第9話

翌日、提出するレポートを作成するために、菅野と大学敷地内にある図書館を訪れた。

「ふうん。それで大人しく龍之介は湖に帰ったわけだ」

昨日の夜、龍之介が湖に帰ったというと、菅野はちょっとだけ驚いたような顔をした。

龍之介が俺から離れるとは思ってなかったみたいだ。

「ま、態勢を整えるのも大事だしね」

菅野は、あの黒い龍を裏山に戻すためには龍之介の力が必要なのだと言った。

「なあ、それって龍之介に危険な事はないよな?」

「龍神同士の争いなんだから、危険に決まってるよ」

「おまえっ!」

声を荒げた俺に、菅野が人差し指を立てる。

そうだ、ここは校内の図書館。大声は禁物。

「龍之介は承知してるよ。伊坂くんのために身体を張る気だからね。伊坂くんもそろそろ覚悟を決めたら?」

「覚悟…?」

「龍之介の巫女になる覚悟」

「巫女なんかになれるかよ」

菅野も龍之介も、なんの疑問も持たずに俺を巫女扱いするけど、おかしいだろ。

男なんだから。

「男とか女とか関係ないよ。龍神の龍之介が伊坂くんは崇拝するに値するって認めたんだから」

「崇拝? されるのは龍之介だろ。龍神なんだから」

うーん、菅野は何か考えるように目を閉じた。それから、少し声を顰めて、じゃあ視点を変えると言った。

「考えてもみなよ。『好きだ、結婚してくれ』って言ってる相手に一緒に暮らしながらご飯も作ってかいがいしく面倒もみて身体も許しておきながら、のらりくらりはぐらかすなんて、どんな小悪魔よ」

「許してなんかねぇよ!」

あ、とまた首を竦める。周囲の目が痛い。

キスはしてるけど、そこまでだ。それも不可抗力で俺からしたことなんてない。

「そうなの?」

「当たり前だろ!」

今度は声を思い切り低くして菅野を睨む。ふうん、と菅野は気のない返事をしている。おまえから言い出したんだろうが。

「―――それは猶更、龍之介が可哀そうだ」

「あ?」

何がだよ。菅野は遠い目をしながら、ペンをくるくると回した。

大体、龍之介が勝手に押しかけてきたんだし、俺は一度だって巫女になるなんて言ってない。期待を持たせるような事だってしてないし言ってないんだ。

あいつが勝手に…。

ふ、となんだか嫌な言い訳ばかりだな、と思った。

結局俺は龍之介の人の好さに甘えてるんだ。どんなに俺が冷たく突き放しても、龍之介は俺から離れないってどこかで思ってるんだ。

菅野に対してだってそうだ。結局、一人では何も解決できずに頼ってばかりで、自分の無力さにイライラする。

ばあちゃんが亡くなった時に、一人で生きていける強さを持たないといけないと思っていたのに。

黙り込んだ俺のノートの上でコスガノが小首を傾げていた。その仕草が龍之介と被る。能天気で陽気な龍之介に俺はいつも助けられてばかりだ。

「俺だって分かってんだよ。龍之介をいいように利用してるってことは」

菅野のペンがぴたりと止まった。

「……それが、伊坂くんの役割なんじゃないの?」

「…は?」

「千年生きる龍神にとって、俺ら人間の寿命なんてあっという間だよ。たかだか百年くらい好きな人の我儘に付き合うくらいなんてことないんじゃないの。伊坂くんに振り回されてる龍之介は、いつも楽しそうだよ」

「…そう…かな」

「邪険にされても嬉しそうだし……ドMなのかな?」

知るかよ。だいたい、龍神に性癖なんてあるのか。龍之介のいないところで、いろいろと考えても埒が明かないし、レポートも進まない。

「……コーヒー買ってくる」

立ち上がると、「俺にはミルクティをお願い」と手を振った。


図書館を出ると、もう暗くなっていた。時計を見ると八時を過ぎている。

試験期間中は学生のために九時まで開けていてくれるが、もうそんな時間か。

気が付くと肩にはコスガノが乗っていた。ほんと、神出鬼没だよなおまえ。

「あー、売り切れか」

図書館前の自販機は俺の好きなコーヒーも菅野のミルクティも売り切れ。この時期は、学生が多く出入りするから人気のあるやつはすぐに無くなる。

B棟近くの自販機はあまり人が通らないからあるんだけどな。

「すぐに戻れば平気か」

B棟に足を向けると、コスガノが俺の髪を引っ張った。

「いてて…すぐに戻るって」

外灯の少ないB棟へ続く細道を行くが、まったく誰ともすれ違わなかった。そりゃそうか、ただでさえ試験期間で人は少ないし、この時間だ。

夜の校舎ってなんでこんなに不気味なんだろ。

目当ての自販機をみつけて、小銭を出しながら前に立ったとき、右袖を引っ張られる感覚に後ろを振り返った。

誰もいない。

その時、肩に乗っていたコスガノの毛がぶわっと逆立った。

「どうした?」

ふーふー、とコスガノの息が荒い。赤い目はまっすぐB棟に向けられていた。

なんだよ、何か見えてるのか。


その瞬間、目の前が真っ暗になった。思わず目を擦る。目をやられたのか。いや、肩の白いコスガノの姿はぼんやりと見える。黒い霧に包まれたんだ。

それと同時にヘドロのような匂いが立ち込めて、息をするだけで喉が痛い。咳き込んで膝をつくと、黒い霧がねっとりと身体に纏わりついてくる。

コスガノの身体が膨張して俺から黒い霧から剥がそうとしている。けれど、圧迫感は増すばかりで、コスガノが苛立ったようにチーチーと鳴いた。

苦しい。息ができない。

菅野…龍之介…!


「御幸に触るな!!」


何かに突き飛ばされるように、ふいに霧の外へと放り出された。

気づくと、白い毛皮に庇われて池の淵に這い蹲っていた。

地震のように地が揺れるような感覚と共に大きな雷鳴が聞こえて空を仰ぐと、黒と緑の2匹の龍が絡み合うようにして空を登っていくのが見えた。


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