第34話 小さな刺繍道具のための喜び

週末の朝市にアンティークの空き缶。

刺繍用にと手を伸ばしたら

珍しく兄に止められた、理由もなしに。


あとあとで意味深に笑う人に手を引かれ

丘の上の家へと戻る。


午後のお茶を飲んだら、

兄が屋根裏部屋から木箱を一つ運んできた。

覗き込んで私は目を見張る。


あれもこれも。

小さな頃の思い出がぎっしり。

甘酸っぱい気分に浸りながら

兄の脇でそれを眺める。

すぐに兄が小さな缶を取り出した。

私はあっと声をあげる。


叔父のお土産のチョコレート缶。

まあるい缶の蓋にはぐるりと薔薇のリース。

その中に花咲く野原と白馬とお城の遠景。


好きなものばかりだから

いつかお裁縫箱にするんだって言ったよね。

だから取っておいたんだ。


私は思わず膝を叩いた。

言われれば鮮やかに蘇る。

けれど今の今までそんなこと

これっぽっちも覚えていなかった。


朝市のよりずっとずっと綺麗。

大きさも刺繍枠にぴったり。

チョコレートの味だって全部思い出せる。

私は嬉しくてそれを胸にかき抱いた。


ふと、箱の中には他に

何があるのだろうと手を伸ばしたら、

さっと後ろに隠されてしまった。


秘密だよ。

出番が来るまで絶対秘密だから。


あの頃みたいに兄がちょっと意地悪く笑って

あの頃みたいに私が風船みたいに頬を膨らませ

けれどそれがたまらなく可笑しくて嬉しくて

私は兄の胸に思いっきり飛び込んだ。

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