第10話

黒龍の咆哮が脳に響いて、思わず耳を抑えた。

俺に覆い被さるようにコスガノの身体が大きくなる。ふわふわとした毛皮に抱きしめられた状態から見上げると、緑の龍の身体が鬣と同じ金色に光っていた。

黒龍のざらざらと不快な声が響く。


(邪魔をするな!)

「汚い手で触るな! 御幸はおまえが簡単に触れていい人じゃないんだよ!」


夜空からの光がそこかしこに突き刺さるように落ちて、地響きが鳴り響いている。

2体の龍は上空で絡まりあい、雷の中で鋭い爪や牙で互いを傷つけては離れてを繰り返していた。

龍之介の身体がダメージを受けるたび、金色に光る。

あれは血なのか。コスガノの下から出ようと手を伸ばすが、強い力で引き戻される。チーチーと咎めるような声が耳元で聞こえた。

降り注いでくる雷や火の粉のような光から守ってくれてんるんだ。

けれど龍之介が傷付いているのにじっとなんかしてられない。

「龍之介!」

俺の声は雷鳴に吹き消されて、龍之介に届かない。もどかしさにぎゅっとコスガノの身体にしがみついた。

やがて力の拮抗が崩れて黒龍の身体が不安定に揺れると、龍之介が覆いかぶさり黒い身体を握りつぶそうとしていた。

苦し気なうめき声と嘲るような声が響く。


(何百年もの間、血反吐を吐きながら地中を彷徨って見つけた本物の巫女だ。そう簡単に諦められるか!)

「お前は今まで何人もの人たちを引きずり込んでは食い散らかしてきたんだろ! その腐敗した匂いも身体もそのせいだ。御幸を手に入れたからって、簡単に元に戻れるなんて思うな!」

(若造に何がわかる!)

「俺の先代は一人の巫女を思い続けて朽ちた。誰も傷つけたりしなかった。俺も生涯求めるのは御幸だけだ。誰にも渡さない!」

(おまえもいずれ分かる。巫女を失った龍神の苦しみがどんなものか)

「俺は御幸を失ったりしないっつてんだろ!」


二匹の咆哮が雷鳴と共鳴するように響く。

雷鳴に邪魔されて、言い争う声はとぎれとぎれにしか聞こえてこない。

傾いだ黒龍の喉に龍之介の牙が深々と突き刺さるのが見えた。

切り裂くような叫び声が轟き、黒龍の身体が黒い靄のように散り散りになって闇に溶けていった。


「龍之介!」

空から、力尽きたように緑の龍がくるくると回転しながら落ちてくる。コスガノの拘束が解けて落下場所に躓きながら駆け寄ると、人の姿になった龍之介が倒れていた。

「龍之介っ!」

抱き起こすと服はボロボロで、ところどころ焦げている。顔も手足も傷だらけで血が滲んでいた。

黒く汚れた顔に触れると痛そうに顔をゆがめた。

「おまえ……」

ゆっくりと細い目が開いて、俺を見上げて笑う。

「……へへ…力、使いすぎちゃった…。御幸は…大丈夫?」

「俺の心配してる場合か!」

抱えて立ち上がろうとすると、制するように手が頬に触れた。

「ね…キスして」

「こんな時に何言ってんだ!」

手を振り払って抱え起こそうと腕に力を入れた。

「つれないなぁ……」

そう言うと、力尽きたように手がぱたりと落ちて、腕の中が急に軽くなった。

「え…?」

まるで水が蒸発するように、龍之介の身体が消えていく。

龍之介の身体を抱えたままの形で、俺の腕だけが残された。

なんだ、これ…。なんだこれ!

「伊坂くん!」

さっきまで龍之介を抱いていた手を呆然とみつめていると、菅野が駆け寄ってきた。

視線を上げると、黒い霧はキレイに晴れて夜の校舎が聳え立っていた。その向こうには図書館の光と幾人かの学生の姿が見えた。まるで何もなかったのかのように、平然と歩いている。誰も何も見ていないのか。

呆然としている俺に菅野が強く腕を掴んできた。

「あ…龍之介が……龍之介が!」

腕の中で消えた。どこへ行ったんだ。なんで? 何が起こったんだ。

菅野に肩を掴まれた。

「伊坂くん、落ち着いて。龍之介は大丈夫だよ」

自分でも混乱しているのがわかる。いつもの落ち着いた菅野の声がこんなに腹立たしく感じるなんて。

「なんで、そんなこと、言えるんだよ! 消えたんだぞ!」

「湖に帰ったんだ。力を使い果たしたから。湖に戻れば傷も癒える。龍神なんだから簡単に死んだりしない」

「でも、でも…あんな傷だらけで、ぼろぼろで…」

さっきまで龍之介を抱えていた手を見ると、龍之介を触った指は黒く煤けて、赤い血もついている。大丈夫なわけあるか。

震える手を菅野が掴み、抱き寄せられた。温かい腕に抱かれて、涙がぼろぼろとこぼれる。

「どうしよう、龍之介が死んじゃったら…俺…俺……」

どんどんと嫌な考えが頭に浮かんで、菅野にしがみついた。何もできなくて、優しい言葉ひとつかけることもしなかった。

このまま、二度と会えなくなってしまったら? どうしたらいい。

「伊坂くん…」

なお、言いつのろうとしたとき、菅野の顔が近づいて唇をふさがれた。

抵抗する気力もなく、されるがままに身体をゆだねると力が抜けていく。

舌が優しく絡んで離れた。菅野の薄茶の目が、俺を見ている。

「な…がの?」

「俺が大丈夫って言うんだから、大丈夫だよ」

菅野は落ち着いた平らかな声で、子どもを諭すように静かに言った。

無意識に菅野の腕をぎゅっと握ると、いつのまにか震えは止まっていた。

「落ち着いた?」

ぽんぽんと背中を叩かれ、口を開きかけたとき、足元でコスガノが飛び跳ねているのに気づいた。そこには、さっきまで俺が握っていたお守りが落ちていた。

拾い上げると、なんだか中が熱い。

中身を取り出してみると、龍之介の鱗が熱を放出していた。

「どうしたの?」

菅野がのぞき込んできたので、掌に乗せて見せようとしたときだった。

「熱っ…」

一瞬、鱗が燃えるように赤くなり、掌に焼けるような痛みを感じた。と、思ったとたん、溶けるように鱗が消えた。

「え…?」

俺と菅野は目を見張り、菅野は俺の手を掴んだ。

鱗があった個所が薄っすらと痣のようにピンク色になっている。

消えた?

「…どういうこと?」

菅野も驚いて俺の掌を見つめている。

呆然としたのも束の間、俺は心臓がばくばくと脈打ち始めるのを感じた。

鱗がなければ、龍之介は俺のところに戻って来れない。

どうする。どうすればいい。

無意識にふらりと立ち上がった。

「湖へ…行かないと…」

菅野の言うように湖に帰っているのなら、俺が会いに行かないといけない。

唯々、龍之介に会いたかった。無事を確かめたかった。

「今から? もう最終の新幹線はないよ」

「夜行バスなら…」

駅に向かって歩き出そうとしたところを菅野に手首を掴まれ、引き寄せられた。

顔が近い。間近にある整った顔は暗い中で陰影をつくった瞬間、苦し気に歪んだように見えたが、すぐにいつもの菅野に戻っていた。

「車で行こう」

「…え?」

兄に車を借りる、と俺の手を掴んだままスマホを取り出した。

「兄ちゃん? ちょっと車借りたいんだ。友達が急用で実家に行かないといけなくなって。明日にはちゃんと返すよ」

いきなりの事に唖然としていると、菅野はさっさと通話を終え、俺の手を取って歩き出した。

「ちょっと歩くけど、いいよね?」

「菅野? 本当にいいのか?」

菅野は短く、うんと答えるだけだった。

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