第23話 悔恨と赦免


 雨の音が、聞こえる。

 闇に包まれた森の中、耳鳴りがする程に煩い雨音に包まれて、雨水は冷酷に冷徹に少女の身体に叩きつけられている。

 鼻腔の奥にまとわりつくような不快な緑の香りと、湿気を帯びた草葉と粘性を保ちつつある泥に塗れた足を前に進める事すらも出来ず、覚束ない思考と記憶に少女は目蓋を閉じ、自らの体温が少しずつ失われていくのを感じていた。

 偶像にも似た視界。暗闇に沈む五感。

 少女はいつの間にか其処に居た。

 自分が何者なのかも知らずに。

 それだけが理解出来る全てだった。

 濡れた髪の間から止め処なく雫が流れ落ち、寒さに震えた手のひらで、頼りなげな身体をそっと抱き締める。

 遠くで、耳鳴りに似た音がしていた。


「……、リーニエンフィ」


 呼びかけられ、少女は瞼を開き、濡れた睫毛の隙間から流れる雨水さえ躊躇わずに、瞬きを繰り返してそれを見た。

 深い木々に囲まれた闇はぼやけた陰影を使い、朧げな世界を形成している。

 彼は、その中で静かに立ち尽くしていた。

 黒い鋼で出来た大きな身体、兜には大きな角を生やし、背中には深い色の外套、手足は大きな爪のように尖っている。

 軋んだ金属の音を立てて、ゆっくりと歩み寄ってくる異形の姿に、けれど、少女は僅かも驚く事はない。


「……、誰?」


 呟きは、雨音に掻き消され地面に流れて闇と同化する。

 少女は見上げた異形の男に、怯える事も怖がる事もしなかった。

 奥底まで覗き込めそうな程透き通るのに虚ろな青い瞳で、ただただ呆然と見つめている。

 異形の男はその少女を知っていた。

 正しくは、少女と同じ形をしていた女を、知っていた。

 終わりの時が来るまで、決して出逢えぬ彼女と同じもの。

 夢にまで見たそれが、今、自らの目の前に在る。

 その事実に、男の指先は震え、金属の擦り合わさる音が辺りに響いていた。


「……そう、か。それ、が、彼女の覚悟、彼女の選択、彼女の、願い」


 呟いて、男が背を向けると、少女の瞳は石を投げ入れた水面のように大きく揺れた。

 踏み出した裸足の脚は泥濘に取られ、足取りは覚束ない。

 今にも転びそうになりながら、少女は彼の後を追いかけていた。

 ぎこちなく振り向いた男の青い炎に似た瞳は、少女を見てはいなかった。

 彼は少女によく似たあの日の彼女を見つめていた。

 穏やかに降り注ぐ木漏れ日の中、柔らかに微笑んで手を伸ばした、彼女の姿を。


「一人に、しないで……」


 呟いた少女の目の前に、無骨な手が差し伸べられる。

 遠くで、耳鳴りに似た音がした。

 少女は差し出された歪な指先を虚ろな瞳に映し出し、ゆっくりと見上げる。

 震えたあの指先は、一体誰のものなのか。

 解らずにただ、鋭い爪を持つ無骨な指先に手を触れる。

 冷たく、温度を感じる事のない、硬質で異質な指先。


「それが、お前の……、そして、私、の、覚悟なら、ば」


 そして、少女は頷いて瞼を閉じた。

 それが、始まりに、そして終わりになるとも知らずに。



 ***



 目蓋を開いた少女がゆっくりと瞬きを繰り返すと、睫毛の縁から溢れた涙が零れ、頰の丸みに沿って流れていく。

 思い返した記憶の全ては無機質で退廃的で、けれど、確かに少女の身の内に存在していたものなのだと、胸底を抉るような痛みを齎している。


「今のは……」

「あれは、お前さんの記憶だよ」


 自分のものではない声に、少女が暗闇の中に眼を凝らすと、顔の横に小さな茶色の毛玉にしか見えない生き物が立っているのが見えた。

 光の届かない程の暗闇の中、少女を労わるかのように懸命に輝いているのは、彼の首元につけられた黄色の宝石だ。

 横たわっていた身体を起こし、呼吸を繰り返しながら、現実と夢の境目を探している少女に、それは言う。


「次代のリーニエンフィ。女王陛下」


 恭しく頭を下げるその生き物に、少女は視線を俯きかけて止めると、緩やかに頭を振った。


「私はフィーネだ。女王とは違う」


 此処で、確固たる自分自身を与えられた、一人の人間なのだから。

 呟いて、フィーネはゆっくりと瞬きを繰り返し、遠くを見つめた。

 果てのない筈の暗闇の向こうには、ぼんやりとした明かりがぽつりぽつりと点在している。

 まるで先を示しているかのようなそれは、終わりを導く灯火にも見える。


「ルトレイイ。君はキリシェの神官だったのだな」


 突然のその言葉に、彼は丸い眼を瞬かせ、小さく息を吐き出した。


「……まあ、どうしようもなく無能な人間だったがな」


 逃げたお前さん達を追ってたんだ、と事もなげに彼は言い、小さな足で前に歩き出している。


 アステリアスとフィーネが逃げ出し、そして捉えられ、再び戦いの為に夜の国へと送り出された時、ルトレイイは神官として、二人が再び記憶を取り戻し、逃げ出さないよう見守れと命令され、長い間共に行動していた神官を伴って夜の国へと入った。

 他者に記憶を植え付ける魔法を使えるルトレイイとは対照的に、その神官は記憶を失わせる魔法が使え、国の中でも二人は稀有な存在だった。

 だからこそ、フィーネが戦いの最前線に立ち、国民が少なくなってしまった時にも、きっと重宝されていたのだろう。

 けれど、とうとうフィーネが壊れかけてしまうと、女王はそれらの人材さえ戦争へと送り出してしまったのだと彼は言う。


「そうして片割れがいなくなって、初めて気がついたんだ。自分がどんなに愚かな事をしていたか」


 すまない事をした、と、項垂れる彼は小さく、それに呼応するかのように、胸元の宝石が輝いている。

 それは、彼の側にいつもいた、片割れの神官なのだろう。

 フィーネはゆっくりと頷いて、笑みを浮かべた。

 その人を失い、夢に取り込まれた彼は、きっと自らと同じ痛みを知っている。


「それでも貴方は、貴方達は、私に記憶を返してくれた。私のかけがえのない、大切な記憶を」


 瘡蓋になっても剥がれ落ちては膿を孕み、じくじくと痛む傷跡のような、苦しくて痛くて辛い、それでも自らを証明する為の、愛すべき記憶達。

 否定出来ない全ては、自らを培い生きた証であって、この暗闇を灯す、確かな光でも、ある。

 涙に濡れた頰を拭うと、乾いた頬がひりついて痛む。

 けれど、もう、迷う事も恐れる事もない。

 立ち上がり、小さく息を吐き出すと、足元の生き物は悲しそうに円な瞳で悲しそうに見つめてくる。


「女王の願いを叶えにいくのか?」


 問い掛けに、フィーネは口を開きかけて、緩やかに首を振った。


「……いや、彼女の本当の願いは……」


 白銀の短剣を彼女から託された時、フィーネは彼女の本当の願いを聞いている。

 何故此処まで戦いを激化させ、国民を失い、それでも、彼女が戦いを止める事をしなかったのか、を。

 たった一つの、愚かで、全てを犠牲にしても叶えたかった、彼女の願い。


「彼女が終わりを願っているのはわかっていた。それでも、この戦いが終わるのなら、それでいい、と思っていた」


 そして、今、アステリアスはその代わりを果たそうとしている。

 彼を守る為と手渡した白銀の短剣に込められたものは、女王として受け継ぐべき光の魔力が注がれている。

 それは、フィーネ以外の人間に到底扱えるものではないが、それでも、彼はフィーネを守る為に、そして全てを終わらせる為に、その力を無理矢理に行使したのだろう。

 彼はやさしいから、と胸中で呟いて、フィーネは苦笑いを浮かべた。


「全部を救うなんて、きっと出来ない」


 だけど、と付け足して、瞼を閉じる。


「あの人が、待っていてくれるから」


 私に出来る最善を尽くしてみる、と言って、開けた視界には、もう暗闇は広がっていない。

 真っ白の世界は、酷く懐かしくて、恐ろしくて、胸が押しつぶされてしまい

 そうになるけれど、先の見えない暗闇の奥底に似ていて、どちらの世界も、少女には決して嫌いにはなれそうになかった。


「俺達もお前の力にしてくれ」


 足を踏み出そうとしたその時、ルトレイイは意を決したように小さな両手を広げてフィーネに言った。

 けれど、彼等は夢の世界に取り込まれてまで自戒の念を込め、宛のない旅をしてきたのだ。

 共に行く事で、これ以上の悲しみも苦しみも、余計に追ってしまうのではないか。

 その事にフィーネが戸惑っていると、小さな手のひらがフィーネの爪先を掴み、懸命に訴えている。


「頼む。大したものじゃないが、お前さんの願いを叶える、その力にして欲しいんだ」


 他の誰でもない、フィーネ自身の力になりたいのだ、と彼は言って、首元の宝石は、彼の願いに同調するかのように、懸命に光を瞬かせている。

 悲痛にも見えるその懇願に、フィーネは困ったように笑みを零す。


「わかった。一緒に行こう」


 そう言って、フィーネが彼の首元にある宝石に触れると、内側から光が溢れた。

 その光に導かれるかのように、ルトレイイの身体もゆっくりと消えていき、手のひらには、黄色の宝石が二つ、並んでいる。

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