第5話 3度目の闘い 1
解析室で、パンをかじりながら上野の出した解析表を眺めていると、上野が横から話しかけてきた。
「おい、今晩のこと、覚えているか?」
僕は、その日が満月で、カナカナとの戦闘を控えていることは覚えていたが、まさかそれを上野が知るわけもないので、覚えていないとこたえた。
「課士気会だよ」
「ええ?」
課士気会とは、夏に開かれる、要は課が主催で行う宴会のことである。若手からは、忌み嫌われていた。
「無理だよ。出られない」
「馬鹿いうな。欠席したら、他のみんなが巻き添え食らって、課長にいびられることになる」
「どうしても外せない用事がある」
「どうしても外せないのは、この用事だ。お願いだから、出てくれ。途中退席なら、なんとか面子が保たれる」
「……どう頑張っても、九時くらいまでだよ」
「それでいいよ」
休憩に入って、詰め所でインスタントコーヒーを飲んでいると、ツキが話しかけてきた。
「九時までとかいって、大丈夫でしょうか。満月がのぼっていたら、べつにもっと早い時間でも、カナカナがくることはありますよ。宴会みたいな大勢が集まる場所で、カナカナが出てきたら、阿鼻叫喚でしょうね」
「しょうがないよ。みんなに迷惑かけられない」
「もし早くにカナカナが出現して、出席者皆殺しの危険があるとして、それでもその宴会に行くほうが賢明だとでも?」
「賢明ではないよ。でも、理屈じゃない力学で、やんなきゃいけないこともあるんだよ。バカバカしいけどさ」
「バカバカしいとわかっていて、やるんですね。理屈じゃない力学ですか。なんだか、敗戦濃厚で戦火に突き進んだ旧日本軍みたいですね」
「どの時代でも、日本人的風土なんて、たいしてかわりゃしないんだよ」
夜になり、中途半端なところで仕事を切り上げ、僕と上野は、○○駅近隣の焼肉屋に入って行った。一室が借りられており、室内には総勢三十名ほどが集まり、座していた。上座には、顎に白が混じった髭を生やし、髪の毛をオールバック気味にポマードで固定した、我が小林課長が座っていた。課長の隣には女性の秘書が座り、上機嫌に笑って、もうビールを飲み始めていた。課長は、酒気を帯びてはいるが、時々、素早く眼球を動かして、周囲を観察していた。人格的人望は皆無に等しかったが、人をよく観ており、仕事面では抜け目のない人間だった。
ちょうど午後七時になった時、何者かが立ち上がり、
「時間になりました。これより、課士気会を始めたいと思います。まず、課長より、お言葉をいただきます」
と言った。
課長は、もったいぶった様子で、ゆっくりと立ち上がった。
「ええ、皆さま、本日はお忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。忙しいですよね。忙しいに決まっていますよね。忙しくない製薬会社はすぐつぶれます。ご機嫌はいかがですか?いいわけないですよね。昨年の年報をご覧になりましたでしょうか。ぎりぎり黒字ではありますが、まあひいき目で見て痛み分け。国内の製薬会社はどこも青色吐息です。欧米企業からのプレッシャーはすさまじいものがあります。○○社は昨年、吸収合併されましたね。明日は我が身です。生き残れるかは予測できませんね。私見ですが、五年以内に倒産か吸収される確率は、四十パーセントくらいかなと踏んでいます。残りの六十パーセントに入れるかは、皆さまの頑張りにかかっています。ただ、旧日本軍的盲目的頑張りには意味がありませんね。その頑張りに、意味があるのか、シェアと確率を算段しながら、細かく検討しながら、賢く頑張らなければいけませんね。この、賢く頑張るということが、日本人はことさら苦手でしてね。世情の激変と同様に、薬剤の市場も乱高下です。当たれば確実にホームランの認知症領域では、欧米含め、どの会社もことごとく当てが外れましたね。全然有意差が出ません。出たといった△△社は、研究不正を暴露されましたね。あの会社は終わります。嘘はいけませんね。ばれたら罰を受けますから。かといって、ことさら正直である必要はありませんけどね。限定された事実性のみ表に出して、ごまかす。そういうクレバーさも必要ですね。わが社も、各分野に手広くやっています。偏った得意領域を作るより、レンジを広く持って、少し掘ってみて、見込みがないならさっさと手を引いて、手数を増やしていくほうが、大局的にはリスクが少ない。これが社長の見解で、わたしも同意しています。分野ごとに、好不調は出ますがね。一番頑張っているのは、なんといっても代謝領域ですね。一昨年の代謝領域のヒットで、わが社は保っているようなものです。黒字の半分はあの薬ですからね。次の頑張っているのは、抗うつ薬ですね。あれはやはり、ひとたび有意差の出る臨床結果が出れば、黒字は確実です。大黒字にはなりませんがね。ローリスクローリターン、気分障害領域は堅実です。だめなのは、同じ精神科領域でも、抗精神病薬ですかね。あれはだめ。てんでだめ。成功確率が少ないうえに、成功してもシェアは少ない。統合失調症の罹患率は、およそ〇・七パーセント、その中で医療にかかる者となったらさらに少ない。可能性があるとするなら、適応症を広げて、双極性障害とうつ病にも適応とするか。でも昨今は適応症も各社が広げ過ぎて、問題視されましたからね。しばし逆風にさらされることは確実でしょう。早めに見切りをつけて、手を引いたほうが賢明でしょうね。無論、患者さんを助けるために、わたしたちは薬を開発している。でもわたしたち自身が倒産したら、助ける手段はなくなってしまうのですからね」
課長の演説が終わり、乾杯の音頭があり、室内の社員たちは食事を食べ始めた。手酌でビールをどんどん飲む上野を横目に、僕はウーロン茶を飲みながら刺身を口にした。冷たく、少ししゃりしゃりした歯ごたえだった。まだ、解凍が完全でないとみえる。
「お酒が飲めないのですか?」
「飲めないわけじゃないけど、飲みたくないんだ。生涯で一回しか、口にしたことがない」
「あらあ。そうなんですか。そのつまらない人生に、少しでも逃避を与えてくれそうなものなのに」
「親父がね、毎晩大酒飲んで帰って来て、部屋中を吐瀉物だらけにしてたから。それを見て、小さい頃から将来は飲まない人間になるって決めてた」
「そうなんですか。お父様は、何かシラフではいられない、理由でもあったのですかねえ」
「わからない……いや、わからないこともないか」
「なに、ぶつぶつ言っていやがる」
隣の上野に肩を小突かれて、僕は我に返った。ツキは、僕以外の人間には見えない。
「そろそろ俺たちの番だ」
「あ、そうか」
僕たちは、ビール瓶を手に、立ち上がった。課士気会では、班ごとに課長に挨拶に行って、酌をするのが習わしだった。上野が、部屋の奥の方で座っている柄谷リーダーに目で合図をすると、柄谷リーダーは首を振り、自分の隣に座っている研究員たちを指でさした。リーダーは抗うつ病薬開発班として挨拶することを選び、僕たちとの同行は断ったのだ。
「世知辛い。でもこれが現実か」
上野が小声で漏らした。
僕と上野は二人で、課長の前に正座した。課長は表情を変えずにふいとこちらに顔を向けた。赤ら顔だが、視線は鋭かった。
「課長、お疲れ様です」
「おう」
上野が、課長のグラスにビールを注いだ。適切と思われる、泡と液体の比率だった。上野は手慣れている。僕は、黙って頭を下げた。
「お前ら、どこの班の所属だっけ」
「えー……抗精神病薬開発班です」
「ああ、そうかそうか。そりゃあ、さっきのスピーチで気を悪くさせちゃったかもな。すまん」
「いえ……」
「でも本当のことだからな」
「ええ、まあ……シェア的にきついのは、たしかでして……」
「もう、頓挫させて、抗うつ病開発のほうを援助したらどうだ。俺が口利きをしてやる」
「ありがとうございます。でも、共同研究で、僕たちだけの意向では……」
「主催しているのは、△△研究所だろ。ああいう実入りの少ない開発研究は、税金をじゃぶじゃぶ使える国立機関に任せりゃいいんだ。俺たち民間には向いていない。身を引く連絡をするのが気まずいてんなら、俺が言ってやる。多少恨まれるだろうが、それだけだ。誰かから恨まれるのなんざ慣れてる。お前たちも慣れろ。市場原理と生命倫理を微妙なバランスではかりながらやるのが、この業種だ。もとより、恨まれることを恐れてできるもんじゃねえ」
「まあでも……その……」
僕は口ごもった。
「母親のことか?」
僕は自分の肩が、ぴくりと動いたのがわかった。課長は、ほんの少しだけ、口角をあげた。
「統合失調症で、長らく入院していたことは知っている。お前のお母さんは、三年前に、その研究で被験者になっているんだ。同意者は当時院生の息子のお前だ。リストに名前があったことを覚えている」
課長は、課の者の生年月日まですべて暗記しているような人間なのだ。
「身近にあった疾患に、思い入れをもって心血を注ぐのはわかる。ポール・ヤンセンだってそうだ。公にはされていないが、ヤンセンは母親が統合失調症で、だからこそその治療薬開発に躍起になったんだ。ハロペリドールとリスペリドンの開発は、ノーベル賞級の偉業だと俺は思っている。化学式も美しい。俺は、脳に効く人為的に開発された薬で、あんなに美しい化学式を見たことがなくて、まずそのことに驚いた」
課長が、皿の上の天ぷらに噛みつき、咀嚼した。
「でもそれは、ヤンセンが天才だからできたんだ。一方で、お前は凡俗だ。お前が柄谷に出しているアセスメントにも目を通しているが、そこにはセンスが感じられない。馬鹿真面目のおかたい脳みそが、頑張ってアイディアをひりだしたという感じだ。発想と着眼がこの仕事の命だ。そしてそこには、後天的に身に着けることが困難な、才能と呼ばれるスイッチが必要だ。断言するが、お前には才能がない。自分の感傷に引っ張られて、仕事を選んでいる余裕なんてないぞ。製薬業界は一寸先は闇だ。外資に食われたら、おそらく社員の半数は切られるだろう。社員それぞれが、自分の能力を見定めて、それぞれ適切な場につくしかない。お前もさっさと自分の能力に見切りを付けろ。
それとな、聞いて驚け、俺とてな、創薬の世界に入った理由があるんだ。俺の親は両方とも、代々早死にの家系だ。五十代で死ぬ。俺の十歳上の姉なんて、十九歳でウィルス性の脳炎で死んだ。だから俺は、医療の世界に入った。そして今はこの体たらくだ。俺には才能がないからな。人間の目利きとマネージメントだけで生きている。この薬でどれだけの人間が助けられるかなんて、もはや考えない。黒字と赤字を睨む毎日で、おかげで眼も縞々だ。凡夫はやりたいことじゃなくて、やれることの中で生きていかないとならねえ。
自分がここにいたる、物語があるのは、お前だけじゃねえぞ。誰だってそれなりにあるんだ。誰だって何かを背負ってきて、でも市場という名の風に巻き込まれて、いつしか初期衝動と自分の仕事とをリアリズムのもとに分離させるんだ。それが大人だ。自己憐憫に引っ張られて、見込みのない仕事に執着するのは、ガキだ。まだ自分の才能に、本当の意味で見切りを付けられていないんだ。自分が見えていないんだ。断言してやる。お前は凡夫だ。さっさとその事実を認めて、俺と同じ凡夫の世界に来い。それが企業人として生き残る道だ。
高圧だパワハラだと訴え出たってかまやしねえぞ。そんなものが怖くて、この業界のこの立場なんてつとまるものか。俺とて、俺の信念のもとで言葉を発しているからな。訴えられて消えていくならそれもまたよし。自分も他人も、どうだっていいんだ」
「いえ、そういうつもりは……」
「わかったなら、さっさとあの哀れなアンフェタミン漬けのラットをどうにかしろ。お前みたいな人間からすると、俺らは汚くて冷たい市場原理主義者に見えるかもしれんのだろうが、お前とてな、無数の動物の霊魂を背負っているのを忘れるなよ。罪を持たない人間は、医療の世界にはいない」
課長が立ち上がり、「トイレ行く」と言って去って行った。
課長の隣に座っていた秘書が、こちらに近づいてひそひそ声で話した。
「ごめんなさいね。酔うとね、ああなっちゃって」
「あ、いえ……」
僕と上野は、自分たちの席に戻った。上野は、引き続き手酌でビールを飲んだ。
「気にするなよ。課長がああいうこと言うのは、いつものことだ」
「わかっている」
「端的に言って、嫌な人間だ。誰も好感は持っていない。でも才能と人格は別だからな。相当に頭はきれる。課長の判断は、企業存続に関して言えば正しい。誰からも慕われなくても、あの立場にいるのには相応の理由がある」
上野は結局、課長を擁護している気がした。なんだかんだで、上野は才能至上主義なところがある。無論、それが悪いことではない。
「ぼちぼち来そうな気がしますよ」
耳元でツキが囁いた。
「ここで戦いますか?それとも外ですか?カナカナにあえてここに出てきてもらって、このフロアの人間全員殺してもらってもべつにいい気もしますけども」
僕は黙って立ち上がり、部屋から出ようとした。
しかしその時、背後から
「おい、鶴野」
と声がした。トイレから戻ってきた、課長の声だった。
「途中退室か?」
「……すいません、少し、これから用事がありまして」
「どんな用事だ?この宴席から離れるなら、相応の理由が必要だぞ」
カナカナが来るからなどと、まさか本当のことは言えず、さりとてここを去るために納得してもらう理由を言う必要があった。
「母のことで、少し用事があって……病院に……」
室内に、沈黙が漂った。課長は、少し気まずそうに、顔を逸らした。
「……そうか。なら、仕方がないな。許可しよう」
僕は、嘘をついて、しかも母をだしにしたことに罪悪感を覚えた。
僕は店を出て、駆けた。どこか、人気のない場所を探さなくてはならなかった。
「急いでください、急いでください」
ツキが言った。
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