赤の躍動→パンツについて語る

 夜になり、海岸沿いの岩場に隠れるように建てられたこぢんまりとしたコテージに泊まった。居間からは夜の波の音が聞こえるほど、海に近い。

「とっても素敵でした。私、海に沈む夕陽を見たのは初めてで……まるで太陽が溶けるようでした」

 オズワルド様は「それは良かった」と微笑んだ。二人で穏やかに夕食をとり終え、お茶を頂きながら会議を始めたところだ。

「海岸沿いは例年通り露天を出して素晴らしい夕陽や砂浜を開放したいですね。できれば砂浜でビーチバレーのようなスポーツが出来ればいいのですが」

「あぁ、素潜り勝負は別にしても、海沿いの露天は好評だから、皆も楽しみにしていると思う。だがその、ビーチバレー、とはどういったモノなのだ?」

 私は少し思案して「以前話したボールを使うのですが」と言いながら、家人さんに手拭いを二枚もらって即席の鞠を作った。オズワルド様は興味深そうに私の手元を眺めるので、少々くすぐったい。そしてそれが出来上がると、「こうやって」と言いながら立ち上がり、宙へ投げ上げてサーブをしてみせる。単純な布なので、ぽぉーん、とのんびり飛んでいっただけだけれど、オズワルド様は充分驚いたらしい。

「おぉ!」

 オズワルド様は目を丸くして飛んでいった鞠をおっかなびっくり拾いに行った。ちなみに彼は赤短衣ブリーフ──やはりこちらが落ち着く、と私にパァンとして見せた──に着替えている。コテージの居間は広々として柔らかな鞠であれば、飛ばしても余裕の広さだ。彼は興奮したようにオリーブ色を煌めかせて「も、もう1度してみせてくれないか」と言いながら私にそれを手渡す。犬のようだ。

 私はバレーが上手い訳ではないけれど彼の子どものような瞳に可笑しくなって再びサーブした。すると、手元が狂ってしまいあらぬ方へ飛んでしまった。「あ」と私は声を上げる。けれどそこにオズワルド様が、まるでフリスビーで遊ぶ大型犬の如く空中で鞠をキャッチ。赤の躍動。「すごい!」と手を鳴らしたまでは良かったけれど、瞬間ズダダン! と置かれていた飾り棚をなぎ倒し彼も床に転がった。

「オズワルド様! 大丈夫ですか!?」

 私はさすがに青ざめて駆け寄った。けれど彼はすぐにガバ、と起き上がり、誇らしげに鞠を掲げて晴れやかな笑顔を見せた。

「大丈夫だ! ボール、とは面白いな!」

 ドキリ、とした。きらきらとした瞳が昼間の海の輝きのようで眩しい。オズワルド様は動きを止めた私を余所に「もう一度だ!」と、私の手にを無造作に掴み鞠を手渡した。私は、何故鼓動が跳ねたのか、理解せぬうちに手に触れられた混乱で酷く手を払って身を引いてしまった。彼の人肌が手のひらに焼け付くような感覚を残していて、咄嗟に片方の手でさすった。

 ほと、と鞠が乾いた音を立てたようだった。しん、と静寂に沈む空気。私はハッとして彼を振り向いた。

「すみませ」

 ん、は飲み込んでしまった。オズワルド様の晴れやかだったオリーブが深い色に翳っていたからだ。彼は私と目が合うと苦しげにキツく眉を寄せ、目を閉じた。眉間に深い皺が刻まれた。

「マイは……何故私を避ける」

 項垂れた顔をはらり、と下ろした髪が隠した。私は「避ける、なんて……」と声を絞り出した。避けたことなどない。思い当たりもしなかった。床に座ったままの彼を上手く息ができぬまま見つめる。

「いや、君はいつもそうだった。私が近づくと目を逸らす。必ず。……だが、今日は違ったと……」

 ため息に溶けるような震える声。

 「勘違いだったようだ」とオズワルド様はゆるゆると首を振ると、髪の隙間から私をじ、と見た。

 違う、避けてなんて……! それは下衣が、貴方から目を逸らした訳じゃない、と、言葉が胸や頭や顔中をかき混ぜるように巡るのに、満足に喉が開かない。

「そんな……こと、は」

「じゃあ何故! 俺が嫌ならそう言えばいい、さぁ言ってくれ……!」

 目眩がした。彼は否定せよといいながら、私への好意を叫んでいる。彼に応えられないなら、嫌と言わなければならない。だけどそんな嘘は……。嫌じゃない。嫌な訳が、ない。

 そう私が逡巡する間に、彼は諦めたように首を振り、手で顔を覆いゆらりと立ち上がった。赤短衣を間近に私は思わず「ぁ」と怯えたような声を発してしまい、その響きの残酷さにまた喉が詰まった。泣きそうだ。

「……すまない。もう、私は夜の内に邸に戻る……君の側にいない方がいいようだ」

 はたり、蹴られた鞠の転がる音。遠くで動かなくなった。私も鞠も動けない。どんどん遠ざかるオズワルド様。取り残されていく。、私は取り残されてしまう……!

「嫌!」

 叫んだ声にビク、と彼の背中が震え小さく「すまない」と言った。私は「違う、違うの」と子どものように駆け出してその背中に手を伸ばした。彼にぶつかる。

 頬に触れた上衣、次いで移る体温、服越しに胸に触れた背中の感触、掴んだ上衣の頼りなさ、そしてこんなにも広い、熱いという感慨。抱擁というには稚拙な、ただぶつかるだけの代物に彼はただ身を固くしていた。あぁ涙で上衣シャツを濡らしてしまった。

「オズワルド様、嫌じゃないんです。貴方を嫌だなんて思ってないの……!」

 ぐ、と更に強張る体に、私は無理やり頬を押しつけた。彼の背中も私の頬もただ熱い。

 間を置いて「では、何故」と消え入りそうな声と振り向こうとする気配があった。捻れる背中に私は咄嗟、離れなければと、くっつけていた体も上衣を掴んでいた手を緩めた。そして密着して蒸れるような空気に隙間を作ったとき、唐突に腕を取られた。「離れるな」と引っ張られ、彼に被さられるように両肩を掴まれる。「何故だ」ぐい、と寄せられた額。至近距離で覗き込む瞳に私は観念して目を閉じた。

「お話しします、オズワルド様。私が何処から来たのか……全てを」

 あぁ、と涙が溢れた。


 私達は外に置かれた籐で編んだようなベンチに並んで腰掛けた。まるで日本と同じ月が海に浮かんでいた。ザザ、と波から吹く風が頬を引き攣らせるように乾かす。

「私は、ここと異なる世界から来ました」

 オズワルド様がゆっくりとこちらを向く気配。頭がおかしいと思われるかもしれない。いやでも、もう話すと決めたのだ。

 私は一度も彼を見ずに話し続けた。庭に赤狭衣ビキニが落ちていたこと、それを捨てようと思って拾い上げたこと、その瞬間この世界に来ていたこと。初めは必死でただ慣れようとしたこと、不条理さに泣いたこと、それをオズワルド様に少しだけ話したこと、ここで生きていく決意が決まったこと。

 引っ越しをして女将さんに出会って、仕事をして元気になっていったこと、時折お邸の庭を眺めていたこと、この世界に本当に慣れていったこと。夫を、自宅を思い出して泣くことが減ったこと。そして、私達の世界の習慣や常識。

「……オズワルド様から目を逸らしていたのではありません。私の世界では、人前で下衣のみで過ごす習慣がありません。むしろ、それは罪になってしまうこともあるのです」

 彼が身じろぎした。

「下衣一枚で外に出るのは……恥ずかしいことです。私の国の男性は、必ずこちらの世界の下衣の上に長衣の裾をくるぶしまで伸ばした、ズボンという衣服を履きます。私達は下衣を晒すのは迷惑なことと子どもの頃から教えられて育つのです。ですから……私は初め下衣姿の男性を直視できませんでした。誰だってです。恥ずかしく思ってしまうのです」

「では、今日、は」

 掠れた声が波の合間に震えて届いた。

「暗い色の長衣ほどの長さのズボンなら、スポーツをするときには私の国の男性も身に着けますし、職場で見慣れて来ていましたから。もう恥ずかしく感じることも減っていました。もちろん私の国にも短衣ブリーフのように短いズボンも、ぁ……オズワルド様」

 ベンチが軋み彼が立ったことが分かった。月明かりに僅か彼の頬が光っていた。息が止まった。

「そんな、そんな馬鹿げた話は信じられない!」

 いつもは心地よく鼓膜を震わすテノールは苛烈な怒りを放っていた。私は思わず手を伸ばして彼に触れようとした。けれど彼は避けるように素早く背を向けた。

「よくもそんな嘘を!……私を嫌だと言えばそれで済む話を! エーミル様に導かれたと言った口で下衣姿を恥ずかしいなどと……!」

 オズワルド様はぐぅ、と肩を怒らせたまましばらく硬く項垂れ、顔を上げた。そして「残念だ、マイ」と言い捨て屋内へ入っていった。

 あぁ。

 私は私の踏みにじったこの国の誇りを、彼の怒りを思ってただ目を瞑った。そして、そうだとしても話したことに後悔はない、とゆっくり目を開けたときには、月が大きく傾いていて、波間に長く伸びる影が彼の涙を思い出させた。



 続く

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