　朝食は別々だった。

　昨日倒れた飾り棚は何事もなかったように元に戻っており、朝食が用意された居間には誰の姿もなくただ波の音が漂うだけだった。

　だから私はオズワルド様は街に帰ってしまった、と思っていた。怒って帰ってしまった、と。だから外に出てマーの側に家人さんと彼の姿──赤短衣（ブリーフ）を履いていた──を見たときは、心底安堵して微笑むことが出来た。私の挨拶に目は合わせてはくれなかったけれど、返事があっただけ彼は優しい、と思った。

　荷台では昨日のように隣に並ぶはずもなく、オズワルド様は私の対面──とは言え斜め向かいの位置で下衣（パンツ）は見えない──に座り時折言葉少なに土地の説明をしてくれた。出来た人だ。怒りに任せて無視しても、この視察自体を放棄してもおかしくないのに。

　その優しい在りように彼に話すべきではなかった、と今更後悔し始める。「何故」と問われた答えとしてはあまりに身勝手過ぎた。ただ下衣を見るのが恥ずかしかった、とだけ伝えれば良かったのかもしれない。あのとき頬を押しつけた背中の熱さに酔ってしまったか。自分の価値観を正当化するためだけに彼に打ち明け、結果彼の誇りを傷つけた。こうなる、と分かっていたのに。

　決して交わることのない視線に、あぁ大切な友人を失ってしまったのだ、と、彼越しに見える昨日より薄い空に浮かぶ雲を見ていた。

　コテージから海沿いの道に戻り、南に向かうと森が見え始めた。この島の植生は椰子や南国の植物が大半だとおもっていたけれど、そこは日本の広葉樹に似た樹が見えた。

　間もなく到着し小さな小屋の前で荷台を降りた。そしてその揺れる木々の隙間から柔らかく差す木漏れ日をみたとき、私は懐かしさに溜まらなくなった。知らず足が向き、森に入ろうとしてオズワルド様に止められる。

「この場所はこの国の者にとって神聖な場所だ。勝手に入ってはいけない。……君はここの人間ではないようだからそれも不快だろうが、入るためには正装してもらわねばならない」

　哀しみで崩れ落ちるかと思った。それほど彼の声は刺々しく、悪意に満ちていた。私は既（すんで）のところでそれを堪えて彼を振り返り、「申し訳ありません」と頭を下げた。頭に降る「そこの小屋で着替えてくるといい」という声に肯き、衣装を受け取って歩き出す。家人さんが気遣わしげな視線を寄越したけれど、応える余裕はなかった。

　真白なゆったりとした裾のワンピースに着替える。私には少し大きくて胸元や腰回りが余り、古代ギリシアじみて見えた。外に出ればオズワルド様も真新しい白上衣（シャツ）と少し古ぼけた赤狭衣（ビキニ）になっていた。そうだ狭衣が正装だった、と思い返しながら彼の側まで歩いた。どうして新しい狭衣ではないのか不思議だ、と思いはしたけれど、昨日までは確かに戸惑いを持っていた彼の下衣姿に、今は僅かの感慨もなかった。

　森へ１歩入ると、まず空気が変わった。次いで、靴底の感覚。足を踏み入れる直前までは砂の多い乾燥した地面だったはずが、森の中は黒々と湿って豊かな土壌に一転していた。

　ここは、まるで……

　私は思わず立ち止まり、肌をまだらに染める木漏れ日の緑を見上げ、清浄で湿潤な懐かしい空気に深く息を吸い込んだ。そして気づけばその心地よさに目を瞑っていた。木々のざわめきに包まれる。

「マイ！」

　私はハッと目を開けた。オズワルド様が私を覗き込んでいる。「大丈夫か!?」と肩を掴まれ揺すぶられた。私はしばらく瞑想していたようだ。強い力に舌を噛みそうになりながら「大丈夫です」と答えた。数瞬絡まる視線。苦しそうに歪むオリーブの瞳。唐突に手が離れた。

「ぼうっとするな。神聖な場所だ」

　突き飛ばすような解放によろけながら、慌ててその背を追いかけた。樹を避けながら先へ進みかすかに涼しい風を感じるようになった頃、オズワルド様がかき分けた茂みの奥に深い青の水面が出現した。

　サァ、と風が吹き渡り底の見えない青い水面に漣（さざなみ）が立った。神聖、と言われる理由が分かった。この森は島の気候や地質と全く違う場所だ。空気が違う。湿った涼しさ、日本で言うところのマイナスイオンのような。

　湖畔に出ると近くに桟橋があり、小さな祭壇が設けられているのが見えた。ほとんど整備されいない湖岸を歩く。草や芦が行く手を阻んでマキシ丈を引き摺る私はすぐにくたびれ、汗を拭いながらの行軍になった。先を行く家人さんとオズワルド様が草を倒して進んでいることを考えれば、大変さは比ではないのだけれど。

　と、オズワルド様の背中が間近になって、俯きながら進む私の視界に赤狭衣（ビキニ）が迫った。後ろ姿は短衣（ブリーフ）とそれほど変わらないようだ。そして普段の短衣と同じで、正装用の狭衣も彼には少しキツそうに見えるのは何故だろう。縫い目は新しいようなのに、と息を乱しながらぼんやり思考していると、突然彼が振り返った。

「遅過ぎる」

「申し訳ありません」

　私が不甲斐なさに項垂れて謝罪すると、苛立ったような舌打ちが降り手首を掴まれた。「ぁ」と声を上げたときには担ぎ上げられていて、私は必死に彼の肩を掴んで上半身を支えなければならなかった。「オズワルド様！」「黙れ。雲行きが怪しい。急いでいる」両脚を強く抱えられ、太腿の手の感触が殊更混乱を誘う。スカートはめくれていないだろうか、足は土で汚れているのに。触れる手の形に酷く汗ばむ。懸命に振り向けば、濃茶色の頭の先、桟橋の揺れるのが見えた。

　桟橋の上では風が渡っており私の汗を急激に冷やした。温暖な島では考えられないことだった。呼吸する度に濃密で清浄な空気を感じ、底の見えない湖面は澄み渡る青が私達を吸い込もうとするようだ。祭壇に辿り着くと、唐突にオズワルド様は何事か唱え始めた。浮桟橋であったために、慣れない私は立っていられず未だ彼の腕に掴まったままで。

　唱える声はしっかり聞こえているのに、意味が通じない。この世界に来て初めてのことに、思わず彼の口元を凝視する。と、彼が不自然に眉を顰（ひそ）め「なんだあれは」と呟いた。湖面に何かが浮かんでいるようだ。ピンクの小さな布切れのような……。

「あれは」ゴム手袋だ。まさか。

　瞬間ざわり、風が不自然に吹き始めた。白い裾が風に翻（ひるがえ）り私は咄嗟にオズワルド様の腕を手放した。途端、傾（かし）ぐ体。風が背を突き飛ばすように、桟橋から押し出すように吹きつけた。「マイ！」私は崩れたバランスを取り戻せず水面に落ちた。

　足がつかない！　数瞬も浮かんでいられなかった。長い衣装が下へ下へと私を誘（いざな）う。足をばたつかせようにもスカートの裾が絡まって上昇できない。息が。手を伸ばしてももう水面は遠く沈んでいく。沈むほど暗い。苦しい、息が、もう、苦しい。遠くピンクのゴム手袋が逆光に透けて見えた。どうしてここに、どうして、あぁ。遂に水が鼻から口から喉へ気管へ入り込んだ。咳き込むのも数瞬で、全身に水が行き渡る感覚。沈む、吸う真似、水、吐く息はなく、ただ沈んでいく、僅か目頭に熱、腕も脚も力が抜ける。

　――ただ揺らぎ薄れる意識に目を瞑りかけたとき、突然カッ！　と、陽が差したように目蓋が明るくなった。眩しい光に立ち昇る細かな気泡が溶けていく。あぁ死ぬんだ、と何処かで思いながらその光景を見ていたら、光がどんどん近づいてきた。目が灼けるほどの虹色の輝き。あぁあのときの、と今度こそ薄れる意識の中で、強く手首を掴まれた気がした。

　気がついたとき、虹色に光る狭衣（ビキニ）が視界を占領していた。あまりの眩しさにひゅ、と咳き込んでしまい吐き出した水や涙で顔中を汚す。呼吸が楽になると今度は悪寒に耐えきれず、震えが走った。衣装が体に張りついて煩わしく酷く寒い。あぁ、と私は声を漏らしたようだった。「マイ！　大丈夫か!?」と、オズワルド様の声がしたけれど、私に応える余裕はなくただ歯を食いしばって身を縮込ませた。「マイ、移動するぞ」と聞こえた瞬間、重力に逆らう感覚に襲われ知らず唸り声を上げた。

　もはやどのように抱えられたのか分からないけれど、私は何処かへ運ばれ、次に目を覚ましたときには朝発ったはずの海のコテージの部屋に寝かされていた。発熱しているのか汗みどろの気持ち悪さに視線を動かすと、ベッドサイドにオズワルド様が腰掛けていた。膝小僧の形でそれを認識したはいいものの、黒中衣（トランクス）を身に着けた彼の下衣の奥の深淵を目撃してしまい、私は衝撃のまま再び眠りに落ちた。

　続く