パンツの国から帰る→パンツの国へ帰りたい

 ツツジが咲いていた。こんもりと丸く整えられた赤ツツジ、その奥の白く滑らかな肌のサルスベリ。手前に植えた色とりどりのチューリップとスイートピー。小さく咲く白い花、黄色い花。短い丈の芝の上、あぁ夫の好きだった赤い花達。肘をついた視界には懐かしい日本の植物達が映った。

 これは夢だ、と瞬きを繰り返した。いや、私はあのまま溺れて死んだのか。死んで家に戻って来たのか。それとも夢? ぼんやりとチューリップの花が揺れるのを見つめていると、

「あらやだ、城井しろいさん!?」

 叫び声がした。隣の奥さんの声みたい、と夢心地で起き上がった。ぽた、と前髪から雫が落ち、首筋にも水が流れていった。服の濡れた感覚が体を冷やして煩わしい。それに天国にしてはここは少し風が寒い。

「ちょっと大丈夫!? 顔が真っ青!」

 低い塀の向こうから、隣の奥さんがガーデニング用の手袋をばたつかせていた。あれもしかして私、本当に帰って来たのだろうか。そう思い至った途端血の気が引いた。オズワルド様との心ない遣り取りがまるで走馬灯のように頭を巡った。

 私、彼と話をしないまま……戻って来てしまった……!

「ちょっと本当に大丈夫!? ずぶ濡れよ!」

 奥さんはますます手を振り回している。ひぅ、と冷たい風が吹いた。私は、奥さんの驚いた顔にようやく焦点が合いまずい、と頭が急速に回転し始めた。ここは日本だ、それは間違いない。濡れたまま庭に倒れてたなんて、明日にはご近所中に広まってしまうかもしれない。

 一気にここの生活感覚が戻り始める。未だ滴る湖の水を拭って「やだ!」と大げさに声を上げた。何でもないように立ち上がる。

「す、すみません。ちょっと水掛けてたらホースが壊れてて……しかも転んでぼんやりしちゃって」

 そう返すと、奥さんは「あらそうだったの? 大変だったわね」と尚も心配顔を見せたけれど「騒いでごめんなさい、お大事にね」と家に引っ込んだようだった。これは後で何かお菓子でも差し入れないと差し障りがあるかも、と隣の家から目を逸らした。ホースなんてどこにも出してない、気づかれたら面倒なことになっていたと、息を吐いた。

また風が吹いて、私は震え上がった。今は春だから暖かい風のはずなのにどうしてこんなに……あぁそうか私があの国の暑さに慣れてしまっていたのだと理解した。寒さに腕を抱え、最後に下衣を拾った日の記憶と何ひとつ変わらない――赤い春の花が満開の小さな庭を突っ立ったまま眺めた。どこか薄ぼんやりとした空気、薄い空の色、遠く車の走る音。静かだった。

 本当に戻って来たんだ……。

 ずぶ濡れの上衣シャツ下衣スカートは瞬く程に重く、春風が肌に張りついて私の体を冷やした。


 硝子戸は記憶の通り開いたまま、テレビは点けっぱなしになっていた。日付はパンツの国に行った翌日の朝、約二十時間後だった。それに気づいた瞬間私は衝撃を受けて固まった。

 どういうことなの? 私はあの国で約八ヶ月も過ごしたはず。

 あの国での八ヶ月がここでは一日にも満たない、ということなのか。力が抜け、へなへなと床にへたり込んだ。久しぶりのシャワーが気持ちよくて呑気に過ごした数十分に絶望する。裸足の心地よさに思わず微笑んだことを後悔する。今この間にも、あちらでは、何週間もの時間が過ぎているかもしれないなんて。

 顔を覆った。オズワルド様は私を探してくれただろうか。それとも愛想を尽かし気にも留めなかっただろうか。今、彼は何をしているだろうか。

 あの世界に行ったのは日曜だったから翌日であるならば今日は仕事のはずだ、とか、硝子戸を一日開けっ放しにしていたから貴重品は、とかそんなことを考える余裕はなかった。ただ、私を見たオズワルド様の冷たい眼差しはもう永遠にほどけないという事実に、体が凍るほどの寒さと苦しみを味わった。

 あの暖かい国に行きたい、真っ直ぐな陽射しを浴びて体を温めたい。帰りたい。 

ぐ、と胸が詰まって蹲った。「帰りたい。彼に……会いたい」あぁ、もう会えないのだろうか。嫌だ、嫌だ。もう一度だけでいい彼と話を!

 私は流れる涙をフローリングに垂れ流し、ただ数時間横たわり続けた。


 何か音が鳴った。どのくらい床に横たわっていたのか、呆然としたまま遠くでその機械音を聞いた。あぁ電話か、と音の意味を理解し重い体を起こした。頬が床に張りついて剥がすときに木目の跡がついたようだった。

 のろ、とテーブルの上のスマホを取ったけれど、冷たい機械の感触が手に馴染まず画面を覗き込むにも手間取った。こんな精巧な機械は久しぶりだった。電話は夫の親戚からだった。不器用にタップした。

「もしもし? マイさん?」

 夫の係累はもうこの遠い親戚だけだ。私はここに帰って来てから初めて夫の存在を思い出し、その軽薄さに内心自嘲した。額を片手で覆った。

 電話はおじさんが亡くなった、と言う連絡だった。けれどもう葬式は家族だけで終えた、とおばさんは落ち着いた声で話した。「それでね」とおばさんは続けた。

「そろそろマイさんのところも三回忌だったことを思い出して。でも正直私も嫁いできた人だし、自分の母親の介護もあってね。ちょっと早くて申し訳ないけど、法事は欠席しようかと思って。ウチももう家族だけで全部済ますことに決めたから」

 はい、としか言葉が出なかった。「じゃあまたね」と電話は早々に切れた。真っ暗な画面を少し眺めてからスマホをテーブルに置いた。私はなんて薄情な、と怒りを覚えた。そして三回忌に誰も来ないなんて、と思った。よくもそんな電話ができたものだ、と。

 ふらり、私は夫の仏壇に移動した。『うちの人、先週死んだのよ』『知らせるのが遅くなったけど、家族だけで済ませちゃったから』足を出す度、おばさんの声が反芻する。怒りが沸いていたはずだった。けれど仏壇の夫の写真が視界に入ったとき、私はおばさんの気持ちが理解出来た。

 もう、夫の死を過去にしたいのだろう。

 声もなく座布団に座った。昨日仏壇にあげたご飯が硬くなっていた。夫の写真を手に取った。写真立ての縁をゆっくりなぞる。

 ただ、懐かしい、と思った。夫のこの写真の笑顔が、ここで毎日夫を想った記憶が、夫が死んで過ごした空虚な日々が酷く遠く懐かしく感じて、堪らなくなった。あの国に行く前までは確かに現実だったのに、ここに戻って来た今では夫の死は過去になっていた。

 あなたの三回忌、誰も来なくなっちゃった……

 夫の死を悼むのは私だけになった事実とその寂しさと、夫に抱いていたはずの強い想いが遠ざかった自覚に私は呻いた。薄情なのは私だ、オズワルド様に恋をして夫を忘れていたなんて、あっちに帰りたいだなんて、写真を見てももう辛くないだなんて。『そうだ君の世界ではここより奔放と言っていたな』『君もそうなのでは』そうかもしれない、やはり私はそういう世界の人間だったのかもしれない。

 カーテンを閉めた家の中は夕方のように暗くて、私は目を瞑ってあの抜けるような青空を目蓋に求めた。写真をそっと胸に抱いた。「ごめんなさい、あなた」と泣いた。


 その日の夕方には職場へ赴き退職願と届を提出した。無断欠勤した私が突然それを出しに来たのには上司はもちろん同僚も驚いていたけれど、引き留められはしなかった。そういう世界なのだ。総務に書類をもらいに行きなさい、と言われただ「お世話になりました」と頭を下げた。

 家も仲介不動産業者に頼んで処分することにした。ローンが終わっていたので必要書類を提出すればいつでも売却期間に入れると言われた。翌日には書類の準備や申請を終えた。「すぐに買い手がつくと思いますからお引っ越しの準備を」と言われ、自分がどこに住むのか決めていなかったことに気づいた。けれどこの世界には私の居場所は何処にも見当たらなかった。出ると決めたにも関わらず、私は庭の花が揺れるのを眺めて思案に暮れた。衝動的に家を売ってしまうことを少しばかり早計だったかも、と後悔し始めたとき、小麦色に焼けていた私の肌に強い春風が吹いた。それは肩より下まで伸びた髪を激しく巻き上げてまた何処かへ。その行き先の空を見て、私は暖かい国に行きたいと思った。

 そうだ、海外に旅行に行こう。南国の島がいい。英語が出来なくてもきっと何とかなる。どんなに変わった国でも皆が下半身下衣パンツ一枚で過ごす場所なんてないだろう、とすぐにチケットを検索した。ふふ、と可笑しくて乾いた笑いが出た。

 気に入ったらそこに住んでみてもいい、必要最低限の荷物で充分だ。もう私は、洗濯物だって手洗いで充分きれいになると知っているし、何ならひとりでキャンプだってできるかもしれない。

 以前は庭の手入れ以外は外に出たくもなかったのに、自分は変わったなと思った。


 パンツの国から戻り三日目の朝、私は庭の水遣りを終えて食事を摂った後、身の回りの整理をしていた。旅行は二日後に決まり、同時並行で淡々と物を処分する。そうだもう旅行の着替えはつめてしまおう、とスーツケースを出すために二階に登った。マキシ丈で登りづらいけれど、もうパジャマでもズボンを履くのは違和感しかなかったのだ。

部屋に入った瞬間、外から大声が聞こえた。

「ちょ、ちょっとー! 城井さん! 誰かー!」

 え、隣の奥さんだろうか。私は悲鳴のような叫びに何事か、と慌てて窓から庭を見下ろした。瞬間、息が止まった。

「……マイ! 何処にいるんだ!……すまないそこのご婦人、マイという女性を探しているんだが」

 白上衣シャツ狭衣ビキニをのイケオジ外国人が家の庭の真ん中に立っていた。私を呼んでいる。そればかりか隣の奥さんに不用意に近寄り──赤狭衣姿で──何やら尋ねている。

「キャ──! 誰か、痴漢よ────!」

 エーミル・ポーズのオズワルド様は隣の奥さんの叫び声に首を傾げている。

「お、オズワルド、様……よ、よりによってビキニ……」

 私は腰が抜け窓枠に掴まるのに精一杯で、オズワルド様を救出──文字通り──するには這って階段を降りるしかなかった。そして必死に居間のカーテンと硝子戸の鍵を開け「オズワルド様!」と叫んだときの驚愕を私は一生忘れないだろう。

 隣の奥さんの悲鳴で人が随分集まったようで、人垣が出来ていた。スマホを向けてパンツの国の正装赤狭衣を写真に収める若者もいた。誰かが警察に通報したようでけたたましいサイレンを鳴らして、パトカーが到着したところだった。

 当のオズワルド様は庭のサルスベリの木の影にしゃがみ込んでいた。白い花と赤い花の傍でまるで擬態だ、と私は変に感心してしまった。あまりの出来事に頭がおかしくなっていたのだろう。

 私の声にオズワルド様はハッと顔を上げ、「マイ!」と泣きそうな顔で駆けてきた。「本当にパンツだ!」「赤ビキニ!」「ちょ、動画!」「お巡りさんあの人です!」と野次馬の声が聞こえたけれど、私は全力で駆け寄る彼の赤狭衣姿に泣きそうになるほど安堵した。そして案の定土足で居間に上がり込んだオズワルド様は、私に抱きついて「マイ! あぁマイ会いたかった! すまなかった……!」と号泣した。すまない、マイ、会いたかった、とそれしか知らない子どものように繰り返す。私も込み上げる激情に、腕を彼の背に回そうとした。けれど。

 「あの、警察の者ですが」と庭先から居間を覗いたお巡りさんと目が合ってしまい、それは叶わなかった。



 続く

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