第32話

「どうした、何が起こった?」

 叶槻の問いに航海手たちが悲鳴に近い声で答える。

「わかりません、舵が効かないんです!」

「深度がいきなり下がりました、現在60、まだ下がっていきます!」

 顔色を変えた蘭堂が叶槻に言った。

「例の海流が再び発生したのかも知れません。島が隆起した時と同様に、島が沈降する時も同じことが起こるのかも」

 沈んでいく島が、今度は下向きの海流を産み出しているのか。叶槻は矢継ぎ早に各部に指示を出す。

「艦尾ダウン30度、機関全速前進スクリューを限界まで回せ!手の空いている者は艦尾に移動せよ!」

 伊375潜は懸命に浮上しようともがくが、海流に絡み取られて徐々に深海に引きずり込まれていく。数分間の格闘の末、深度は100メートルに達していた。

 全身汗まみれの引馬機関長が指令所に駆け込んで報告した。

「駄目です。どうやっても浮上出来ません。一回目の海流に巻き込まれた時と同じです……」

 そう言って膝を着き、荒い息を吐く。

 深度計は既に150メートルを越えていた。このままだとじきに伊375潜は圧潰する。叶槻は全員を指令所に集めた。

「やれることは全てやったが、本艦が置かれた状況は極めて深刻だ。残念だが、もうこれまでだ。諸君には本当にすまないと思っている。希望する者には軍医殿から特別な薬を処方してもらう。せめて、最後の時を安らかな気持ちで過ごして欲しい」

 伊375潜に乗り込んでから発生した様々な奇怪な出来事を果敢に克服してきた叶槻は、初めて眼に涙を貯めて仲間たちを見渡した。

「俺は諸君のような部下を、いや仲間を持てたことを心底誇りに思う。皆、良くやってくれた。ありがとう……」

 その言葉を受けて引馬機関長が叶槻に言った。

「我々こそ、艦長に感謝しています。敗けっぱなしだった我々を、艦長は最後に勝たせてくれました。世界を救うなんて大勝利はどの国の軍隊でも成し得ないことです。俺たち鈍亀乗りがそれをやったんだ。もう満足です。ありがとうございました……」

 引馬が叶槻に向けて頭を下げると、それに続いて全員が一斉に頭を下げた。叶槻も乗組員たちも、胸が一杯になって静かにすすり泣いた。

 その沈黙を一人の女の声が傲然と打ち破った。

「大丈夫よ、あなたたちは死なないわ。死んだあの男も甦る!」

 全員が声の主を振り返る。艦首魚雷発射管の前にナンシーが不敵な笑みを浮かべながら立っていた。

「私たちの仲間になればね!」

 何を言っているんだ?

 叶槻も他の者もナンシーの言葉が理解出来ずに呆気に取られたまま、立ち尽くした。

「ベイカー教授は本当に天才だったわ。我々すら予見出来なかった邪神の復活を的中させたのだから。麻薬漬けにして操ろうとしたけど、本人が恐怖から逃避するために必要以上に使ったせいで廃人になってしまった。残念だわ。でも、その代わり良いものを見つけたわ」

 ナンシーは叶槻たちに向けて片手を挙げた。

「あなたたちよ!あなたたちは邪神を前にして狂うことなく、その存在を信じて恐怖と戦ったわ。実際よくやってくれたわ。我らが神には予言された正しい時に目覚めてくれなきゃ困るのよ。その時まで未だ時間があるのに、ここで中途半端に覚醒されたら、来るべき戦いに備えた我々の周到な計画が台無しになってしまう。それを未然に鎮めてくれたあなたたちには、私たちの仲間になる資格がある。時々いるのよ、仲間になったものの、途中で狂って暴走して、全員を危険に晒す奴が。でも、あなたたちなら大丈夫」

 ナンシーの妖艶な笑みは大きく広がり、今や上向きの三日月のようになっていた。その様子に危険なものを感じ取った叶槻は咄嗟に拳銃を抜いて彼女に向けた。震える声で問う。

「お前は一体何者なんだ……」

「それは追々教えてあげるわ。叶槻少佐、あなたは私たちの優秀なリーダーになれるかも知れない。私はそれを心から望むわ」

 それからナンシーは再びあの呪文を唱え出した。今度は歌うように軽やかに、囁くように繊細に。

「フングルイ ムグルウナフ クトゥルフ ルルイエ ウガフナグル フタグン イア イア クトゥルフ フタグン」

 その言葉は乗組員全員の耳に入り込んで、脳に染み渡っていく。初めてそれを耳にする者たちは何が起こっているのかわからずに、ただ聞き入るだけだった。

 叶槻は自分の意識が次第にぼんやりと輪郭を失っていくのを感じたが、それに抗うことが出来ない。突然夢の中に放り込まれたような奇妙な感覚に包まれていた。

 ああ、出航前から見ていた夢と同じだ。あの夢は、今から起こることを予知していたんだ……。

 全ての感覚がナンシーの呪文に囚われていく。その直前、蘭堂が呆然と呟くのを聞いた。

「そうか、クトゥルフ教団……!」

 叶槻の手から拳銃が力無く落ちた。

 伊375潜は静かに漆黒の深海へと消えていった。


 後日、日本海軍による公式記録には次のように記された。

「伊375潜、到着予定日ヲ過ギルモ目的地トラック泊地ニ達セズ、横須賀鎮守府ニモ帰投セズ。作戦途中敵ト遭遇、撃沈サレシ模様」

 尚、敗戦後の混乱の中、この記録を含めた伊375潜の一切の資料は紛失され、この潜水艦のことを知っている者は存在しない。

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潜水艦伊号375帰投せず @me262

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