#4:最初の犠牲者

 時は少し、遡る。

 子島で宿泊する子どもたちが就寝準備をし、柳と欠片が言葉をかわしていたその少し前。

 母島では、事件が起きていた。

「そういえば」

 母島のコテージに戻る途中、林檎は瓦礫に尋ねた。

「結局、北斎さんは来なかったわね」

「そうでしたね」

 瓦礫は言われて今思い出したような顔をした。

「まあ、あれだけ昼から酒を飲んでいれば潰れるのも無理ないでしょう」

「そうだけど……」

 思い返すのは、やはり息子の柳が二度見たという例の怪人のことだ。正直な話、三年前の事件を不安視する奈央の態度を大仰なものだと思っていたのは柳だけでなく林檎も同じだったが、いざ島に着いて怪人が目撃されるとなると、事情が変わってくる。

 林檎自身はその怪人を目撃してこそいないが、息子が変な嘘をつくような性格でないことは彼女が一番理解していた。

 そして怪人の出現という漠然とした不安感を抱え、さらにキャンプファイアーで三年前の事件についての詳細を聞かされると、いやでも今回のキャンプに対する奈央の不安が妥当なものだったのではないかと思わされてしまう。

 林檎はそんな不安を抱えたままで、北斎をひとり無防備に置き去りにしたことを危惧していた。何か事件に巻き込まれたのではないか、という予感がひしひしとする。

(これは……あの人と一緒にいるときは全然感じない予感)

 夫の紫郎とは彼が高校生の頃からの付き合いだし、その過程で様々な経験をした。だが、自分が事件に巻き込まれようとしているという、足場がもろく崩れそうな予感を彼といて覚えたことがない。

 嫌な予感がするときは、決まって。

 あの男がいるのだ。

 猫目石瓦礫。

 夫の高校時代の同級生。そのつながりで、瓦礫のことも林檎はよく知っていた。そして、瓦礫といるときに限って、彼女は決まってよくないことに巻き込まれた。

 まるで瓦礫が、事件を引き寄せているかのように。

 今回もそうなるというのだろうか。さすがに年を取って、瓦礫のそうした性質もなりを潜めたと思いたいが、三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。

 子どもたちの手前、不安感を表にすることはしなかったが……。林檎はほとんど確信の域で感じていた。

(今回のキャンプ、無事に終わるはずがない)

「あれ?」

 コテージについたところで、先を歩いていた善治が声を上げる。

「南さんは?」

 見ると、コテージのベランダにいたはずの北斎がいない。飲み残しの酒が入ったグラスなど、痕跡は残されているのだが。

「トイレとかにいるんじゃないんですか?」

 瓦礫が適当に答える。

「いや、コテージに人の気配がない」

「じゃあ散歩にでも出かけたんでしょう。酔い覚ましに」

 瓦礫の言い分は至極真っ当である。ごく当然の帰結だ。それが猫目石瓦礫の口から出ていないのであれば。

(やはりひとりにするべきではなかったかしら)

 だが、と同時に林檎は思う。

(でも、島にいた人は全員キャンプファイアーに参加していた。北斎さん以外は。彼を害することのできる人間はいないはず)

 その考えに至り、ようやく少し安堵する。島にいた人間の内、北斎を除く全員がキャンプファイアーに顔を出していた以上、彼に危害を加えることなどできないのだ。やはり瓦礫の言う通り酔い覚ましの散歩にでも出ているだけなのだろう。

「ではわたしは、各施設の戸締りをしてきますね」

 奈央がコテージを出る。

「みなさんは先にお休みになってください」

「そうですか。おやすみなさい」

 善治が挨拶をし、あくびをかみ殺す。

「シャワーを浴びて寝るかな……。ああっと、順番はどうします」

「先に入ってもらって構いませんよ」

 瓦礫が順番を譲る。林檎も頷いてそれに同調した。

「では失礼」

 善治は浴室へ消える。一方の瓦礫はベランダの方へ移動したので、林檎もそれについていった。

 ベランダに出た瓦礫は、ポケットから煙草の箱を取り出していた。

「意外ね。猫目石くんが煙草なんて」

「欠片の前だと控えているんです。あの子は僕のすることを真似したがるから」

 一本取りだして咥え、火をつける。葉巻のように茶色い色をした珍しい種類の煙草だった。

「いや、彼女といるようになってから、煙草の本数自体が減ったのかもしれませんね。前は早死にしてもいいやの気持ちで吸っていたけれど、彼女と会ってからは、そうもいかなくなった」

「それは……」

 瓦礫の過去を知る林檎は、彼のそんな言い回しでなんとなくだが瓦礫と欠片の関係を察した。それは同時に「なぜ瓦礫に娘がいるのか」という林檎の不審への回答であり、林檎はそれに納得した。

「でも驚いたわ。あなたに娘がいるなんて」

「父親なんて柄じゃないですからね。だから欠片にも師匠と呼ばれているわけでして」

「なんだかんだ言って面倒見がいいのも昔と変わらないのね。あの人も……紫郎も昔から変わっていない。あなたたちは変わらない」

「高校生にもなれば人格の大半は形成し終わってますからね。そこから大きく変わることもないでしょう」

 とはいえ、と、瓦礫は煙を吐いた。

「紫郎のやつが変わっていないとは、僕は思わないですけどね」

「そう?」

「昔のあいつは自分のことを探偵とは名乗らなかったでしょう。少なくとも自分では自称しないという一線があった。だが今のあいつは自他ともに……というやつでして。その差はけっこう大きいんですよ」

「単に事件を多く解決する中で、その一線を守る理由がなくなったんじゃない?」

「人は案外くだらない一線を守りたがるもんですよ。その一線はなし崩し的になくなるものじゃない。なくなるとすれば、それは明確な理由がないといけない」

「あなたはそう思っているのね」

「思っているのではなく、理解しているんですよ。経験則としてね」

 瓦礫は自分の左手薬指にはまった指輪を撫でた。銀色の、そっけない指輪だ。それが何を意味するものなのか、林檎には分からない。分からないが、なんとく想像することはできた。

 だから逆の手――右手薬指の金色の指輪の方が、林檎には気になった。

「ねえ、思ったのだけどもしかして……」

 林檎が言いかけたその瞬間。

 つんざくような悲鳴が、空を通り抜けて響いた。

「…………!」

 はっとして、林檎は声のした方を見た。

「今のは……!」

「奈央さん、以外にいないでしょうね」

 瓦礫は呑気に吸殻を携帯灰皿に落とした。

「様子を見た方がいい。あの悲鳴は尋常ではない」

 言葉の落ち着きとは裏腹に、瓦礫の動きは迅速だった。伊達に探偵を名乗ってはいないということである。コテージを飛び出し、迷うことなくまっすぐ声のした方へ走っていく。林檎はその後を追いかけた。

 悲鳴の聞こえた場所は、母島施設群のひとつ、浴場施設のある場所だった。その片隅――五右衛門風呂の設置された東屋に、奈央はいた。

 彼女は腰を抜かしたように地面にへたり込んでいる。

「どうしましたか」

 駆け寄った瓦礫が奈央を抱え起こした。

「あそこ……あそこに」

 奈央は震える指で、ドラム缶を指し示す。並んだふたつあるドラム缶の内、右側のものだ。

 ドラム缶はブロックで造られた窯の上に置かれており、高さがある。直火で湯を沸かす五右衛門風呂の構造上、これは自然のことだった。ただそうして五右衛門風呂として使用できるようになっているのは左側のドラム缶だけで、右側のドラム缶は窯が破損したので取り除き、地面の上にとりあえずそのまま置いてあるというのが昼頃の奈央の話である。

 ゆえに。

 左側のドラム缶であれば、高さがあるので覗き込むのに梯子などが必要だっただろう。問題となる右側のドラム缶はそうではないので、林檎と瓦礫はそのまま近づいて、覗き込もうとした。

(これは……)

 その直前、林檎の目についたのは青いホースだ。左側のドラム缶から右側のものへ、橋渡しをするように掛けられていた。両の先端は、それぞれのドラム缶へ張られた水の中へ落ちているようである。

「…………水?」

 そこで林檎は違和感を覚える。水だ。昼頃には左側のドラム缶にだけ並々と水が入っていたはずだが、今は右側のドラム缶にも水が入っている。

「………………あ」

 そして、見た。

 水で満たされたドラム缶の中。

 ぎょろりと、目をむいてこちらを睨んでいる。

 逆さになって、顔は元々以上に水でふやけて膨張しているかのような。

 南北斎の姿だった。

「み、南さんが!」

 南北斎はドラム缶の水へ体を逆さにダイブさせ、溺れていた。まるで犬神家だが、あれほど芸術的な足の倒立は見せていない。足はだらりと垂れ下がり、ドラム缶の外へ飛び出している。

 奈央はその足を引っ張った。

「早く! 急いで救助を」

「いや……」

 瓦礫がその動きを一瞬制する。

「…………まあ、一度出した方がいいか」

 なぜ一度動きを止めさせたのか、林檎にはなんとなく分かった。しかし引き上げないわけにもいかないので、三人は足をつかんでえっちらおっちら、北斎を引き上げた。

 とはいえ、その仕事は一苦労だった。なにせここにいるのは女性二人と男性一人、その男性である瓦礫も成人男性の平均からすればはるかに非力である。そして北斎の体は大柄だ。

「ど、どうしたんですか……これは!」

 結局、慌てて追いついてきた善治が加勢して、四人でようやく引き上げた。

「南さん………!」

「もうこと切れていますね。蘇生は無理です」

 瓦礫が冷徹に言い放った。

「そんな」

「ど、どうしてこんなことに?」

 動揺でつっかえながら、善治が尋ねる。

「南さん、酔った勢いで落ちたんですか?」

「そうだとむしろ、かなり楽だったんですがね」

 瓦礫は北斎の頭部を指さした。林檎はそこを見て、傷があるのに気づく。

「これって……」

「背後から何か固いもので殴りつけたんでしょう。それで気を失った北斎さんを、ドラム缶の中へぶちこんだと」

「…………」

「今はドラム缶周りの地面が濡れているでしょう? 北斎さんを引っ張るときにドラム缶から水が溢れましたから。でもその前は地面が濡れていなかったんです。つまり彼は抵抗していない。できなかったと表現するべきですが」

 瓦礫はどうでもよさそうな口調で分析するが、この状況が示しているのは、ただひとつだ。

「他殺だというのかね!?」

「そうなるでしょうね」

「そ、そうなるって……猫目石さん!」

「で、でも……」

 林檎が状況を整理する。

「わたしたち四人でようやく引き上げた大柄な人でしょう、北斎さんは。仮に頭を殴って気絶させたとして、ドラム缶の中へほうり込めるものなの? そんな力のある人、この島には……」

「引き上げるのは大変ですけど、落とすのならもう少し楽でしょうからね」

 死体を検分する手を休めずに、瓦礫が話を進める。

「ドラム缶に北斎さんの背を立てかけさせて、少しずつ持ち上げて腕から入れていけば時間はかかりますが何とかなるでしょう。抵抗がないならなおさら。他にも、東屋の梁を利用してロープで持ち上げるとか……。暗いので捜査は後になりますが、要するにやりよう自体はいくらでも……。女性だけでもふたりくらいいればどうにかなると思います」

 林檎の発言はこの島に容疑者たりえる人間がいないことを示すものだった。その発言の意図するところは明白だったが、瓦礫は空気を読まない。

「つまり……」

「この島の人間には犯行が可能ということですね――ただ」

 瓦礫は北斎の腕を持ち上げる。

「詳しくは解剖しないと分からないですけど、死亡推定時刻は三十分から一時間前というところでして、それが問題なんですよね」

「一時間前って……」

 全員が、瞬時に理解した。

 一時間前は、キャンプファイアーをしていた。その場には、南北斎を除く島の全員がいたのだ。

 アリバイ。

 容疑者は島にいる全員だが、その全員にアリバイがあるのだ。

「と、とにかく警察を!」

 善治が慌てたようにスマホをポケットから取り出す。

「いや普通に通報するよりも……。猫目石さんの方から伝えてくれれば」

「明日にしましょう」

 呑気に、瓦礫は言い放った。

「眠いですし」

「は、はあ…………?」

「まあそれは冗談として。こんな夜遅くだと船にしろヘリにしろ、準備に時間がかかります。空も海も、暗いところを進むのは危ないですし。それに……」

 言いかけたところで、バタリ、と。

 東屋の屋根を叩く音がする。

 その音はすぐに激しくなり、地面を叩く音も混ざり始める。

 雨が降り始めたのだ。

「この雨ですからね。どのみち警察がこちらに来れるのは明日以降……。雨がひどければ止むまで動けないかもしれませんね」

「そんな……」

「あと、子島にいる子どもたちにこのことを伝えるのも控えましょう。少なくとも明日までは。今下手に怖がらせて彼らを眠れなくさせるのはよくない」

「それは、理解できるが……」

「現場は保存しておくか……。奈央さん、ブルーシートで東屋ごと囲っておきましょう」

「分かりました。こっちの倉庫にシートが……」

 奈央と瓦礫は雨の中走り出す。林檎はそれをただ見ていることしかできなかった。



(まさか、本当に……)

 その後、林檎はコテージの自室に戻ったが、一睡もすることはできなかった。探偵の夫を持つ身だと事件に慣れていると思われることが多いが、実際はそうでもない。少なくともリアルタイムで進行する事件に巻き込まれた経験は、林檎には片手で数えるほどしかない。

 そしてその大半に、猫目石瓦礫は絡んでいるのだ。

 一睡もできない中、林檎はスマホを持って、メッセージアプリを開いたり閉じたりを繰り返していた。紫郎に連絡を入れるべきかどうかで悩んでいたのだ。

 ただ、最終的に林檎は連絡を入れるのを後にした。自分は探偵という職業をある程度知っているだけの門外漢だ。今回の事件に居合わせ、そして対処を迫られているのは探偵である瓦礫であって自分ではない。その瓦礫が連絡を後にするという判断を下したのなら、それに従うのが道理だろうと思ったのだ。

(本当に、彼は昔から変わらない)

 久しぶりに、猫目石瓦礫という男を見て、林檎はそれを確信した。死体を見てもまるで動じず、今日の夕飯の献立を考えるのと同じくらいの感覚で事件に向き合っている。あれが多くの事件を経て見についたスタンスというのであれば納得がいくが、彼は高校生のころからずっとああだった。

 紫郎でさえ高校生時分は死体を見れば動揺した。今でも酷い死体はあまり見たがらないくらいだ。どんなに多くの死体を見ても慣れないし、そもそも慣れてはいけない。人の死とはそういうもののはずだ。にもかかわらず、猫目石瓦礫という男は、死体に、人の死に慣れ切っている。

 彼なら他殺体の横で一晩を明かすことも余裕でやってしまうだろうという嫌な確信があった。

「はあ……」

 ため息をついて、窓から外を見る。雨がひどく降り始め、景色をけぶらせている。この雨が止まないことには、警察は来られないだろう。それほどに強い豪雨だった。

「…………うん?」

 ちらり、と。

 窓の外で黄色い何かが蠢いた。

 そちらに目線をやると、レインコートを着た何者かがとてとてと外を歩いてどこかに向かっていた。

「あれは……」

 奈央が何か仕事をしているのだろうか。すぐにそうではないと林檎は勘づく。あのどことなくどんくさい足取りは外での仕事に慣れた人間のものではない。そして、特徴的な猫背は……。

 顔を見なくても分かる。猫目石瓦礫である。

 彼は森の方へ消えていった。

(なにを……?)

 少し考えて、やめにした。考えたところで意味のないことだ。

 それよりも、今は寝るべきだ。いよいよ眠れなくなるような、そんな状況が訪れるかは定かではないが……もしそうなってもいいように、眠ることのできる今のうちに寝ておくべきだ。

 林檎はベッドに横になると、そのまま身を固くして、目を閉じた。

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