第4話 2度目の闘い
その日、僕はそわそわとしていた。
カレンダーに、満月を知らせる円が描かれている日であった。七月十五日。
疲れていてはならない。空腹であってはならない。なるべく、ベストなコンディションで、迎え撃たねばならない。
僕は、その日は午後に有休を使い、早めに仕事をあがることにした。
「珍しいな」
上野が言った。
「お前が有休を使うところ、初めて見た気がする」
「ちょっとな」
「冠婚葬祭か?」
「違う」
「女か?」
「違う」
「じゃあ、なんなんだよ」
「言えない」
と僕は、正直に言った。
「そうか……。まあ、他人に言えないことなんて、いくらでもあるよな。この評価尺度、今晩には解析終わるから、お前の机に置いておくわ」
「うん」
僕は、棟を出て、駅の改札をくぐり、電車に乗った。不安と緊張と、いくばくかの高揚がいりまじり、僕の鼓動は早くなっていた。電車には、何人もの乗客が乗っていた。老若男女、誰もがいる。この時間だと、いくぶん老が多いか。この人たちの命も、自分にかかっているのだと思った。
「べつにそんなに、肩に力入れなくてもいいんですけどね。前にも言いましたけど、体力とか疲労とか、そういうの全然関係ないので」
「そうはいっても、剣をふるうのは、この体とこの腕だから」
「慎重なんですね」
「ミスはできないだろ」、
「そりゃあ、ミスしたらやばいですね。人類が」
「たとえ無意味でも、心持ちを整えておきたいんだよ。準備しておいたら、準備した自分に自信が持てて、ミスる確率を少し下げられるじゃん」
「そういう考え方もありますか。でも今隆明さんがされてることって、百メートル走の大会に出ようとするときに、頑張って表情筋を鍛えているようなものですよ。およそ、見当違い」
「表情筋だって、鍛えたら走力に少し影響出るかもしれないじゃないか。大きく笑えて、リラックスできたりして」
「今、すごくバカみたいなこと言ってる自覚あります?不安が底抜けして、変に気分があがっているのではないかと。そのほうがコンディションがぶれて、心配です」
僕は、コンビニエンスストアで、夕食のおにぎり三個と、カップサラダと、茹で卵二個を買った。そして、自宅に戻ると、まず一時間寝て、起きて夕方五時には夕食を食べた。食後三十分は読書をして休んで、その後は音楽を聞きながら、ゆっくりとストレッチをした。
夕方六時を回ると、窓から満月が東の空に浮かんでいるのが見えた。
「そろそろ外に出ましょうか。部屋でカナカナと戦ったら、天井や床が割れるかもしれないし。泥夢があるところには、どこにでも出現しますからね」
「カナカナは、他のところに出現するということはないの?」
「泥夢には、カナカナに対抗する力と同時に、カナカナをおびき寄せる餌の役目もあるんですよ。カナカナが反応する、信号を常に発信するように作られています。その信号を頼って、カナカナは対照の破れから、侵襲してくるんです。だから、有資格者がいる限りは、泥夢のあるところにしか、カナカナは出現しません」
「そうか」
僕は立ち上がり、薄い羽織シャツを羽織って、財布と鍵をポケットにねじ込み、家を出た。日中は暑かったが、夕刻は涼しく快適だった。空には、月以外にも、いくつかの星が浮かび、それぞれがそれぞれの光り方で自己主張していた。
「誰も巻き込みたくないなら、なるべく人気のないところにいたほうがいいですね。わたくしは、どちらでもいいですけど」
近隣で人気のないところと言えば、やはり適当なのは、前回戦った、あの川辺であった。しかし、前回は偶然にも人が通りかかり、亡くなってしまった。僕は、川辺につくと、注意深く周囲を見回し、少しでも視界に人がうつると、数十メートル遠ざかり、そんなことを繰り返しているうちに、おそらく自宅からは十キロは離れている、市境付近まで来てしまった。辺りは、すっかり闇に包まれていた。足元が見えないので、僕は持ってきた懐中電灯をつけた。
「用意がいいですね」
僕はその場所にとどまって、固唾を飲みながら、じっと身構えて、待った。わずかな風の揺らぎや、遠くの音にもいちいち反応してしまい、体をびくつかせた。そうこうしているうちに、時刻は十一時を過ぎた。家を出てから、五時間が経過していた。
「まだなの?」
「必ず来ますけど、時間はランダムなので」
「お腹がすいたよ」
「早く食べ過ぎたんですね。お馬鹿さんですねえ」
「何か買ってこようかな」
「店でカナカナが出たら、修羅場ですよ。べつにいいですけど」
薄暗がりの中、人影が、近づいてきた。暗がりで見えづらかったが、人影は、僕の三メートルほど先で、なにやらごそごそと動いていた。
少しだけ、懐中電灯の光を近づけると、すかさず
「おい」
と低い声が人影から聴こえた。
「こっちを照らすんじゃねえ」
「すいません」
僕は、懐中電灯を逆方向に向けた。
「あの……」
「なんだ?」
「差し出がましいこと言いますけど、ここいらからは、離れていたほうがいいと思います」
「あ?」
「ちょっと、もうすぐごたごたするんで」
「意味がわかんねえ」
「……そうですよね」
仕方がないので、僕は変えることにした。市の境を越え、川沿いにさらに上流に行くのだ。これは、帰る時に骨が折れるなと思った。
「おい」
低い声に、呼び止められた。
「お前、なんでこんな時間に、こんなとこに一人でいる?」
「それはまあ、いろいろありまして……」
僕が口ごもっていると、
「自殺だろ」
と低い声が言った。
「ち、違います。そんなことは、考えていません」
「やめておけよ、馬鹿らしいぜ」
その声の主は、まったく頭から、僕を自殺志願者だと決めつけてしまったらしい。
「ここ、座れ。懐中電灯、そばに置いてな」
僕は、抵抗するのもなんとなく怖くて、言われるままに、懐中電灯を地面に置いて、声の主の近くに座った。電灯の光に照らされ、おぼろげに声の主の姿が見えた。中年の、おじさんだった。身なりは、いかにも着古びたシャツに、だぼっとしたズボン、地面には穴だらけの段ボールを敷いていて、そして、異様な臭気が漂っていた。
「何があったか、詳しくはきかねえ。でもな、てめえの命をてめえだけのものだと思ったら、大間違いだぜ」
「はあ」
「昔、とび職仲間だったやつが、酒飲んで自殺しやがった。そんとき、残された家族の気の毒なことといったら、もうみてらんなかったね。病気は自分だけの問題じゃねえ。自分と家族の問題だ。そして死はな、自分の問題ですらねえ。死んだときは自分はいねえからだ。自分の死は、自分の家族の問題だ。それをきちんと、知っときな」
家族も何も、僕は一人っ子で、父は死んでおり、母は施設入所中で、もう僕を息子と認識できなくなっていた。
「俺もな、いろいろあった。それこそ、死んじまいたいと思うこともあったさ。親父は典型的なアル中でな、酒飲んじゃ家で暴れまくる。何度親父を殺そうと思ったかわかりゃしねえ。そんで、十五で家を出てな。大工、厨房、工事、工場、トラック運転手……まあ、思いつく限りの肉体労働はやったな。なんも考えずに、ただただ体を動かした。考える暇もなかった。でも、ある時ふと、我にかえっちまった時があった。俺、何やってんだ?生きるために、生活のために、今日食べる飯と飲む酒のために、働いている。でもこの生活に意味なんてあんのか、って。後から考えりゃ、これは人生の罠なんだな。意味って名の、罠だ。そこに落ち込んじまった俺は、しばらく働けなくなって、昼夜公園のゴミ箱あさって、意味がねえなら死んじまおうかとか、うつらうつら考えてた。そんなとき、時間だけは有り余るほどあるから、図書館に行ってみた。最初は新聞だけぱらぱら読んでたんだが、ふと文芸コーナーで本を手に取ってみてな。読んだら、おもしれえんだ。知らないことが、書いていやがる。いや、俺は知らないことばかりだ。無知無学もいいところだからな。でも、知らねえってことがわかって、知ることはおもしれえって思った。そんで、毎日、閉館している時以外は図書館に通い詰めて、本を読みまくった。そして、俺の運命を変えた、ひとつの本に出会った。Viktor E. Franklの『夜と霧』だ。ナチスの収容所から生き延びた、精神科医の体験談だ。その体験から来る哲学がつづられている。俺は、他のフランクルの本も読みだした。フランクルはこう言うんだ。『人生に耐える唯一の方法は、なんらかの課題をいつもかかえておくことだ』ってな。以来、それが俺の座右の銘だ。つまんねえと思う作業とか、日常の生活行動の中にもな、なんか課題を見つけて、それがどのくらいできたかどうか、自己点検すんのさ。この通り、何ももっちゃいないが、でも己の個人的哲学――」
急に話が止まったと思ったら、おじさんの口の中から黒い物体が飛び出していて、何やら液体が僕の顔に付着した。おそらくはおじさんの鮮血だった。物体はうねうねと蠢き、おじさんの顔やら首やらがばらばらに飛び散った。首から上がなくなったおじさんは、土手から転がって川に落ちた。
「あらあら。せっかくいい話風の、無意味な話をしていたのに」
慌てて懐中電灯を拾い上げ、宙を照らすと、空間が割かれ、そこから粘質のアメーバみたいな黒い物体が、徐々にその体をこの世界に移行しようとしていた。
カナカナだった。
「タイプ3ですね。前回のより、強いかもしれません」
ツキが言った。
鞄をまさぐり、僕は泥夢を取り出した。泥夢は、すぐさまその姿を溶解させ、僕の右手に巻き付き、やがて鋭い剣に形状を変えた。こころなしか、一か月前よりも、より長くより太くなっている気がした。
全身を完全にこの宇宙に移行させたカナカナが、勢いよく接近してきた。
僕は、反射的に飛び上がり、その突進を避けた。異様に体が軽く感じ、全力で高跳びなど小学生以来していない僕が、およそ三メートルは跳んだ。
「不用意に飛び上がらないほうがいいですよ。空中じゃ、次の攻撃を避けにくいですから」
「え?」
カナカナの触手が延び、僕の足を掴んだ。そして直後に、触手は振り下ろされ、僕は地面にたたきつけられた。
背中に、生涯で感じたこともない痛みが走って、僕は呻いた。中学生のときに、タクシーにはねられた時よりも痛かった。
「泥夢に守られているから、その程度ですんでいますけどね。生身だったら即死ですよ」
僕は、壊れた人形みたいなたどたどしい動きで、上半身を起こした。
「ここで負けるなら、人類の命運もそこまでということなんでしょうね。あの破れ具合じゃ、次のサクリファを探し当てるまでに、何十万人かは死にますね。まあそれでも、年間で人間が人間を殺す数よりは少ないか」
身を起こした僕に、カナカナが触手を伸ばしてきた。僕は泥夢の剣で、それをふりはらった。前回は触手を切れたが、今回は切れず、剣は触手によって掴まれてしまった。
「耐久が高いタイプですね。今の泥夢じゃ、触手は切りにくいのかもしれません。いきなり急所を狙いにいかないと。ピンチですねえ」
剣に巻き付いた漆黒の触手が、ひたひたと僕の手にも浸食しはじめた。数百匹の蛆が血管に入り込んできたような、不快な感触があった。僕は、剣を触手から引き抜こうとしたが、びくともしなかった。
「だめですね。意外と使えないサクリファでした。さよなら」
ツキが、川辺の土手を上っていって、去って行った。僕は、その去って行く後ろ姿を見て、庭子のことを思い出した。庭子もまた、僕に背を向け、去って行ったのだ。好きでなくなることに、理由などないと言い残して。
失望と虚ろが、僕の心によぎった。
するとその瞬間、泥夢がぎらりと鈍い光沢を持ったかと思うと、一直線に剣先が伸びていき、巨大なアメーバのような姿かたちのカナカナの、体幹(なのか、そこは。ぐにゃぐにゃしていてよくわからない)を貫いた。
波長の高い、聞こえるか聞こえないかというような、でも耳を覆いたいほどの不快な音が響いた。おそらくカナカナが叫んでいるのだ。痛みに悶えているのだ。
触手は、波のように引いていき、やがてカナカナは溶けだし、紫色の汁みたいなものが地面に広がって、やがて消えた。跡形もなく消えた。川をのぞくと、おじさんの体もなくなっていた。
「倒せてよかった。戦闘中に、一段階能力があがりましたね」
気が付くと、ツキが目の前にいた。
「どこかに行ったんじゃなかったの?」
「本当に見捨てるなら、泥夢を回収していますよ。少し戦い方のコツをつかんでもらうための、ブラフです」
「だますのはやめてくれ」
「他人に偽られるのはお嫌いですか?」
「好きなわけはないだろ」
「自分で自分のことは、しょっちゅう偽るのに?」
「そんな自覚はないよ」
「それこそ偽りですよね」
「……程度の差こそあれ、だれだって自分を偽るもんさ。そうしなきゃ、生きていけやしないんだ。でも、意図して他人を偽ることは、よくないことだと断ずる。現に、僕は傷ついた」
泥夢はいつの間にか、元の石の姿に戻り、僕の手の中にあった。
「わたくしに去られて、傷ついた?」
ツキが、のぞき込むように、上目遣いで僕を見てくる。
「……そうだよ。誰かに見限られるのは、それが誰であっても、いやなもんさ」
ツキがにやにやと笑った。
「そうですか。でしたら謝ります。ごめんなさい」
まったく謝意など込められていない、ただの発声だった。
「前にも申しましたが、失望こそ泥夢を強くするバネです。隆明さんは、もっともっと、強くなれます」
僕は、自宅に戻って、布団を敷き、その上にどっかりと寝転んだ。地面に叩きつけられた背が、まだうずいていた。時計に目をやると、午前二時を回っていた。風呂に入りたかったが、面倒で、このまま寝てしまおうと決めた。
ふとテレビの横に置いてある、額に入れられた写真が目に入った。それは、庭子と半年前に初詣で神社を散歩した時に撮った写真だった。タイトめの黒いダウンに身を包んだ庭子は、カメラ目線で『大吉』のおみくじを掲げて、破顔の笑顔だった。
僕は、うずく背をそのままに、体を起こして、額から写真を抜き取り、びりびりに破いてゴミ箱に捨てた。そして、スマートフォンを開き、少し間をあけて思案のすえに、大熊庭子、の連絡先を消去した。
「未練を断ち切りましたか」
「全然断ち切れてはいないけど」
と僕は言った。
「好きでなくなった、と言う人に、何をしてももう無理だろ。好きでいてくれと言うわけにはいかないし」
「そりゃあ、そうですね」
「だったら、思い起こさせるようなものを、捨てていくしかないよな。されど人生は続くし」
「まあ、恋愛は、人生の意味性に纏わる逡巡から、ひととき解き放ってくれる儚き魔法のようですからね、人間にとっては。わたくしにはよくわかりませんが」
僕はカレンダーに目をやった。
「明日は仕事がある。仕事があることは幸いだよな。没頭しているあいだは、面倒くさいことは忘れるから」
「『人生に耐える唯一の方法は、なんらかの課題をいつもかかえておくこと』ですか。あのおじさん、わりと的を射たことを言っていたのかもしれませんね。死んじゃいましたけど」
「死ぬ死ぬって、本当に軽く言うけどさ。ツキは、死ぬことはあるの?」
「一応、死というか、消滅は設定されているみたいですよ。でもまだ消滅したことないです。代替わりは何回かしていますけどね」
「消滅することが、怖くはないの?」
ツキが、少しの間だけ、黙った。何かをイメージしているようだった。
「怖くないことはないですね。消滅したあと、どんなふうになるのか、わかりませんので。存在は、存在である以上は、すべていつかは消滅しますから。そういう意味では、わたくしもあなた方と同じですね」
ツキを、恐ろしく、気味悪く、話していてはなはだ後味の悪いやつと思うことには変わりなかったが、僕は少しだけ親近感を持った。ツキにも寿命がある。何千年か、何万年か知らないが。
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