1番地:古の森

「旦那、しっかり。若旦那」

 頬を叩く主に呼ばれて、意識が戻る。酷い目眩もさることながら、それ以上に、全身が潰れたような鈍痛で、腕一本すら上げるのが億劫だった。

 どうやら僕は、倒れているらしい。

「う……」

 気絶している間に、嫌な出来事を思い返していたようだ。

「しっかりなせえ。何本に見えやすか」

 男に差し出されたままを見る。黒い鋼糸を隙間なく巻いた、成人の右手の平。しかし。

「七本……?」

「左様でござんすが……もっと驚きなせえ」

 つまらそうに口を尖らせると、男の手から余分な指二本が解け、鋼糸に戻る。鋼糸は意思を持つかのように、元の腕に自ら巻き戻っていく。

「のんびりしちゃ、お仕舞いですぜ。さ、肩に掴まんなせえ」

 そう言われても、痛くて仕方がない。力を込めた先に抜けていくのだ。

 それでも声の主は僕の事情などお構いなしに、断りなく僕の腕を掴んで、自分の肩に回させて、よっこら掛け声で立ち上がる。

 急に姿勢が変わったせいか、先の体調不良に頭痛まで加わった。

 反射的に額へ手を当てると、湿った布に触れた。次第に焦点を取り戻した目を掌に落とすと、僕の手には赤く粘つく血の斑が着いていた。

「ご安心なせえ、見た目よか浅えです」

 普段の僕なら流血に卒倒しかねないところだが、悪夢に苦痛に頭痛にと、それどころではなかったのは、不幸中の幸いだった。息を整え、血の巡りが平常に戻るにつれて、ようやく頭のもやが取れてきた。

 一族の宿命を知って一年間を、旅に出る準備に捧げた。待ち受ける運命を変える手がかりを求める旅、その旅も大詰めで、あとは古の森を抜けるだけだったはず。

 肩を貸す男を見やる。目深に外套をまとい、四肢に鋼糸を隙間なく執拗に巻きつけた外観の異様さは、忘れようもない。

「御者さん……? もう、着いた……?」

 寝ぼけてる暇はありやせんぜ。と、御者は渋く呟いた。どういうことか尋ねる間もなく、御者は声を潜めて、しかし張るだけ張るように別の方へ投げかけた。

 ただし、その声は地面に向けているようだ。

「おい、相棒。若旦那の荷物あ、見つかったか?」

 御者が向く先には馬車の残骸が埋まっている。半ば土塊に隠れているが、粉々になって新しいように見えた。地表近くで漂う胞子が、僅かに差す陽光にほの暗く浮かび上がっている。

 何故馬車が……僕の乗っていたはずの馬車が、こんな有様に。

 馬車をこうも無惨な姿に変えた原因、頭の中で巨大な幻影として浮かんだそれの姿が輪郭を得る直前、答えを置き去りにして、呼びかけと同時に残骸が盛り上がり、木屑を分けて恰幅の良い者が現れた。

 セントール。人馬とは古いお伽噺の語るところであるが、その話を残した者は相当なロマンチストだろう。

 実在のセントールは、確かに下半分は荷運びに優れる逞しい馬体に似た姿であるが、翡翠色の外殻に三角頭、何より両腕の鎌は見間違えようがない。

 それは、カマキリの亜人、古くはワーマンティスと蔑まれた一族の本来の名である。

 御者の相棒、セントールは得意げに触覚を上げて、大きなトランク鞄を掲げた。容量オーバーをベルトで無理矢理閉じ込めたそれは、紛れもなく僕の荷物だった。

「そういやお前、喉笛はどしたい?」

 相変わらず、御者の声掛けは地面寄り。昆虫亜人の耳は脚の付け根にあるらしい。

「……!」

 触覚が萎えたのを見るに、喉笛なるものはもうダメらしい。御者は「お気に入りだったもんなあ」と同情的な台詞をこともなげに言い捨てて、手慣れた調子で相棒に新品を約束してご機嫌をとる。

「御者さん、ありがとうございました。もう一人で立てます」

 御者の手を離れ、一人で立つ。僕の具合を心配したのだろう。僕を支えていた御者の手は、介助の名残が消えないとばかりに、僕に触れようか触れまいか、ソワソワとしている。お人好しなのだろう。

 僕は具合を見がてら、自力でセントールの背に乗ろうとした。普段の全力の半分のところに、粘土の壁が阻むようなもどかしさを感じる。

 ふと体が軽くなったのは、セントールの鎌の助け。足がかりにしてくれたおかげで騎乗に苦労はなかった。

 御者は胸を撫で下ろすのも束の間、さて次だとばかりに気を引き締める。

「東関門まで強行軍だ、相棒。荷は最低限な。なあに、番兵に泣きつきゃ、メルトポまでの面倒くれえ見てくれらあよ」

 御者は荷籠を掘り返し、セントールに装着する。手早く荷の積み替えを済ませてすぐに、御者は僕をその身で包むようにしてセントールに乗った。

 空模様を探るように仰ぐ御者の耳が、等間隔に長く響く地鳴りに似た音を拾う。

「急ぎやしょう。奴さんに気取られちゃことだ」

 御者はセントールの腹をかかとで叩き、それを合図に僕たちは出発した。

 その間、僕はようやく、この場所のことに気が向いた。

 見上げれば、空が狭い。苔むした木肌の高壁に挟まれて、筋に切り取られた頭上は、茂る緑葉に遮られている。また霧深く、ここまで届く光は細い。

 見ようによっては、街の細い路地裏に見えなくもない。

「御者さん、森は抜けた?」

「冗談よしてくだせえ。まだ古の森でさあ」

「森の中? ここが?」

「……? ああ、はいはい。一見さんは、まるで迷宮だなんて言いやすがね、今あっしらが走ってるのは、古代樹の根と根の隙間。天然の迷路でさあ」

「この壁が……根っこ……」

 初めての家の外、広い世界。それも長旅で、道中は見たこともない景色に圧倒され続けてきた。壁にしか見えない根もその一つだが、まだ森の中という現実に、否が応でも、襲撃して来たアレを思い出す。

 ずっと聞こえる長い地鳴りは、アレの呼吸だ。

「さっきの怪物は何ですか?」

「さあて……あんなん、この森にゃいねえはずでさ。が、他所から流れ着いたとも思えねえ。そりゃあ、巨人の住処だ。でけえ生き物だらけが当たり前で。それでも限度があらあ。気性は荒いわ、ノミみてえなあっしらに構うわ。どころか、トロルはおろか、そこらのティタンがガキ同然たあ、尋常じゃありやせん。山ですぜ、ありゃあ山……だ?」

 にわかに視界が暗転する。湿気た風が吹き、肌寒さが一転して生暖かく……否、過ぎた熱で生暑い空気が広がった。

 朝の空、根の壁の切れ目を覆うような一面に火の燻る夜空。そこに浮かぶ、二つの燃え盛る太陽が垣間見える。

 それは、害意を宿す瞳、山なる者。

 それは根の隙間に鼻を捻じ込み、臭いを探る。臭いを嗅ぐだけで風が逆巻き、僕らを乗せたセントールの巨体さえさらう威力で襲う。

 御者の果断は迅雷であった。腕に巻いた鋼糸を一振りに解いて、僕をセントールの上体に巻きつけた。

「窮屈は勘弁ですぜ旦那! お出ましだぜ、相棒!」

 山なる者の咆哮は、大気を震わせ、熱風の嵐と化して僕らを襲う。

 むせ返りそうな熱気と臭気に目もまともに開けられない中、セントールが駈ける。広げた鎌を鉤爪として根の木肌へ引っかけ、熱気を抜けて根の頂上に立つ。甲殻の羽を展開し、渓谷ほど離れた対岸の根へ飛び移る。

 人馬の評を超えた全速力の逃亡を前に、古代樹の根の隙間に足を取られた山なる者と距離が開く。開くにつれて、その全貌が見えてきた。

 怨嗟の咆哮が轟く。ふいごを踏んだ炉の如く白熱する口腔、瞳、耳孔、黒い体表に赤熱を浮かばせて灰煙を撒き散らす様は、石炭でできた火山の如く近寄り難い。

「……イノシシ」

 森で一、二を争う巨大な古代樹の幹でも隠しきれない、聳え立つイノシシが、そこにいた。

 足を取られて尚、イノシシの暴威は鎮まらない。

 悠久の時を重ねて生長した根を千切り、無理やり足を抜いたが最後、行く手を阻む根を全て踏みしだき、抉り、煮えたぎる溶鉄の血で焦がしながら、僕ら三人を捉えている。

「相棒、上だ!」

 御者と息を合わせ、セントールは古代樹を駈け登る。木肌の突起に六肢の爪をかけて幹を登り、枝から枝へ跳び乗りを繰り返し、僕らはイノシシの遥か上空に到達した。

 卑怯の誹りがイノシシの絶叫にこもっている。

「ざまみろ。ここまでおいで、ってんだ」

 イノシシが健気にねじくれた牙を幹に立てる様を見下ろす。足が竦む高さに、呑む唾が固い。

「さて……枝伝いに行きやしょう。東関門さえ越えりゃ……」

 急にセントールが棹立った。

 にわかに辺りが焦げ臭く――どころか、足場の枝に火の手が回り、煙が昇る。枝は内部から燃えている。イノシシの灼熱の息が幹を伝い、文字通り一息にここまで延焼したのだ。

 急ぎ別の樹の枝へ。セントールの跳躍が精彩を欠くのは不意を突かれた故か、枝から脚を踏み外し、落ちかける。が、元は昆虫亜人。鉤爪がかかりさえすれば、逆さ吊りの姿勢でも、一応の着地になった。

 御者の鋼糸に助けられた。これがなければ今頃真っ逆さまだ。

 元いた古代樹の方は、すっかり熾し炭も同然に燃えている。逃げなければ今頃、僕たちもああなっていたと思えば、逆さ吊りなど安い。

 古代樹を火種に熱を吸い、増々と赤白む黒毛のイノシシ。背後に投げる視線は、次なる足場、その支えの幹に突貫し、先より急速に古代樹を燃焼させた。

 暗がりと霧の深みに佇む古の森が、今や八方が業火の唸りと陽炎に揺らいでいる。

「ざけんなブタチクショウ! ああ冒険者どもの自慢話、聞き流さなけりゃなあ! 役立つ話もあったかもしんねえ!」

 セントールの脚が景色を置き去りにする。火の粉と落葉の嵐で上も下もわからない中を猛進するものの、火の手が回る方が早い。形振り構わない逃亡は、いつの間にか無闇な逃避に変わり果てていた。

 道などとうに途絶え、どこを向いても炎の檻ばかり。ひりつく熱の重圧に囚われて、己の命ばかりが大事だと心は叫ぶ。

 先祖のようにデスマスクを残す、それさえ果たせず燃えて死ぬ。

 先祖のようなデスマスクを残さない人生のため、たった一人の旅に出た。その道半ばで、やはり先祖のように業苦にまみれて死ぬ。

 先祖代々の運命に従えば、せめて愛を知れたというのに。

 こんなはずじゃなかったのに。

 後悔と怖気が胸を占め、混ざったどろどろの感情から、どうせ自分の人生なんてこんなものだったのだ、という呪詛が聞こえる。

「何も震えるこたあありやせんぜ、若旦那!」

 だというのに、御者は前を向き、セントールと息を合わせて樹々を跳ぶ。

「若旦那にゃ地獄みてえな光景でしょうが、あっしに言わせりゃ、修羅場の数にも入りやせんわ!」

「だけど! ……僕は、死にたくないのに!」

「あっしもでさ! けれど、若旦那が本当に怖がってるのは、この火の海ですぜ! 弱え自分じゃ逃げられねえ! 自分の力量でしか測れねえから、おっかねえ!」

「だったらどうすりゃ良いのさ!?」

「もっと人を頼んなせえって! 若旦那、変に大人びて強がっちゃいるけどよ、まだほんのガキなんだから! もっと人に甘えても罰ゃ当たりやせんって!」

 胸につかえた泥が流れたように、ふっと心が軽くなった。

 ミディンロー一族、唯一の末裔。その宿命に挑むのは、孤独な戦いだと思い込んでいた。あるいはそれは、独りよがりな義父を見て育った結果かもしれない。

 僕は、人との交流経験があまりにも少なすぎる。

「自分だけじゃどうしようもねえ、ってんなら、今はあっしを信じてくだせえ! あっしを信じて諦めねえか、今すぐ降りて大人しく丸焼きになるか、マシだと思う方をお選びなせえ!」

 ちなみに、と、降りるのを勧められた。荷物と一緒に降ろせば、セントールの負担が減って、逃げやすくなるから助かると、うそぶく御者は見るからにおどけた調子だ。

 本当にこの人は、お人好しがすぎる。それに、お節介だ。

「……あなたがガイドで本当に良かった」

 もう、体は震えていない。ただ心臓が熱く鼓動し、前を見据えろと告げている。

 僕自身、この会話で何が変わったか自覚できないでいる。だが、御者はそんな僕を見据えて、満足そうに頷いた。

「そう言われちゃあ、ゴルディオの名に恥じない走りをご覧に入れねえとなあ! 舌あ噛まんでくだせえよ!」

 先にも増して形振り構わず、僕らを乗せたセントールは枝へ枝へ渡り行く。

 しかし、内から火に焼かれた古代樹が数を増やすにつれて、それはイノシシの力の源、火種となって、延焼範囲は急速に拡大する。力を増した山なる巨体の猛追はあらゆる障害をものともせず、頑健な古代樹に身を当てては繊維を抉り、柔な若木も同然に大きくしならせる。

(何か……何かあれば)

 一族の宿命など、今は関係ない。

 馬鹿にでかい一頭が僕ら三人の命をつけ狙う。弱い僕らは全力で逃げるし、必要とあらば実力で抗う。自然の摂理に身を置く、裸の命だけが残る道理だ。

 燻りに息が詰まりながら、天地が目まぐるしく回る景色の中に、糸口を求める。火の手から逃れる活路、イノシシの脚を止める何か。

「っ! 御者さンっ、……あっち!」

 滅茶苦茶な軌道、揺さぶられる体。噛んだ舌に血の味を覚えても、僕は御者にその方角を示す。

 寄り添うように聳え立つ、二本の古代樹だ。火の手が及び、足場はおろか足掛かりも少ないが、イノシシが牙を立てた樹と違い、芯は生きているはずだ。

 僕の意図を察し、御者はセントールの相棒に指示を出す。

 進路は着火した古代樹、その二本の間。

 僕らの行く手を阻む、燃え上がる炎を、セントールの鎌と俊足が切り裂いて道を拓く。イノシシは炭化した樹々を薙ぎ倒し、猛追する。

 だが、僕らには巨大なだけの並木も、イノシシにとっては狭い隙間である。

 大気を揺らす衝撃とイノシシの慟哭。古代樹の隙間に身を捻じ込み、樹皮を弾けさせる。一本の古代樹ならばいざしらず、さしもの巨体、その怪力も、悠久の時を生きる樹々が相手では鎧袖一触にいかない。

 僕らを追うのに頭が一杯なのか、幹に牙を立てもせず、愚直に隙間を押し通ろうともがくばかりだ。

 古代樹の軋みが悲鳴に聞こえる。

 あわよくばこれで決着にしたかったが、足止めも時間の問題だろう。

「森を抜けやすぜ!」

 馬上から振り返り、遠くなっても尚巨大なイノシシを見やる。執念に燃え、力尽くで障害を圧し折ろうと暴れ、叫ぶ姿は、この逃走がまだ終わりでないと告げていた。

 森を抜けても、まだ火の粉は降り注ぐのだ。


 ◆◆◆


 ミディンロー家の秘画廊、その封じるところ、六つのデスマスク。

 これまで先祖が迎えた末路、つまりは僕の避けられない未来を突きつけられ、腰を抜かして怯えていた。

 使用人は、そんな僕の傍に寄り、腰を落として僕の両肩に手を乗せて、耳元で囁いた。

「ここより西、古の森を越えた先にある、メルトポ伯爵領――亜人街へお向かいください、旦那様」

「亜人街……」

「はい」

 使用人の手指が、羽のように僕の頬を、髪を滑り、努めて優しく頭を撫でる。

「先ミノア卿は戦時をお忘れになられないご様子。旦那様の宿命は、ヒューマンの手で克服すべきとお考えなのでしょう。ですが、だからこそ、諸種族の集まるかの地でありましたら、旦那様の、ミディンローの宿痾を解く手掛かりがあるやもしれません」

 その日を境に、自分の未来を知った僕は、その未来に抗うために、メルトポ侯爵領、通称、亜人街へ行く計画を、密かに練り始めたのだ。

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