第21話 追憶と想望


 初めて目にした彼女は、ただの幼い子供だった。

 女王陛下に仕える直属の神官が何処からか連れてきたと噂されたその少女は、女王陛下の生写しとも言える程によく似ていた。

 眩く輝く白銀の髪に透き通る青い瞳、身の内にある溢れんばかりの光。

 しなやかに伸びた背筋と決して怯まぬその眼差しが、神官達によってしっかりと教育されているのだろう事が見て取れた。

 アステリアスが彼女の護衛として任命されてたのには、父母の献身と姉の勇猛を讃えられたからだと常々聞かされていたが、尤も、その頃既に彼女に近い年頃の戦士は戦場に出ていて、誰も他にその役目を担う者がいなかっただけだろう、とアステリアスは考えていた。

 残された二人の妹をどうにか食わせていく為ならば仕方のない事であったし、また、女王陛下の命に背く事は絶対に許されないのだから、頷くほかはなかったのだけれど。

 常に皆の模範となるようにと厳しく育てられていながら、清らかで汚れのない純真さと笑みを絶やさぬその明るさは、次代の女王と呼ばれるには未だ幼すぎる。


「彼が貴方を守護する戦士ですよ」


 神官にそう言われ、目の前へ跪くと、彼女はことりと頭を傾けた。


「貴方が、アステリアス?」

「は、はい」


 年下の少女だというのに、真っ直ぐに見つめるその瞳の透明さと力強さに、アステリアスは気圧されてしまう。

 けれども己に与えられたのは、次代の女王とも呼ばれる方を守護する、大切な役目だ。

 頭を下げ、その小さな爪先を見つめながら、アステリアスは問いかけた。


「お名前は……、何とお呼びすればよいでしょうか」


 問い掛けに、神官は怪訝そうに目元を歪めている。


「この方は次代の女王陛下となられるのです。名など聞くまでもありません」


 言葉にこそしなかったけれど、そんな、とアステリアスは思う。

 名前というものは確固たる自分を決める、大切なものだ。

 彼女は彼女だけのものであって、彼女が次代の女王陛下となるという事は、今代の女王陛下の代わりとなるという意味では、決してない。

 それでも彼女は、ただただ無邪気に笑ってみせるのだ。


「宜しくね、アステリアス」


 ***


「嫌ではないのですか」


 問い掛けに、少女は不思議そうに首を傾げて振り向いた。

 真白の廊下は影一つ落とさぬよう明かりを灯されていて、揺れる彼女の長い髪は白銀に輝いている。


「急に、どうしたの?」

「いえ、その……、名前すら、与えられないというのは、あまりに……」


 突然の事に眼を瞬かせた彼女は、口籠もるアステリアスの言葉に戸惑うように、けれど、何処か嬉しそうに、彼の側へと足を向けた。

 少女にとって、名前など記号のようなものだ。

 自らに与えられた使命と、受け継ぐべき力と権利、そしてそれに伴う責任と重圧。

 それが少女にとっては大切な事であり、事実、少女が少女たりうる事を、周囲は決して許してはくれなかった。

 けれど、彼はそれを間違いだと感じているのだろう。

 それを告げる事すら、傷つけてしまうのではないか、と感じている程に、彼は、やさしい。

 そんな人は、側にいてくれた事はなかった。

 女王になるべき人間が、誰かを特別に想う事など、許されないからだろう。


「じゃあ、貴方が名前を考えて?」


 私が私らしくいられる名前を考えて、と少女は言い、彼に笑いかけた。


「貴方の前なら、私は私らしくいられそうだもの」


 私の願いはきっと叶わないだろう、と少女は思う。

 けれど、この国を守る事が、ひいては彼を守る事になるのだ。

 彼は驚いた顔をしていたが、ゆっくりと顔を綻ばせ、嬉しそうに笑って頷いた。

 それだけが、まるで救いのように、少女には感じられていた。


 ***


 おにいちゃん、と拙い声で呼ばれて、アステリアスは顔を上げた。

 胸元を握り締め、今にも泣き出しそうな顔で見つめてくる妹は、きっと嫌な夢でも見てしまったのだろう。

 あやしていたもう一人の幼い妹を片手に、そして、結局はぐずぐずと泣き出してしまった妹をもう片手に抱き締めて、アステリアスは小さく息を吐き出した。

 両親が亡くなり、五つ上の姉が亡くなり、そうしてぽつりと取り残された家族は、とうとう自分と幼い妹二人だけ。

 その事に目を背けたくて、小さな庭に出て気を紛らわせてみても、子供達というものは、聡く、敏感で、今この国に起こっている現実を少しずつ感じ取っているらしい。

 家族の不在に泣き出し、得も言われぬ空気に怯え、一向に離れようとはしない。

 昼寝をさせていても、こうして数分もすれば兄の姿を探して抱きついてくるのだ。

 小さくてまあるいその頭に頰を押し付けて、大丈夫だよ、とアステリアスは誰に言い聞かせているのかわからない言葉を呟いた。

 大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 何度も口から溢れてくる言葉は、心の底に降り積もって、いつまでも消えてはくれず、身体の中に重さを残している。

 どうしたら大丈夫になれるのか、知りもしないくせに。

 強く眼を瞑っていても眩い光は目蓋の淵から差し込んで、現実を忘れられはしない。


「アステリアス、こんにちは」


 突然明るい声が聞こえて眼を開くと、泣いていた筈の妹が顔を上げてぽかんと口を開けたまま、目の前に現れた少女を見ていた。

 彼女は常ならば神殿の奥にしかいない。

 だというのに、少し離れたアステリアスの家に、彼女がいる筈はないのだ。

 白い法衣に身を包み、軽やかな足取りで近づく彼女は、驚いたアステリアスを見て、楽しそうに笑っている。


「こ、こんな所まで一人でいらしてはいけませんよ」

「大丈夫よ。アステリアスが側にいるもの」


 今ここに、と付け足して、彼女は妹ににこりと笑いかけている。

 強かなその様子に、強張っていた身体からそっと力が抜けるのを感じて、アステリアスの顔には小さく笑みが浮かんでいた。


「おにいちゃん、このひと、だあれ?」


 涙は引っ込んでいたけれど、泣き腫らし濡らした頰をそのままに呆けた顔をした妹は、アステリアスを見上げてそう問いかけてくる。

 ええと、とアステリアスが口籠もると、彼女は頰にかかった髪を耳にかけ、にっこりと笑いかけていた。


「貴方達はアステリアスの家族?」

「妹です。この子がミルゴレッタ。こっちはファルファロー」


 末の妹はまだアステリアスに抱えられたまますやすやと眠っていて、それを見たミルゴレッタは顔を上げて少女に言う。


「あのね、おねえちゃんもいるよ!」

「……、姉は、ヴァングロリアと言います。今は、その……、戦いに出ていますが」


 姉は先日亡くなった。両親はとっくの昔に。

 けれど、これ以上妹達を悲しませ、絶望に追い詰めてしまう事だけは避けなければ、とアステリアスはその事を彼女達には伏せていた。

 少女はそれを理解していない筈もなく、悲しげに眉を下げながらも、笑みは絶やさない。


「……、そう。たくさん家族がいるのね」

「皆が寂しい思いをしないように、と両親が遺してくれた大切な家族です」


 人が多ければそれだけ大変な思いをするかもしれない。

 だけど、幸せはその分増えるから、と母は言い、父はそれに頷いていた。

 やさしいひとたち。

 どうして、そんな人達ばかりが犠牲になってしまうのだろう。

 そう考えていたとしても、この国の誰一人として、彼らをそう呼ぶ者はいない。

 聖戦に赴いた尊き戦士。

 そんな風に呼ばれる為に、戦っていたわけではない筈なのに。

 少女に頭を撫でられていたミルゴレッタは、気持ち良さそうに眼を細めていたけれど、きっと母か姉を思い出してしまったのだろう。

 大きな瞳に再び水分を含ませて、彼女に問いかける。


「ねえ、せんそう、っていつおわるの?」


 おとうさんもおかあさんはずっと帰ってこないし、さいきんはね、おねえちゃんも、ずっと帰ってこないの。どうしてみんな帰ってこないの。

 そう言ったミルゴレッタは、またぐずぐずと泣き出して、アステリアスに縋りついていた。

 その声に起こされてしまったらしいファルファローも、ミルゴレッタの感情に引き摺られてしまったのだろう、声を上げて泣き出してしまう。


「ミルゴレッタ、ファルファロー、もう泣くな。また目が腫れるだろ」


 疲れ果てるまで泣いてしまう妹達は、もう既に涙で濡れた頰が真っ赤に染まる程腫れ上がっている。

 アステリアスとて、妹達が泣きたくて泣いているというわけでない事は理解していた。

 まだ幼い妹達が感情に振り回されているのは、仕方のない事だ。

 けれど、一斉に泣かれてしまってはほとほと困り果ててしまう、のだ。

 自分だって、いつ戦いに行くかわからない。

 彼女の護衛になったとしても、人が足りなくなればどうしたって駆り出されてしまうのだ。

 その時、涙を拭ってやれるのは、誰もいないのだから、と考えて、それを考えてしまう自分自身が情けなくて悔しくて、アステリアスは思わず俯いてしまう。

 俯いた視線の先、少女の小さな爪先がアステリアスの側に近づいている。


「大丈夫だよ。私がきっと終わらせる。私、すっごく強いんだよ!」


 その言葉に、ミルゴレッタはしゃくり上げながら顔を上げていて。


「そうなの?」


 問い掛けに、少女は元気よく頷いてみせた。


「うん! 任せて!」


 きっと皆を守るから、とはっきりと告げる少女は、そのまま三人を包むように小さな腕を伸ばして抱き締めた。

 微かにその指先が震えていたのを、誰も気づかないまま。

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