第13話 名前5 ~ 忌み名

 中国、朝鮮、日本、ベトナムなど漢字文化圏では、忌み名(いみな/諱/その人の本名)は、魂の名前であり、他人がその名を口にすると魂まで支配できてしまう……という習俗がありました。

 そのため、親や主君以外の者が、忌み名を呼ぶことは、無礼に当たりました。

 これを「実名敬避俗」といいます。


(……『ゲド戦記』のストーリーは、まさにこれですね)



 たとえば、御家人たちが、「頼朝さま」とか呼ぶことは、ありえないわけです。

 「頼朝」は忌み名ですので、御家人たちは、かれの官職名で「佐殿すけどの」と呼んだりするわけです。



……実は、この習俗は今現在でも生きていて、

 たとえば会社の社長が「田中マサオ」という名前だったら、社員が「マサオ!」とか、「マサオさん」とか、呼びかけることはないわけです。

 ところが、実名敬避のない欧米では、社長に向かって「スティーブ!」「ボブ!」などと、ファーストネームで呼ぶのです。

 社員が田中社長に向かって「マサオ!」と呼びかけるのが普通なわけです。

 こう考えると、日本人は今でも、古代の習俗のなかに生きているのです。



 さて、以上が忌み名の基本的な考え方なのですが、日本の中世の文献をひもといてみると、おもしろいのは、一人称が、忌み名なのです。


 たとえば大庭景義が、「私は、源氏に味方しようと思う」などと言う時は、「私は」とは言わず、

「景義は、源氏へ参らんと存ず」

 というふうに、自分で自分の忌み名を言っちゃう(!)わけです。


(魂の名前を明かしちゃったら、魂を支配されてしまうのでは!?)


 と思ったりしますが、中世では、このように自分で自分の忌み名を言うのが通例でした。

 ただし、目下の者や親しくない者が忌み名を呼ぶことは、やはり無礼に当たりましたので、他人が景義に向かって「景義殿」と忌み名を呼ぶことはなく、「大庭殿」とか「ふところ島殿」とか、住所で呼んだわけです。



 現代日本では、一人称に自分の名前を言うのは、幼児だけですから、

(「ゆうとは、滑り台で遊びたい!」「はるかも、お団子食べる!」などなど……)

 古い文献を読むたびに、「頼朝は~」「景義は~」などと、自分で自分の名前を呼ぶ人たちが、かわいらしく思えてきてしまいます(笑)



源 三郎 頼朝(源=姓 / 三郎=通称 / 頼朝=忌み名)

大庭 平太 景義(大庭=苗字 / 平太=通称 / 景義=忌み名)

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