第6話 3度目の闘い 2

「急いでください、急いでください」

 ツキが言った。

 十五分ほど走り回った。人通りの激しい駅周辺の中でも、やや異質に薄暗く人の気配のない、裏道だった。僕はそこで立ち止まり、一度深呼吸をした。気分は最悪だった。こんなコンディションで、闘いにのぞまなくてはならないのかと思った。

「大丈夫。先ほどの『不快』と『苦労』は、むしろあなたを、というか泥夢を、鋭く大きく強くしますから」

 自分の、前方五メートルほど向こうに、空間の裂け目ができるのが見えた。裂け目の向こうには、真っ白な、ずいぶんとつるりとした背景が見えた。

「来ますよ」

 僕は、鞄から、泥夢を取り出した。泥夢は僕の右の手に握られるが早いか、すぐに鋭い剣の形状に姿を変えた。

 空間の裂け目から、徐々に、カナカナが姿を現し始めた。高さは、おそらく三メートルほどはありそうだ。真っ黒で、ヒトデのような形をしていた。中心には、人間の目玉のような円形の何かが、無数に張り付いていた。カナカナは、そろりと路地の地面に降り立った。降り立つ時の、無音が不気味だった。

「クラス5ですね。これはなかなか、大変」

 カナカナの中心にある、目玉みたいなものが、ぴゅうと飛んできた。瞬間、僕は横っ飛びでかわした。カナカナから吹き出されたそれが当たった壁には、見たこともない黄土色の変色があった。

「あれ、この位相の人間にとっては猛毒のやつですよ。かすっても即死です」

 カナカナは、離れたところから、その目玉みたいなものを次々と飛ばしてきた。僕は、おそらくは泥夢から授かっているその反射で、上に横にと飛び跳ねて、寸でのところでかわしていった。

「おおい、何やってる?」

 背後から男性の声が聞こえた。エプロンをした、中年の男性だった。手には大きなゴミ袋を下げていた。この路地裏の隣には、飲食店があった。おそらくそこの従業員で、ゴミを処理しに来たのだ。

「逃げ――」

 言い終わらないうちに、目玉みたいなものが、男性の額にあたった。男性は、そのままのたりと前のめりに倒れた。

「死にましたね。違う位相の物質が、皮膚から皮下の血管に入ったので。都市部での闘いで巻き添えなしにって、どうにも無理がありますね」

 弾丸のように次々と飛んでくる、その何かを避けることに集中していると、突然カナカナはぼんと爆発のような音をならし、飛び跳ねて、急に僕との距離を詰めてきた。

 僕は泥夢を振りかざして応戦しようとしたが、カナカナの背から触手がのび、振り払われた。すると、泥夢が真ん中あたりから折れてしまい、剣先が宙に舞った。

「やば――」

 カナカナが、僕を壁に押し付けた。体の前面に、ものすごい圧を感じた。ふと目を開けると、カナカナの中心にある無数の目玉みたいなものが、一斉にこちらに視線を向けていた。僕はそのあまりのおぞましさに、あらんかぎりに大声をあげてしまった。

「大ピーンチ。人類もここまででしょうか」

 カナカナの触手が、僕の首にそっと巻き付いた。瞬間的に、脳血流が乏しくなったのがわかった。

 しかしその時、折れて飛散したはずの泥夢の剣先が、真っ直ぐにこちらに向かってくるのが見えた。そして剣先は、カナカナの背(背というものがあればだが)に勢いよく突き刺さり、ダメ押しのようにぐりぐりと不規則な動きをした。

「泥夢の遠隔操作?まだ三戦目ですごい成長ぶりです」

 カナカナが呻いた。例の、不快な音波のような音だ。触手から力がひいて、僕の脳血流は戻った。剣先はカナカナの身体を突き破り、危うく僕の顔にも刺さりそうになった。

 カナカナは、のたりとその場に倒れこみ、地面にうっすらと紫色の染みをつくりながら溶けていき、やがてその染みも消えていった。

 泥夢の剣先は、僕の手元に戻り、またひとつの剣として融合した後、石に戻った。

 僕は息を荒げて、その場に倒れこんだ。

 ツキがぱちぱちと拍手をしながら、しゃがみこんで僕の顔を覗き込んだ。

「危ないところでしたが、その成長ぶりには驚嘆します。泥夢の分離、遠隔操作は、サクリファにとっては一つの関門なので。歴代のサクリファの中で、最短記録かもしれません」

「べつに嬉しくない」

「そう仰らず、素直に喜んでくださいよ。誰から褒められるということもない日常じゃないですか」

 僕は、ゆっくりと立ち上がり、鞄を手に持った。駅に向かおうと歩を進め、路地裏から表の通りに出た。なんとなく、これまでより持っている鞄が重く感ずるような気がした。五分ほど歩いたところで、視界がぼやけ、体が重くなり、休もうと思った矢先に、足がもつれて僕は転んでしまった。その際、僕は肩をしたたか打って、呻いた。全身に土を盛られたような、妙な倦怠感があった。

「あらあら、ひょっとして……もう?」

 ツキが呟いた。

「もうって、どういうこと?」

「泥夢のエネルギー源は、その人間の寿命なんですよ。カナカナ一体倒すたびに、寿命が約一年縮んでいきます。数日くらいは前後するかもしれないですけどね。だからおのずと、サクリファとして活動できる期間は限られています。今までの最長記録は、十歳で選ばれて、七年間もサクリファを務めてくれた男の子です。彼にはお世話になりました。最後は、ちょっと悲劇的ではありましたけどね」

「ちょっと――」

 僕は驚いて、身を起こそうとしたが、うまくいかなかった。

「嘘だろ」

「わたくしは様々な嘘を言いますが、これについては嘘はついておりません」

「なんで黙ってた」

「代償があるとは言いましたよ、たしか。それに、こんな力が何の代償もなく手に入るなんて、それこそおかしな話じゃないですか。何かを得れば、何かを失うものですよ」

 カナカナ一体倒すたびに、一年間縮んでいく。僕は三体倒した。三年の寿命が縮んでいる。

「このまま泥夢を使っていて、僕はあとどのくらいできそうなんだ?」

「たった三体倒してこれですからねえ。たぶん、もって十二、三体分くらいでしょうか」

 一か月に一体で、あと十二、三体。約一年である。

「もともと三十代後半で早死にする運命だったんですね。次のサクリファの後継者を探すまで、あまり猶予がないですね。探すのと倒すのと、同時並行でやっていくしかないですね。面倒ですが」

「ふざけるな」

 僕は叫んだ。

「べつに、ふざけてはいませんよ」

「あと一年の命なんて、冗談じゃない」

「人はいつかは死ぬものですよ」

「かといって、一年は短すぎる」

「でも、この世界に未練あります?この世界、好きですか?」

 未練?

「未練なんか、知らない。今は考えられない。でも死ぬのは怖いよ。そんなに早く死にたくない」

「じゃあ、サクリファをおりますか?そうなると、次にカナカナが来た時に戦う者がいないから、何万人か何十万人か死にますけど。適格者が全然見つからなかったら、そのまま全人類終わるかもしれませんね。わたくしとしては、べつにそれもありとは思いますが」

「どっちも嫌だ。僕は死にたくないし、他の人にも死んでほしくない」

 ツキは、稚児を諭すような笑みを浮かべた。

「わがままばかり言わないでくださいよ。そんないいとこどり、この世に生きていて許されるわけないじゃないですか。トロッコ問題と同じですよ。自分が死んで多くを助けるか、多くが死んで自分がほんの少し長く生き延びるか。まあ、カナカナが野放しになったら、その時点でも隆明さんの命の保証もありませんが。人生において、そんな選択場面は程度の差こそあれ、いくらでもありますよ。嫌かもしれませんが、決断はしなくてはいけないんですよ」

 僕は目をつむった。自然と涙が出てきた。涙は頬をつたって、道路を少し濡らした。

「君は……君は、悪魔か?」

 すると、ツキの表情が、今まで見たこともないくらいに険しく豹変し、そして耳をつんざく大声で叫んだ。


「馬鹿なことを言うな。この世に、神も悪魔もあるものか。この世に、善悪などあるものか。この世に、是非などあるものか」


 唐突なことに、僕は圧倒され、言葉を失った。驚きで、不安もやるせない怒りも、縮小してしまった。そしてしばしの間のあと、ただただうつむいた。

 ツキはその表情を緩ませ、かがみこんで、優しい微笑を浮かべ、僕の頬にその手を当てた。そこには、たしかな温もりがあった。

「ねえ、隆明さん。この世界は、生けるものすべて、大海に漂う砂粒のようなものです。漂う方向に是非などありません。そこには、その方向に漂ってしまったという、ただの事実があるだけです。あなたは、こちらに流れてきてしまった。それは、どうしようもないことなのです」

「僕は……」

 僕は、声を絞り出した。涙がまたこぼれて、鼻をすすった。

「僕は……いったい、なんのために……」

「『何のために』という対象も、ありはしませんよ。それは、生きる意味を問うているのでしょうが、意味というのは、人間の後付けの認知にすぎません。生きるという生命現象に、意味などありません。平時に生きているときに、そのことは忘却されがちですが。ただひとつ、人間がつくった概念で、より近似できるものがあるとするなら、それは『儚さ』です。あなたも、他人も、世界も、宇宙も、わたくしも、儚いのです。ただ、それだけのことですよ」

 ツキは、僕をそっと抱きしめた。僕はしばし、ツキの温もりに全身を預けた。

「そんなところで、寝やがって」

 聞き覚えのある声がした。ふと顔をあげると、そこにはスーツのポケットに両手を突っ込んだ、課長が立っていた。その背後には、やはり秘書の女性が、ぴったりと寄り添っていた。

「母親の見舞いじゃじゃなかったのか?」

「いえ、あの……」

 僕は、先ほどの闘いで破れたスーツに触れ、きまり悪く、顔を上げた。

「まあいい。べつにどうだっていいんだ、そんなことは。お前が俺のことを軽く見ているのはわかっている。べつにお前だけじゃない。多くの社員は、俺を軽く見ているだろうな。俺だって、俺を軽く見ているんだ。だから、上にはペコペコ頭を下げて、下にはにらみをきかす、お面被りみたいなことをしているんだ。道化をやっているんだ。能がないやつは、踊るくらいしかないからな。そういう俺から見ると、お前みたいなやつが一番むかつくんだよ。前の自分を見ているみたいでな。能がないくせに、理念が先走って、周りのいうことに耳を傾けようともしないで進もうとする。まだどこかで、自分をオンリーワンだと思っていやがる。驕るな。誰だってワンオブゼムだ。いいか、週明けには、その安いビー玉みたいにきらつかせたガキの目玉を、どろりと濁らせて大人の目玉にしてこい。そうすりゃ、もう上司の飲み会に嘘ついて途中退席みたいな馬鹿な真似はしなくなる。生き残りたけりゃ、死んどくことだ。周りを見てみろよ。みんな死にながら生きてるだろ。ゾンビ映画みたいなもんだぜ、この世間てやつはな」

 課長はそう言うと、ひひっと笑って、歩き去って行った。背後にいた秘書が、そっとしゃがんで、僕を見た。

「ごめんなさいね。課長は口下手で、ああいう言い方しかできないんです。また、元気に出社してくださいね」

 そして、秘書も課長の背を追って、歩き去った。

 二人がいなくなった後で、ツキが、

「あの女が一番嫌な奴ですね。フォローを入れているように見せかけて、一切フォローする気がないですもんね」

 と言った。

「で、どうしますか?」

「どうって?」

「まだこの世界を、守る気はありますか?この世界は、おそらく、あなたを救ってくれませんよ。あなたは毎月、世界を救っているというのに。それでもまだ、闘います?」

 僕は、しばらくのあいだ、思案した。先ほどとは違って、もう取り乱すことなく、冷静さは取り戻していた。

「闘う」


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