灰色中衣の看病→パンツの国の視察(森の集落)

 顔や首回りを清められる感覚に私は目を覚ました。仰向けで開けた目にはオズワルド様が私に手拭いを向けて覗き込む姿が映ったけれど、まだ視界は何処か水に浸食されているように揺れて見えた。

「マイ、気がついたか。待て、今水を」

 オズワルド様はそう言って、すぐに私を支え少しばかり起こすと水を飲ませた。喉がひりついて水分を欲しているのに、あの溺れた苦しみが目蓋に甦ってしまい私は途中でせた。げほごほ、と咳をする間、彼は背を撫でてくれた。そうしてようやく落ち着くと再び横たえられた。

 汗ばんだ額を撫でられる。優しい仕草。彼は私に激怒し嫌悪し、目も合わせてくれなかったのではなかったか。浮かんだ疑問に、撫でられるまま身じろぎした。手が止まった。「すまなかった」と、離れる手。遠ざかるような空気。嫌だ。行かないで。

「オズワルド、さま……」

 呼んだ名は思ったよりも掠れ、舌足らずに響いた。体が怠くて姿勢を変えられず、馬鹿みたいに首を動かした。火照った頬にかすか風が届いて肩に手が触れる。彼は戻って来てくれた。あやすように撫でられる。服越しでも彼の冷えた手にゾクリ、と震えが走りそこからまた熱が広がっていくよう。私ははぁ、と息を吐き出した。

 「苦しいのか」と柔らかなテノールが側で囁いたのに首を振って応える。近くにいるのに彼が見えない。それが酷く不安でまた彼を呼ぶ。

「オズワルドさま」

 けれど何て言っていいか分からない。顔を見てどうすると言うのか。指の先まで沸騰するようで考えがまとまらない。大きな手が撫でるのを止めて肩口を包んだ。

「マイ、眠るんだ。酷い熱だ」

 そうか熱が、と自覚した途端、脚はベッドにめり込むように重く軋んで痛む。胸か腹か、頭からか沸き続けていた熱さに歯を食いしばった。どろ、と目尻からぬるま湯がこぼれた。僅か彼の方に傾いたこめかみが濡れ続ける。寝ているのに目眩がして身を縮めたくなった。けれど私はそれ以上に、込み上げる何かの不安を堪えきれず熱さに震えながら彼の方に手を伸ばした。

「マイ、泣かないでくれ」

 火が灯るような私の指に、彼の長い指が絡まった。

「泣かないでくれ、すまなかった」


 それから二日掛けてようやく私の熱は下がった。けれどそれは視察に出掛けてから五日目の朝のことで、オズワルド様は「もう帰らねばならない」と私につむじを見せながら柔らかく手を包んだ。曇りの白っぽい朝陽が彼の顔色を悪く見せていた。床を払うには不安はあっても、トップオブパンツ領主様としての職務を放り投げて私の看病を優先した彼には感謝しかない。それに熱のお陰で、決裂したかと思われた私達の間には目を合わせて会話するくらいの交流が戻った。私は心配に細まったオリーブ色に肯き「お手を煩わせて申し訳ありませんでした」と頭を下げた。

「予定していた森近くの集落に立ち寄る。視察は中止と知らせたが来ないと困るの一点張りなのだ。明日の昼までには必ず邸に戻らなければならないので少し急ぐ。荷台に揺られるのは辛いだろうが、耐えて欲しい」

 そうだ視察は私がしなければならない仕事だった。では私だけ行きますからオズワルド様はお帰りになって、と提案したが手を強く握られて受け入れてもらえなかった。

「君は周辺の土地が見られればいいだろう。集落には私が顔を出すので、君は荷台で暖かくして待っていなさい」

 そう言う彼の配慮に私は再び頭を下げ、私達は昼過ぎに再び森を目指した。荷台ではほとんど彼に抱えられるようにして座り、不可抗力と図々しくも彼に体重を掛けた。――僅かの息苦しさを隠して。

 けれど結局その小さな集落に着く頃、私達は雨に降られそこに逗留せねばならなくなった。


「オズワルド様、待ってましたぞ! おや珍しい灰色中衣トランクスとは、何かの余興ですかな!」

 恰幅の良いおさが大きな紫の中衣をひらめかせた。デカパンだ。ここ数日オズワルド様と家人さんにしか会わなかったので、紫や緑の下衣パンツは目の覚めるような心地をもたらした。そうだった、ここはパンツの国だった。私はふらつきを感じつつ姿勢を正した。

「もてなしの準備が整ってますのでこちらへ!」

 私達は集落の奥の、一際大きなコテージに案内された。集落は素朴な木造りの平屋の住居が五、六軒建ち並ぶ本当に規模の小さな集落。広葉樹の森にほど近くとも地面は完全に南国のそれで、住居に使われている木材も椰子に似た木材を使っていた。どの家も低い平屋でテレビの特集で見たことのある原住民部族の集落を彷彿とさせた。しかし文明は島同様なので不潔な雰囲気はなく、むしろワイルドなリゾート地と言ったところだ。外は既に雨は煙るほど地面を打ちつけ、濃い緑の匂いが立ち込めていた。

 案内されたここは完全に客人用らしく、生活感のない広間と寝室らしき個室が奥に見えた。

「生憎の雨ですが、これもエーミル様のご意志だ! さぁオズワルド様に酒を」

 私達は酒を勧められたけれどオズワルド様は断り続け、長も不承不承肯いて食事が進行した。オズワルド様のお邸でも見ない豪勢なご馳走が並んだ。肉も魚も所狭しとテーブルを埋める。私はまだ食欲が戻っていなかったので、何かの甘い果汁を飲みながら話を聞いていた。

「祭りにはどれほど島外から集まりそうですかな」

「恐らくかなりの人出になるだろう。他の島の領主も臨時船を出す、と言っていた」

「おぉでは森の儀式も全てのトップオブパンツ領主様が」

「あぁ生誕二百年は参加せねば、とのことだ」

 ぐ、と噎せそうになってしまった。分かってはいたけれどかなりの大事のようだ。二人は酒を飲みながら儀式のための森の整備──草刈りや一部伐採──を相談し始めた。熱を出している場合ではなかった、と私は口内を噛んだ。

 そうだ、体調なんて構わない。視察をきちんとこなしたい、とオズワルド様にお願いしなければ。本来なら、この集落で一泊し、東の荒れ地を通り最終日は港周辺を見る予定だったはずだ。特に港は今聞いた臨時船が停泊することを考えれば、イベントや各企画への誘導も必要になる。早く大枠を決めなければ、と居ても立ってもいられなくなり、オズワルド様に視線を向けた。

 このとき私と彼は、自然のままの楕円のテーブルに席に隣同士で席に着いていたけれど、それは手を伸ばしても届かない距離。長もまさか顔色の悪い女が視察しに来た本人とは思わなかったのだろう、私は家人さんとの方が距離が近い。彼のすぐ隣には長、対面には長の娘が囲んでおり賑やかな談笑が続いている。

 私はオズワルド様に話し掛けたい気持ちを押し込めて、家人さんに顔を向けた。「私、ちょっと外の空気を」吸ってきたい、と言い掛けたとき、「マイどうした」とオズワルド様から声が飛んで来た。驚いてそちらを見れば、眉をしかめた──恐らく心配で──彼と、ポカンとした長、そして面白くなさそうな娘さんが一斉にこちらを見ていた。

「いえ、ちょっと離席させていただきたい、と……」

「具合が悪いのか」

 ガタ、とオズワルド様が立ち上がって私の席まで歩み寄った。そしてごく自然に額に触れ、熱を計ったようだ。そんな人前で、と娘さんの刺さるような視線を感じながら額から頬に滑り降りた手に知らず目を瞑った。

「もし具合が悪いんでしたら、そこの部屋を使って下さい」

 長が喜色満面で言った。私よりも先にオズワルド様が肯き、そこへ促す。先ほど眺めた個室の一つだ。私は皆に礼をし逃げるようにそこへ入った。

 

 個室は窓が開かれていて、森近くのせいか少々寒気をもよおした。私は窓を少し閉じ、真新しいシーツの上に転がった。頭が着地した途端ぐらり、と目眩が起こり一気に目蓋が閉じた。休んでみれば薄ら吐き気がして、窓から漏れ聞こえる雨音が眠気を誘った。談笑の声も時折くぐもって聞こえる。

 あぁ企画のことを考えたいのに。仕事をしなければ。オズワルド様に視察の継続を願い出なければ、誰か他の家人さんでもいい、とにかく見に、とにかく……。

 けれど強い雨音と娘さんの楽しげな声が目眩と吐き気を混ぜるようだ。

 私は間もなく寝てしまった。


 何かがぶつかるような鈍い音がして、私はハッと目を覚ました。隣室だろうか断続的に音がする。寝過ごしてしまったのか辺りはもう真っ暗で窓は内側から閉じられ、私の体には掛布が掛かっていた。皆もう寝たのだろうか、と起き上がろうとしたとき『オズワルドさまぁ!』と甲高い声が聞こえた。隣室だ。壁越しだからかくぐもってはいるけれど確かに話し声がする。時折娘さんだろうか、泣くような声。オズワルド様も一緒なのか。こんな夜に? そこまで考え、息が止まった。

 ……ここには、いられない。

 人の情事を覗き聞く趣味はない。違う、あぁ嫌だ。

 ベッドから降りサンダルを足で探って履いた。真っ暗なので入り口までの距離感が分からないけれど、手を伸ばし入って来たはずの方へ歩く。じゃり、と靴底で砂が擦れる音にだんだん激しくなる物音が重なる。嫌だ、早く何処かへ。聞きたくない。はく、と息が途切れる。胸に針金を詰められたように痛くてまるで金属同士が擦れる不快な音が聞こえるようだった。

 と、ガタン! と乱暴にドアが開け放たれたような音と不規則で大きな足音。私は未だ虚空に手を晒したままで、その紛れもなくこの部屋に近づく音に恐怖して立ち竦む。誰かが、ドアの外側に激しく取り縋ったような再び激しい音が鳴り、次いで不自然な沈黙がおりた。緊張に唾を飲み込もうにも動悸が酷くて出来ない。怖かった。

 キィ、とかすかな夜の青が差し込んだ。

 私は丁度ドアの正面にいて、斜めに光が差し、白い上衣シャツの袖が恐る恐るというように入り込むのをつぶさに見ていた。彼が全身を滑り込ませたとき、膝を笑わせながら直立したままの私は遂に、「オズワルド様……」と囁いた。

 静寂の中響いた私の声に、彼はギクリと身を強張らせる。僅かな光が彼の破れ乱れた上衣を照らしていた。



 続く

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