赤ブリーフとの仲違い→別れ

 私は直球のプロポーズに言葉を失った。

 思いもしなかった出来事に、ただマウロの瞳を見つめ続ける。緊張からか喉の渇きを感じて今朝から何も食べてなかったことを思い出した。けれど次の瞬間には、私の頭はどうやって断わったらいいか、と軸がねじ切れるほど回転し始める。身を捩って彼の腕から抜け出そうとした。

「……やっぱ、ダメか」

 彼は私を解放しはぁ、と長い息を吐いた。同時に俯いた瞬間短い金髪がさら、と陽を反射させた。思わず眩しくて目を細めた。彼は若くて、とても眩しい。「マウロ」と、私は名前を口にしはっきりと断わるために深く息を吸った。けれどそれが聞こえたか、彼は俯いたまま「言わないでよ」と囁いた。声が震えていた。

「本当はマイがオレを何とも思ってないのなんか、分かってた。毎日会ってりゃ分かるよ、弟か何かだと思われてるって。でもいつかオレ、マイをお嫁さんにしたいって……」

「マウロ、ごめんなさい……」

 ぐす、と鼻を啜る彼をせめてなぐさめよう、と肩に触れた。そのとき。

「マイ!」

 え、と私は振り返った。まさか、と口元を覆った。

 集落と宿泊エリアの間には木を組み合わせた仕切り──腰より高い柵がある。私達はそのすぐ横、集落から見える場所で話し込んでいた。軽やかに土を蹴る音が響きひらり、と私の視界を横切って赤短衣ブリーフが仕切りを跳び越えた。「オズワルド様!」マウロも同時に叫んだ。

 オズワルド様は珍しく顔をしかめ「何をしていた」と口調も荒く私をマウロから遠ざけた。私は彼が何か誤解をしている、と理解し咄嗟に「何でもありません」と答えた。彼の剣幕にマウロを守らなければと思った。

「何でもありません、だと? 俺には話せないようなことなのか」

 まずい、と背を強張らせた。オズワルド様は私と後ろのマウロを交互に見つめているようで、往復する度に殊更剣呑な眼差しを寄越す。最後は私をひた、と見つめて低く言った。

「……マイ、彼と何を話していた。答えてくれ」

「マイにプロポーズをしたんです、オズワルド様」

 マウロ! オズワルド様の顔が恐ろしいほど何か激情で歪み、それを見ていた私は喉が詰まって喘いだ。同時にぐ、と肩を掴まれ酷い痛みが走る。「ぅ」と呻いたけれど彼の視線はマウロを厳しく捉えて離れないようだった。

「君はマイが私の婚約者と知って、彼女に求婚したのか」

 もはや唸り声のような低さ。

「そうです、オレはずっと彼女が好きでしたから。いくらトップオブパンツ領主様相手でも負けたくないと思いました」

 マウロの声は恐ろしく真っ直ぐ私の頭越しに彼に届く。そしてオズワルド様はその度に傷を負ったように顔をしかめた。私は肩の痛みとあまりの状況に目眩をもよおしていた。貧血かもしれない、いや空腹か。昨日も遅くまで起きていたから。くら、と暗く揺れる視界に膝が折れかけた。

「マイ……!」オズワルド様の声が耳元で鳴り、腕の感触が体を支えたのが分かった。けれどそれも何処か遠くに感じられて、私の意識は唐突に途切れた。


 気がつくと以前視察で泊まった部屋に寝かされていた。あのオズワルド様と夜が明けるまで語らった場所だ。意識を失う直前の出来事をぼんやりと反芻していると、ドアが開いてオズワルド様が現れた。私が目覚めたことに気づいたのだろう、名を呼びながら歩み寄った。

「マイ、大丈夫か。……倒れたのを覚えているか」

「はい……すみません、寝不足で。朝も食べてなかったからかもしれません」

 そう言いながら私は自力で起きようとして、彼に肩を支えられた。先ほど掴まれた箇所がツキリと痛む、打撲になっていそうだ。

「……君は頑張りすぎだ。ここには医師も詰めていたから君が寝ている間に診せた。過労と言っていた」

 オズワルド様の声が硬い。口調も何処か余所余所しい。あぁまだ誤解しているのだろうか。私は彼の方を向き、準備なく赤短衣ブリーフを間近にしてしまい目を伏せた。目に毒だ。彼はその私の様子に気づいたようで、苛立たしそうに言葉を継いだ。

「私はこれから領主達と会議がある。マーを呼んでおいたからもう邸か……宿屋で休むんだ」

「ですが仕事が……」

「過労で倒れた者など役に立つまい!……すぐに帰るんだ」

 断固とした口調。これは領主の命令だ、と感じ私は目を伏せた。

「はい、申し訳ありませんお手数をお掛けしました」

 私はベッドに座ったまま頭を下げた。情けない気持ちで一杯だった。数ヶ月掛けて準備したお祭りの当日に倒れ、戦力外通告。「役に立つまい」確かにそうだその通りだ、と涙が溢れた。役目を果たせないことだけが辛かったのではない。彼と久しぶりに会ったのにこうして仲違いをしていることが悲しかった。明日には張っていた意地を取り去って彼に会いに行こうと思っていたのに。

 はた、と幾粒もシーツに雫が落ちたとき、ゆらりと空気が動いてオズワルド様が少し遠ざかったようだった。テノールが普段より弱々しく届いた。

「君は彼の求婚を受けるのか?」

 まさか! 私は勢いよく顔を上げ醜いだろう頬を晒した。

「どうしてそんなこと!」

 ひと息前までの悲しみは瞬時に怒りに変わっていた。これほど心が怒りに塗り潰されたことがあっただろうか。オズワルド様は冷えた目で私を見下ろしていた。

「君達は友人にしては距離が近く感じた。まるで口づけをしているように見えた」

「してません!」

「長の娘が言っていた、随分仲が良さそうだったと。他の領主も君達が抱き合うのを見ていた。あのような目につく場所でくっつかれては見てくれと言っているようなものだ」

 心が冷えた。

 彼の目は冬の空の如く冷え切った色をしていたけれど、きっと私の目も今は同じように冷たく見えるだろう。見つめ合い、徐々に怒りは灰色の軽蔑に塗り潰された。「そうだ君の世界ではここより奔放と言っていたな」彼への好意に灰が積もる。「君もやはりそうなのでは」堆積する。

 ――彼は酷く嫉妬すると悪意にまみれた発言が止まらなくなるようだ。以前同じことがあったのもこの場所森の集落だった、私達は気持ちを交したのにと、乾いた笑いが出た。あぁ上手くいかない。「何がおかしい」と、眉をひそめる彼の前で私はベッドから降りた。好きだからこうなるのだ、と何処かで自分の声がした。でも間に合わなかった。私は彼にゆっくりとお辞儀をした。止まらない衝動。

「私、マウロのプロポーズは受けておりませんが、今貴方と結婚する気もなくなりました。これまでトップオブパンツから与えて頂いたご恩、決して忘れません」

 「では失礼致します」と顔も見ずに彼の横を過ぎ、部屋を出た。赤い短衣の集団が好奇心を露わにこちらを眺めていた。何のチームだ勝手に赤パン履いてろ。外に出ると長の娘さんが私にニタリ、と笑い「いい気味」と言った。あぁこの子か焚きつけたのは、と思うと固く凍っていた気持ちが再び燃えだした。固まっていた何かはどろり、と溶け出して嫌な匂いを放って燃えるようだった。こんな激しい気持ちを抱いたのは初めてだと正常な呼吸をするので精一杯。「今夜、彼を慰めるのはアタシよ」憎悪。目の前が紗を掛けたように霞み、私は衝動のまま彼女の頬を叩いた。人を叩いた乾いた音よりも手のひらの痛みが先に来た。いいや手のひらなんて痛くない、痛いのは心だ、オズワルド様を好きだった気持ちだ。ズタズタだ。

 頬を張られて呆然とする娘さんは、当たり所が悪かったらしい唇を切っていた。誰かを叩くのなんて初めてだったから下手だったのかもしれない。血を見て少しだけ冷静になった。

「八つ当たりしてごめんなさい」

 そう、彼女を叩くなんてお門違いだった。叩くなら彼の胸を叩いてやれば良かったのだ。そして誤解だ、と叫べば良かったのだ。泣いてひとりにしないで、と縋れば良かったのだ。どうして出来なかったのだろう。彼を好きだからだ、とまた自分の声が聞こえたけれど、もうどうしようもなかった。


 こんなぐちゃぐちゃの頭で狭い荷台に乗り込む気分にはなれなかった。マウロとも顔を合わせたくない。笑顔で賑わうお祭りを眺める気分にもなる訳がない。スモー大会なんて勝手にやればいい。

 結果、私は集落からマーと反対の方向、つまり森へと入り込んだ。

 森の木陰はざわめく度に私の心を落ち着かせてくれた。儀式のために整備した道や岸は歩きやすく、簡単に湖畔に出る。オズワルド様と視察で訪れたきとは大違いだ。それを思い出し、あぁ正装でないけれど良かったかなと思った。けれど何か天罰が下るわけでもなさそうだったのですぐに考えるのをやめた。この国の住人でない私には関係がない、そんな風にも思った。

 湖の青さは以前眺めたときより透明に澄み、明るい陽を跳ね返らせながら揺らめいていた。時折立ち止まりながら私はオズワルド様を想った。そして彼の冷えた瞳を思い出し、震える心地を味わいながら、時折燃え上がりそうになる怒りを深呼吸で誤魔化した。そうして岸を歩く内に私は自分を取り戻していった。

 ……謝りに行こう。私は何にも悪くないのだから、堂々と会いに行けばいい。そして彼とケンカしたことだけを謝ればいい。

 縋りついて愛を乞うには、若くない。私達は……いいえ、私は。

 岸辺の樹の下に佇み涙を拭ったとき、さや、と木漏れ日が揺れて一瞬目を瞑った。そうして目を開けたとき、ごく近くの水面にピンクのゴム手袋が浮かんでいるのを見つけた。「あれは!」思わず駆けてそれに手を伸ばした。岸の草に掴まって懸命に手を伸ばしたけれどあと指一本分届かなかった。

 今じゃなくていい。後で訳を話して取りに来よう。

 そう納得して立ち上がったとき。ドン! と背を対の手形が押した。あ、と言う間もなく私は湖に落ちた。何もかもが突然で目を瞑る暇もなかった。

 ――冷たい、服が重い、苦しい怖い、あぁ誰か。ただ水面で暴れ、とうとう口に水が入り私はせ返って溺れたときの恐怖を思い出した。ダメだ、溺れる……!

 僅か目を開けた。闇雲に伸ばした指の先にピンクが見えた。藁にも縋りたい、とはこのことだろう。私はそれに手を伸ばした、刹那。

 カッ────! と白い光が睫毛の隙間から目を灼いた。


 突然陸の空気が顔中の穴から入り込んで私は酷く噎せた。ようやく咳が止まり誰が助けてくれたのだろう、と顔の水分を乱暴に拭った。けれど腕に短い芝の刺さる感覚ばかりで誰も声を掛けはしない。無理に目を開けると、そこは自宅の庭だった。



 続く

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