第3話
3月にしては、暖かい天気の良い日だった。
俺は、少しだけ重い気持ちを抱えて湖に向かっていた。
思えば湖に通い始めて、もう6年だ。俺が作ったものを美味そうに食べる龍之介のために、お弁当のバリエーションはどんどん増えていった。
今日は、龍之介の好きな手羽先の海水焼きと卵焼きを持ってきた。
湖に近づくと、いち早く気配を察した龍之介が湖から上がってきた。
「久しぶり! もうジュケン終わったの?」
嬉しそうに尻尾をぴちぴちさせながら近寄ってくる。龍之介には、前回来た時に、大学受験があるからしばらく来れないと言ってあったんだ。
「ああ。今日は手羽先持ってきた」
「やったー」
無邪気な反応に心が痛む。
手羽先を持って食べる姿を見ながら、言葉を探した。
「どうしたの?」
いつもと違う雰囲気を察したのか、不思議そうに首をかしげた。
「あのさ…」
「うん?」
「しばらく、ここへ来れない」
「え…。どれくらい? 1ヶ月?」
「いや…」
「2ヶ月?……3ヶ月?」
だんだん声が不安げになっていく。
「御幸?」
「県外の大学に行くんだ。こっちへはしばらく帰れないと思う」
龍之介の手からぽとりと食べかけの手羽先が落ちた。
「え? え? でも、でも、戻ってくるんだよね」
戻るのは4年後。もしかしたら、そのまま、そこで就職するようになれば、もう戻らない。
「なんで? どうして遠くへ行くの? 俺、やだよ!」
やだやだ、としがみついてくる龍之介をなだめながら、どう説明すればいいのか、と思う。
俺と過ごすようになって、龍之介は随分、人っぽくなったけど、だからと言って人としての生活を全部理解しているわけではない。
「学びたい事があるんだよ。そこでしか出来ない事だから行くんだ」
「……俺と逢えなくなるのに?」
涙目の龍之介の小さな手を取る。
「おまえと会ったからさ。料理の勉強したいんだよ。そんで、もっと美味しいもの作って、いつか、おまえに食べさせたいんだ」
「美味しいもの……?」
龍之介が、ちょっと嬉しそうな顔をした。
半分ホントで半分は方便だけど。栄養学を学びたいのはホント。ただ、家から通える大学がなかったから仕方ない。
父親はそれほど食べ物に関心がなく、俺の手料理を食べて喜んでくれたばあちゃんはもういない。手料理を食べさせたいのは龍之介しかいないんだ。
今思えば、料理をちゃんとやろうと思ったキッカケは龍之介だったと言えなくもない。
龍之介はしばらく無言で何か考えていたが、顔を上げた。今までに見たことがないような表情だった。
「寂しいけど、仕方ないよね。その代わりに俺の鱗を持って行って」
「鱗?」
龍神の鱗はお守りになるのだという。剥がれ落ちたものではなく、直接身体から剥いだものは更に効力が強い。
「え? いいよ、そんなの」
「御幸に持ってて欲しいんだよ。俺を近くに感じててもらえるように」
そう言って、俺の膝に乗ると背中を向けた。
背中の鱗は親指の爪くらいの大きさで、相変わらずキラキラと光っている。
「…ほんとにいいのか?」
「うん。ひと思いにやって」
ぎゅっと俺の膝にしがみついた。
じゃあ、と掴みやすい首筋あたりの一枚を摘まんで、思いきり引き抜いた。
「痛ぁー!!」
随分としっかりとした手ごたえがあって慄いていると、俺の膝から転げ落ちた龍之介がのたうちまわっている。
「いたいよー、いたいよー」
「お、おい、大丈夫か?」
尋常じゃない痛がり方に、思わず抱きあげて膝に上半身を乗っけると、ぐすぐすと涙目になっていた。
「そんなに痛いなら、やらせんなよ」
罪悪感、ハンパないんだけど。
「だって、俺の鱗、渡したかったんだもん」
背中を撫でてやると、少し落ち着いたのか大人しくなった。
俺は髪の毛を抜くぐらいの気持ちでいたけど、どうやら生爪剥がされたくらいの衝撃だったらしい。
けど、手の中の鱗は透明で光に透かすと虹色に光って綺麗だった。
「それ、ちゃんと肌身離さず持っててね。御幸を護るためのものだから」
「分かったよ。ありがとな」
へへ、と笑って甘えるように胸に頭をこすりつけてきた。
こういうとこは犬っぽいな。思わず頭を撫でると、きゅるきゅると嬉しそうに鳴いた。
日が暮れる頃、後ろ髪を引かれる思いで湖を後にした。
「俺のこと、忘れないでね」
龍之介は、俺の姿が見えなくなるまでずっと湖のほとりに立って見送ってくれていた。
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