らの光を力として敵へと果敢に立ち向かうその姿は、神々しくさえ見える。

 けれど、彼女は未だ幼い少女だ。

 幾ら強力な力を使えたとしても、力を使い過ぎれば反動で身体は悲鳴を上げ、それを魔物達が見逃す筈もない。

 身を挺して彼女を守る筈のアステリアスの、その行動すら許さない、彼女は、何度でも目の前で傷ついていた。

 その様を、ただ見つめる事しか出来なかったのは、一度や二度では済まなかった。

 それは、致命傷にさえならなければ、治癒の魔法を使用する事が出来る神官に癒させるので、自分がどんなに傷ついても構わない、と彼女が考えているからだ。

 真白の服が真っ赤に染まり、小さな身体が痛みに耐え、気丈に笑いながら震えている姿を、側で見ている人間がどれだけ辛いかを知りもしないくせに、とアステリアスは彼女の腕を掴み、その身体を抱き抱えると、魔物達の前から引き離した。

 負傷した彼女を見た戦士達は、彼女を守ろうと次々に魔物達へと立ち向かっていく。

 それを横目で見ながら、アステリアスは彼女の傷を癒す為に踵を返し、神官達の方向へと足を向けるけれど、彼女が黙っている筈もない。


「いや! 離して!」

「その身体じゃ戦えない! 頼む、わかってくれ!」


 藻搔く彼女は白銀の髪さえ真っ赤に染めて、腕の中で抵抗している。

 アステリアスは宥めるように声をかけるけれど、彼女は一向に聞く耳を持とうとしない。

 血に塗れた手のひらを伸ばした彼女が視線を向けた先に、アステリアスは黒い樹木の根が伸びていたのを見た。

 蛇のようにしなる根は、戦士達を飲み込むように巻きつき、その身体を締め付け、いとも簡単に手折っている。

 その凄惨な光景にアステリアスは眼を逸らし、彼女は青い目を見開いて、声にならない悲鳴を上げていた。


「いや、やめて、その子は、まだあんなに小さい子供なのに……!」


 そう言って彼女が手を伸ばしていたのは、ミルゴレッタと変わらない年頃の戦士だった。

 とうとうあんな子供までこの戦いに導入したのか、とアステリアスは怒りに震えながらも、腕に抱えた彼女が飛び出してしまわないようきつく抱き締める。

 その場から退却しながら、誰かの悲鳴を、何度も何度も遠くで聞いていた。

 助けを呼び、許しを乞い、命を失うその瞬間の、叫びを。

 耳を塞ぎ、眼を逸らし、光の向こうへと逃げながら。


 神殿に戻り、彼女を神官達に託すと、彼女を庇いきれず傷を負わせたアステリアスを、彼等は非難する事はなかった。

 それどころか、それこそが勇敢なる我らの女王となるべき御方の姿なのだ、とさえ言うのだ。

 一つ、また一つと増えていく違和感が、ひび割れるように少しずつアステリアスの信心を揺るがしていく。

 一体何が正しいのか、それとも自分が狂っているだけなのか、わからずに、戦う日々だけが通り過ぎていく。


 ***


 身体だけが少しずつ成長し、それでも尚、争いは消える事なく、二人の周囲を蝕んでいった頃。

 神殿の奥、微かな影さえ許さぬ光に晒された部屋へと足を踏み入れたアステリアスは、虚ろな瞳でその光景を見た。

 眩い光が差し込む部屋の中で、数えきれない程の真白の花が敷き詰められている。

 白の国キリシェでは亡くなった人間は宝石となるけれど、その殆どが、魔物達に奪われているのだ。

 代わりの墓標として、彼女は花を手向けているのだろう。

 その部屋の真ん中で、小さな身体を更に小さくするように蹲り、彼女は嗚咽を零して泣き続けていた。

 家族は皆いなくなった。

 優しかった両親も。

 懸命に戦っていたヴァングロリアも。

 幼く健やかなミルゴレッタも。

 あんなに小さかったファルファローも。

 勇敢な戦士であった友人達も。

 目の前で攫われ、目の前で嬲られ、目の前で殺された。

 暗い森の奥底に飲み込まれてしまった。

 何度名前を呼んでも、誰も応えてはくれない。


「戦わないと……、皆が、待ってる……」


 呆然とした表情でそう呟いた、彼女は何度も何度も傷を癒やされ、その痕すら残らない事を厭い、自らの爪を腕に食い込ませている。

 皮膚を突き破り、血が滲んだその手を緩やかに掴んで、アステリアスは掠れた声で呟く。

 既にもう、この国の誰もがまともではいられない。

 それなのに、この心は酷く抉られ、何度も痛みを呼び起こす。


「駄目だよ。まだ傷が完全に癒えていない」

「それなら、私は一体何の為にいるの……?」


 教えてよ、と、途端に彼女は泣きながら懇願する。

 泣いてばかりの妹達を思わせるその姿に、アステリアスは呆然と立ち尽くしてしまっていた。


「ねえ、教えてよ。誰も助けられないなら、皆が救われないなら、それなら。私は、一体何の為に生きているの?」


 腕を掴まれ、身体を揺さぶられ、何度そう問いかけられても、アステリアスには何一つ答える事が出来ない。

 失った全ての命が無言で手を伸ばしているかのように、縋りつかれた腕にはしっかりとした重みを感じている。

 ひとの重みだ、とアステリアスは思う。人間の、命の重さだ、と。

 たった一人の重みでさえ、今は酷く、重い。

 それでも、とアステリアスは彼女の手を取って、小さく息を吐き出した。

 爪は歪み、血は滲み、傷がつけられた腕は、赤く爛れている。


「名前、考えたんだ」


 アステリアスがそう言うと、なまえ、と拙く呟いた彼女の瞳が、ゆっくりと焦点を合わせて見つめてくる。


「私の、名前? 本当に?」


 微かに浮かべられた笑みに、僅かな安堵を覚えて、アステリアスは彼女の耳元に唇を寄せた。

 擽ったいのか、身を捩りながらも手を握り締めて離れようとはしない彼女に、その名前を、そっと告げた。

 気に入ってくれるだろうか。

 喜んでくれるだろうか。

 何度もそんな事を考えて、決めた名前だ。

 彼女は透き通る青の瞳に微かに以前の輝きを取り戻し、ゆっくりと笑みを浮かべている。


「……どうして、その名前にしてくれたの?」


 問い掛けに、アステリアスは彼女の髪を優しく撫でた。


「こんな苦しくて辛い世界じゃない、新しく生まれる、やさしい世界で、しあわせになって欲しいから」


 その願いが、いつか叶いますように、と、密やかに願いながら呟くと、アステリアスは瞼を閉じた。

 祈りはきっと届かない。

 だって、救いなんてずっと、手にする事が出来なかったから。

 ふと温もりを感じて眼を開けば、少女が手を握り締めている。


「今日は、お別れを言いにきたのでしょう?」


 その言葉に、アステリアスはぎこちなく笑みを浮かべ、曖昧に頷いた。

 アステリアスは既に、彼女の護衛を外されている。

 今後は、戦士の一人として戦わなければならない。

 彼女を守り、連れ戻すだけの役目を担っただけで、幼い子供達まで連れ出されているというのに、どうして自分だけがのうのうと生きているのか、わからずに生きていたから、もう、今更どうだっていいのだけれど。


「アステリアスまで、いなくならないで」


 お願いだよ、と消え入りそうな声で呟く彼女に、アステリアスは考えていた筈の別れの言葉が声にならず、はくはくと口だけが動き、息が漏れる。

 彼女の為に戦うのだと、その為に、此処に存在していたのだと、そう言えれば。それだけで、済むはずなのに。

 たったそれだけが、どうしたって、言えない。

 真っ赤になった小さな指先は震え、青い瞳からは、次から次へと涙がこぼれ落ちている。

 気がついた時には、アステリアスはその身体をきつく抱き締めていた。


「一緒に行こう。皆が助かる方法を、探しに行こう。きっと二人なら、見つけられる」


 逃げよう、とは、アステリアスには決して言えなかった。

 彼女もそれを理解してはいたのだろう。

 今更逃げる場所など何処にもない。

 側に守りたいひとがいる。ただそれだけで、二人の足は動いていただけだ。

 そうして二人は走り出した。

 命を終える場所を探していただけなのかもしれない。

 これ以上の何処にも行けないと知っていたから。


 頭がおかしくなりそうな程に白い階段を駆け上がり、長い廊下を走り抜け、そしてまた階段を降り、再び長い廊下を駆け抜ける。

 息が苦しくても足がもつれても、この手を離してしまったら、もう二度と繋ぎ直す事は出来ないと知っているし、知っているからこそ、止まってはいけないのだ、と涙で滲む視界で先を見据える。

 震える声で何かを伝えれば、側にいる彼女が小さく頷いて、励ますように声をかけてくれる。

 その信頼感と安心感だけが、拠り所だ。

 逃げれば逃げる程、後ろから聞こえてくる苛立ちを孕んだ足音が増えていく。

 追い詰められているのは、理解していた。

 けれど、止まる事は出来なかった。

 何度も倒れて傷つき、それでも立ち上がり、懸命に走って。

 繋いだ手さえ離れなければいい。

 そう願った瞬間、白い床に、真っ赤な血が滴り落ちる。

 振り向いたその先にある景色が、やけにゆっくりと視界に広がって、いて。

 振り下ろされた何かに気がついた時、伸ばされた白い腕は鈍い光を纏う剣に遮られていた。


 目の前が真っ赤に染まっている。

 少女が、血溜まりの中で倒れている。

 その背中には、鈍く光る剣が突き刺さっている。


「……、どう、して」


 言いながら、アステリアスは理解していた。

 彼女が傷ついたとしても、彼らは決して気に留める事はない。

 彼女が傷つく事を厭わなかったのは、傷を癒す力を持つ者が神官達の中にいるから、生命を脅かす程の怪我を負わなければいい、と彼女が思い詰めているのだ、とアステリアスは考えていたが、それは違う。

 神官達が、女王が、彼女にその思考をいつの間にか植え付けてしまっていたのだ。

 彼女がどれだけの痛みを感じているのか、どれだけの恐怖を感じているのか、知りもせずに。

 それを、蔑ろにしていいわけがない。

 強張った足をぎこちなく動かし、手を伸ばしたその瞬間、背後から衝撃を感じて、息が詰まる。

 視線を向ければ、数人の神官達が動きを止めようと身体を押さえつけていた。

 その先には、女王が静かに前へと進み、少女の無事を確認すると、神官達に何らかの指示を出している。


「彼女の為なら何でも致します! ですから、どうか、彼女を戦いに出す事はおやめ下さい!」


 何度も懇願するアステリアスに、けれど女王は視線を向ける事すらしない。


「女王陛下!」


 一人の神官が少女を白い布で覆うと手をかざし、傷を癒すと、二人の神官がまた、少女の身体に金と銀の杖を押し当てている。

 一体何をしているのかわからずに、アステリアスは抗い、少女へと手を伸ばすけれど、頭を掴まれ、床へと叩きつけられた。

 顔の側面が熱を持つと同時にじわりと痛み、それを緩和するかのように、床の冷たさが伝わってくる。

 数人の神官達に押さえつけられ、見える視界には、血溜まりの向こうに、女王の佇む姿だけ。

 そうして少女に杖を持ち上げた二人の神官は、女王に告げる。


「あの者の記憶は消しました」

「あの者の記憶は書き換えました」


 一体、何を言っているのだろう。

 皮膚が騒めき、体温が足元から抜け落ちていく。

 女王の身体は、沢山の宝石で彩られている。

 国民の命の形をしたものが、彼女を、この国を、軽蔑するかのように、輝く事すら出来ずに曇ったまま、鈍く見つめている。


「この国を救う為に」

「再び戦わせましょう」


 二人の神官がそう言うと、女王の向こう側から、感情を全て抜け落としたかのような顔をした少女が、神殿の入り口へと両腕を掴まれて引き摺られている。

 傷は塞がっているようだけれど、身体を覆う白い布も真白の服も未だ真っ赤に染まっていて、アステリアスが何度呼びかけても、彼女は僅かも反応しない。


 やめてくれ、それだけは、どうか。

 懇願する誰かの、自分の声が、聞こえている。

 目の前が真っ赤に染まっていく。

 頭が、指先が、足が、かたかたと震えて、上手く息が吸い込めない。

 痛い、よりも、熱い、が、先行して訪れる時には、いつだって耐えがたい苦痛が訪れるのを、知っている。

 そして、頭が真っ白に塗り潰されそうになる時は、大切な何かを壊されてしまった時なのだ、とも。

 目の前が真っ赤に染まり、口からだらしなくみっともない自らの悲鳴が聞こえる。

 あああ、だとか、うああ、だとか、獣のように言葉にならないその声を辺り一面に響かせても、けれど一向に目の前の惨劇を救う手立てを与えてはくれない。

 涙を流す事も出来ず、無様に床に押さえつけられ、声を上げるだけの、無能な生き物と化した自らの前に、その人は悠然と立っていた。

 あまりの美しさに無機質に見える顔立ち、長く艶のある白銀の髪、穢れなき白い衣、手足を彩る無数の宝石。

 青い瞳はまるで生気を感じられないというのに、奥底まで覗ける程に透き通っている。

 悲鳴を上げ続け、からからになった喉から、どうして、と掠れて音にならない声が零した。


「……、何故ですか」


 呟いて、アステリアスは女王を見た。


「何故、そこまでして、戦わせるのですか……!」


 正気を失ったかのような虚ろな瞳が、静かに見下ろしている。


「眠りなさい」

「忘れなさい」


 ぐらりと揺れる視界に、歯を食い縛り、眼を見開いて、アステリアスは叫んだ。

 金と銀、二つの杖が喉元へと押し当てられるが、声を上げる事もままならず、アステリアスは獣のように彼等を睨みつけ、痛みで僅かでも意識を保っていられるよう、唇をきつく噛み締めた。

 唇から血が滴り落ち、真っ白な床へと落ちていく。


「女王陛下! リーニエンフィ様!」


 その時、アステリアスの声に、女王は青い瞳を僅かに揺らがせた。

 奥底まで透き通る瞳は、少女のそれによく似ている。

 それでも、彼女は眼を眇め、冷徹に言い放って、いて。


「この国を救う為に、最後まで戦いなさい」


 押さえつける神官達を振り払い、杖や腕で殴りつけられ、地面に叩きつけられても尚、抵抗し、身体中の血液が沸騰し、血管がぶちぶちと切れていくような感覚も構わずに、顔を上げて、アステリアスは叫び続けた。


「何故ですか……、どうして、私達が苦しまなければならないのですか———!」



 ***



 眼を開くと、薄暗い世界が広がっている。

 僅かに動かしただけで、強張った身体に痛みが走るけれど、周囲の景色を見たアステリアスは、深く長く息を吐き出した。

 白い世界ではなかった事に、心底安心する。

 そうだとしたなら、そこは地獄に違いないのだから。

 どうやら意識が飛んでいたらしい。

 本棚で囲まれ、書籍がうずたかく積まれた部屋の中は、周囲の影響を受けにくいらしい。

 この部屋に入り浸っていた、魔物の少女がかけた魔法の影響なのだろう。

 主を失くした部屋の片隅には炎を灯さない燭台が置かれていて、アステリアスはそれを震えが止まらない手で握り締める。

 痺れて上手く歩けなくなってきた足を引き摺りながら部屋を出て、前へと進めば、次第に息が上がっていた。

 口中には血の味が広がり、迫り上がってくる熱い塊を吐き出せば、喉の奥から血液がまた吐き出される。

 腹部はのた打つように痛み、背骨は悲鳴を上げるように軋んでいる。

 まるで自分自身ではないような、感覚。

 身体の中身を作り変えられ、化け物にでもされているかのような。

 今すぐにでも蹲り、眠りについてしまえたら、どんなにか、楽だろう。

 は、と息を吐き出し、アステリアスは勢いに任せて壁を叩き、その衝撃で、痛みを、現実を、思い出す。

 何故、此処に自分が存在しているのか、を。

 前を向けば、硝子で出来た両開きの扉が見える。

 大きな何かが息をしているような風音と、地を這い蠢く音がする。

 アステリアスは息を整え、咳を零すと、彼女の名前を呟いた。

 彼女の為に、彼女が彼女らしくいられて、全てを本当の光で照らしてくれるような、そんな名前を。

 それだけで、アステリアスの顔には小さく笑みが浮かぶ。

 硝子扉をあければ、噎せ返るような緑の匂いが鼻腔いっぱいに広がっている。

 沢山のいきものを呑み込んだ、深い森の中心部は、嗤うように枝葉を震わせている。

 戸惑いも、恐れも、もう既に感じない。

 アステリアスは、中庭へと踏み出していた。

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