第5話
入学式2日前。
朝、隣の部屋からガタガタと音が聞こえてきた。とうとう入居者が引っ越してきたらしい。それにしても、慌ただしいな。2日前なんて。
「同じ大学に通う人?」
龍之介は、最近気に入っているグレープフルーツを食べながら、隣の様子を気にしている。
「ああ。大家さんがそう言ってた。…ていうか、龍之介、まだその姿なのか?」
人の容姿を保ったままの龍之介は、あの夜以来、ほぼ毎日俺のところにやってくる。ただ、人の身体を維持するのは疲れるらしく、いつもは夜明け前には龍に戻っているのに。
最後の実を口に放り込んだ龍之介は、俺に顔を近づけた。
「そろそろ時間切れみたい。戻る前にキスして」
顔を寄せてきたが、口元を手で覆った瞬間、いつもの龍の姿に変化した。
「御幸のイケズ」
恨めしそうに見てるけど、知るか。
その日の深夜、キッチンから物音がして目が覚めた。
龍之介のやつ、また何か盗み食いしてんのか?
明日、注意しないとな、と寝返りを打つと目の前に小さな龍の寝顔があった。
あれ? 龍之介じゃないのか。
物音を立てないようにキッチンへ行き、電気のスイッチを入れた。
急に明るくなったキッチンのテーブルの上に、白いネズミ。
「…え?」
テーブルの上で、夕飯の余ったごはんで握ったオニギリを白いネズミが抱えて食べていた。
ネズミの赤い目と目があった…ような気がした途端、ネズミの姿が消えてしまった。
え? え? なんだ今の。
もう一度、目を凝らしてももうネズミの姿はない。
寝ぼけてんのかな、俺。
オニギリを見ると、少しだけ齧った跡があった。見間違いじゃない。ネズミがいるのかよ、このアパート。大家さんに言った方がいいのかな。でも、白くてきれいなネズミだったから、どこかで飼ってるのが逃げ出したのかも。
うーん、と悩んだが、眠い頭で考えても仕方ない。再びベッドに戻り布団にもぐって眠りについた。
「昨日のオニギリ捨てちゃったの?」
龍之介が残念そうに言うけど、ネズミが齧ったのなんか食わせるわけにいかない。
「ご飯、炊いたからちょっと待ってろよ」
テーブルの上で喜ぶ姿を見ながら、炊きたてのご飯でオニギリを握る。
龍之介はなぜか、白米のまま食べるよりオニギリを好む。
朝食を用意すると、龍之介はちゃっかり人の姿になって向かい側に座った。
箸の使い方も覚えたから、普通に人間に見える。だいぶ、この姿も見慣れたな。
「今日は駅前のスーパーに行ってくるよ。食材を仕入れたいし、本屋も行きたい」
「俺も行く!」
「ダメに決まってんだろ」
人の姿はまだ安定しないのか、1時間程度しか保たない。街中で龍に戻られても俺が困る。
「大丈夫、龍の姿は御幸にしか見えないから」
「えっ、そうなのか?」
龍の姿が見える俺みたいなのが希少なのだという。
そういえば、いつも会うのは山奥で人気のないとこだったし、今は俺の部屋からまだ出たことがない。
他の人がいるところに龍之介をつれていったことはなかった。
「俺にしか見えないなんてことあんのか?」
「御幸て、特殊な眼を持ってるみたいだね。実はあの湖に来る人は何人かいたけど、俺に気づいたの御幸だけだよ」
知らなかった。とはいえ、安心はできない。
「急に人が消えたら周りが驚くからダメだ」
「えー。じゃあ、龍の姿でカバンの中でおとなしくしてるよ。だめ?」
押し問答の末、不満げな龍之介を押しのけて家を出ようとしたとき、インターホンが鳴った。
「はい?」
「隣に引っ越してきた菅野です。ご挨拶にきました」
ドアを開けると、俺と同じくらいの背の色白の男が立っていた。
「あ、もしかして、同じ大学っていう…」
「菅野
小さな紙袋を差し出して、ふんわりと笑った顔は、整った顔立ちの優等生風の容貌だ。
「ああ、聞いてるよ。随分ぎりぎりに引っ越してきたんだな」
「実家は近いんだけど、急に家を出ることになったから」
「そうか…」
紙袋を受け取ったとき、菅野の肩の上で何かが動いた。
「あ…っ……おまえっ…」
「え?」
肩に白いネズミっ! 昨夜の奴!
「おまえのとこのネズミだったのかっ!」
声を荒げる俺とは対照的に、菅野はキョトンとした顔をしている。
「なんのこと?」
ネズミはちょろちょろと菅野の左右の肩を行ったり来たりした後、急に消えた。
漫画みたいに目を擦って二度見したが、もうネズミはいなかった。
あれ?俺の気のせい?
「…大丈夫?」
菅野の心配げな声に我に返った。見えてないのか?
「いや…なんでもない」
慌てて、その場を取り繕った。初対面で変なとこ見せてしまった。
それから、俺の格好を見て菅野は少し声のトーンを落とした。
「出かけるところだった? ごめんね、邪魔して」
「いや、いいよ。駅前のスーパーに買い出しに行こうとしただけだから」
瞬間、菅野の目がキラリと光った。
「俺も一緒に行っていい? この辺の店、よく知らなくてさ」
「ああ、別にかまわねぇよ」
準備してくると言う菅野が一旦家に戻ったので、俺も部屋に引き返した。
「なに? 誰? 今の!」
龍に戻った龍之介が肩に飛び乗ってきた。また、小さくなったな。20cmくらい?
「隣に越してきた菅野だよ。これから彼と出かけるから」
「俺も行く!」
だから、ダメだって言ったろ。
「この姿でバッグの中に隠れてるから、大丈夫だよ!」
そう言って、トートバッグの中に入り込んでしまった。
「おい!」
手を突っ込んで引き出そうとするが、するするとすり抜けて捕まらない。もうしょうがない。
「絶対、出てくるなよ」
念をおして、バッグを肩にかけ直した。
菅野は栄養学を専攻するだけあって、食材や栄養にやたら詳しかった。野菜の見分け方から、肉の選別の仕方まで、どこでその知識を身につけたんだってくらい饒舌に説明をしてくれた。
なんか、俺の美味しいもの作りたいなんていう、ぼんやりした専攻理由が恥ずかしくなってくるくらいだ。
「それを勉強するために大学行くんだから、別にいいんじゃない?」
と、菅野は言うけどさ。
「俺のが年上なのに、なんか考えが浅いなって」
「え…? 伊坂…くん、浪人してるの?」
「いや、子供の頃、病気で小学校に上がるのが一年遅れたんだよ」
それから、ずっと年下の中で過ごしてきたから、少し協調性にかけるというか、人の輪に入るのが苦手というか。
「全然、そんなふうに見えないけどな。伊坂くんは話しやすいよ。見た目はアレだけど」
目つきが悪いのは自分でも分かってる。いい奴だけど、一言多いな。
でも不思議だ。菅野相手だとあまり壁を感じないと言うか…。このふわふわとした雰囲気のせいだろうか。
それに、菅野の肩に時折姿を見せる白ネズミ。
菅野はまったく気づいてないみたいなんだよな。まわりの人も特に反応してないから、俺にだけ見えてるのか。もしかして、龍之介と同じようなものなのかな。俺、いつからこんなモノが見えるようになっちまったんだ。
日用雑貨も買って、菅野が気になるというラーメン屋で昼飯を食べ、明日の入学式を一緒に行こうと約束して家の前で別れた。
部屋に入るなり、龍之介がバッグから飛び出した。
「なに? あのデートみたいな雰囲気!」
「…おまえ、何見てたんだよ。買い物してラーメン食っただけで何がデートだ」
「違うもの頼んで、分けあってたじゃん!」
それは、菅野が俺のも食べてみたいって言うから。食に対して貪欲なのもわかった。ていうか、食いしん坊?
俺もラーメン食べたかった、とぷりぷり怒ってる龍之介は放っておいて、買ってきたものを冷蔵庫に詰めていく。
「そういえば、おまえにもあのネズミ見えたか?」
「ああ…。どっかの神の使いみたいだね。菅野…くん?って只者じゃないよ」
買ってきたばかりのグレープフルーツを渡すと、鋭い爪で器用に皮を剥きながら龍之介はなんてことない事みたいに言った。
「意味深なこと、さらっと言うなよ。どういうことだ?」
「バックにヤバイ奴がいるんじゃないかな」
「え?」
キレイに向けた実を差し出してきたので、無意識に摘んで口に放り込む。にやりと笑った龍之介の顔に、あ、と思ったが遅かった。
「食べたね」
いけね。龍之介から手渡されたものを食べると求婚を承諾したことになるんだった。
「てめぇ、きたねぇぞ」
人が油断してるところにつけ込みやがって。捕まえようとしたが、するりと手から抜けキッチンから逃げるのを追いかけると、一瞬にして人の姿に変わった。そのまま手を引かれベッドに押し倒される。
「龍之介…っ…んー」
肉厚な龍之介の唇が重なって、舌を引きずり出された。好きなようにかき回され、やっと解放された時には息が上がっていた。
こんな事も、しょっちゅう仕掛けてくるから慣れてしまったから、キスぐらいではもう驚かないけど、今日は何かが違う。
「おまえな…」
身体を押し返そうとしたが、がっちりと抱きしめられて身動きがとれない。
「好きだよ。御幸」
いつもとは違う声のトーンに、思わず動きを止めた。
「俺、本気だからね。御幸がほかの誰かとどうにかなったら、俺、何するかわかんないから」
バカ言うな、と言おうとしたが龍之介の表情が思った以上に真剣だったので、少し言葉に詰まった。
「……怖いこと言うなよ」
へへ、といつものように笑うと、ちゅっと軽くキスして肩に顔を埋めてきた。
俺は、どう受け止めていいのかわからず、ただ龍之介の丸い頭を撫でるしかできなかった。
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