第14話 名前6
忌み名について、余談ながら、
「一人称に自分の名前を呼ぶということは、どういうことか」について、ふと思いつくことがあったので、書き留めておきます。
・現代日本で、一人称に自分の名を呼ぶのは、幼児だけである
(例;「ゆうとは、滑り台で遊びたい!」「はるかも、お団子食べる!」)
・他人の忌み名を呼べるのは、目上の者のみで、目上⇒目下の流れがある。
このふたつの条件から推論される、論理的な帰結は、
個人が、より「大きな全体」との一体感を感じているときには、一人称に「私は」とは言わず、「(個人名)は」と語るのではないか、ということです。
「大きな全体」とは、「自然」「神仏」「無意識」「集合無意識」など、なんと呼んでもよいのですが、幼児期の意識は、個別の意識としては未発達で、「大きな全体」「集合的なもの」のなかに帰属している。
これは、中世の人々が、子供を、半分あの世の世界の存在と認識し、名前に「丸」をつけていた、という話しともつながります。(第6話参照)
個人の魂が「大きな全体」のなかに、無意識的に帰属している場合には、「私は」とは言わず、「(個人名)は」と、無意識に言ってしまうのではないか。
忌み名を呼ぶのは目上⇒目下の流れですから、フィーリングとしてはまさに、天上から下界を見下ろす感じなのです。
つまり、
・一人称を「個人名」で呼ぶ中世の人々は、一人称を「私」と呼ぶ現代人よりも、全体的な集合体への帰属意識が強かった
・中世の人々には、神仏を中心とした確固とした世界観があり、そのなかに、無意識的に帰属していた。
・逆に言えば、一人称を「私」と呼ぶ現代人は、意識の上で、全体的な集合体から切り離され、「個」というちいさな枠のなかから、世界を把握しようとしている
(現代人においても、個人は、動物の一部であり、自然の一部である以上、集合的全体に帰属している(切り離されていない)のだが、意識の上で、「全体から切り離されてしまっている、個」という世界観を深く容認しているため、全体から切り離されている、と感じている)
……今回は、哲学的な話になってしまいましたが、中世の人々と現代人の意識の違いというものを垣間見られたように思います。
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