第14話「沼」

 誰もが沼という言葉を聞けば、この光景を想像するようないかにもという大きな沼を前にして、私とクレメントの二人は佇んでいた。


 真ん中辺りに小さく浮き島となっている部分があるんだけど、グウィネスの話では必要な薬草はあの場所に繁殖するらしい。辿り着くにはねっとりとして見える黒い泥に埋もれながら、沼の中を歩いて進むしかない。


「……俺が、一人で取りに行ってくるから。ディアーヌは、ここに居てくれ」


 騎士道に則り、クレメントはそう申し出た。都会育ちの私は、こんな何が居るかも見ることの出来ない沼を見るのはこれが初めてだし。完全に尻込みして居たのは、確かだ。


 こくんと一度頷いたのを確認し、クレメントは短い外套を脱ぎ、それを何故か私に渡した。


 無言で押されるようにされたので、それを両手で受け取り、もう恋人でもないのになんでという目でクレメントを見上げると彼は面白くなさそうな顔をしている。


「何?」


「なんでもない」


 クレメントが仏頂面をしてこう言うときは、大概は何かあるんだけど。もう彼の恋人でもない私には、それを追求する理由も特に見当たらない。暗黙のご指示通りに、黙ることにする。


 どろりした黒い泥の中に、彼は頓着なく足を踏み入れた。そして躊躇うことなく、どんどんと先へと進む。


 歩きにくそうだと思うくらい膝辺りまで泥に浸かっても、クレメントは歩く速度を変えなかった。その事に、なんだか自分でも表現しがたい気持ちにはなった。


 私には、とてもあれは出来ないと思う。


 全く中の状態を見ることの出来ない泥の中には、一体何が潜んでいるのかとか。そんな余計な事を考えて、それが無意味なことだと解りつつも、恐る恐るジリジリと進むことになると思う。


 でも、我が事でなく冷静に考えてみれば、彼のようにスタスタと進むのが一番良いように思う。だって、何があったとしても歩みを止めずに進むしかないなら、一番の最短距離を躊躇いなく進むのが、絶対時間は掛からない。


 けれど、それがわかっていても、実行出来るかはもちろん別で。


 クレメントの余り考えない性格が功を奏しているのか、厳しい騎士の訓練の賜物なのかはわからないけど。とにかく、これで私たちの目的は果たされそうだとほっと安心して息をつく。


 でも、事はそうそう簡単に上手くいくはずもなかった。


 いきなり大きな蛇のような魔物が何匹も沼の中から現れて、クレメントの前に立ちはだかった。彼はそれが泥の中から現れても特に動揺することもなく、これまで森を抜けて来た時に魔物が現れた時のように剣を抜いた。そして、素早く魔法を使い炎の球を蛇相手に放ち始めた。


 そこまでは良かった。


 クレメントが魔物相手にする時に先手を取り攻撃を開始するのは、見るだけの私だってこれまで幾度も目にしてきた。でも、私たちが目的としている浮き島に偶然火球がひとつ落ちて、消えることなく燻っている。


「ふえっ……」


 今にも起こりそうな悲劇が頭を掠め、沼のほとりに立っていた私は、思わず素っ頓狂な間抜けな声を出してしまった。


 戦闘中のクレメントは、目の前の複数の魔物に集中しているせいか。先ほど自分の放った火球が、私たちが目的としている薬草がある浮き島に落ちたことに全く気がついていない。


 一瞬、考えた。大声を出して、彼に知らせて何とかしてもらう? ううん。複数相手に一人で戦っている彼に、そんな事をすれば……もしかしたら、大変なことになるかも。


 これはまずいと思った時には、もう私は自分自身がさっき「とても入るのは無理そう」と思っていた沼へと勢いよく入り、落ちた火球が未だ燻り細く白い煙も出出した浮き島へと遅い歩みながらも必死で進んでいた。


 クレメントが膝辺りまで埋まっているということは、私は腿半分まで埋まる。彼だってこんな理由で褒められても微妙だろうけど、長い足を持っているのは本当に羨ましい。


「っ……ディアーヌ!? なんで、お前こんなところに! 危険だから、早く出ろよ!!」


 戦闘中に私に気がついて驚きの大きな声をあげたクレメントは、完全に無視だ。私はもう、ランスロットを治すのに必要だという薬草が火に焼けてしまわないかと……それだけが心配で。


 重たい泥に埋もれ、掻き分け。ゆっくりと進んだ先で、私はグウィネスに言われていた通りの紫色の薬草を見つけた。ほっと息をついて、燃えてしまうのは大丈夫そうだけど、近くにある火種だけは消そうと私は振り返った。


 顔のすぐ間近にある、大きな蛇の顔は凶悪だった。


 瞬間、大きな声を出したかもしれない。わからない。


 でも、私が咄嗟に何かする前に、その首は緑の血飛沫をあげて飛んでいった。空に高さを持って飛んだ首をぽかんとして見上げる私に、クレメントは大きな声で怒鳴った。


「ディアーヌ! お前。今、死ぬところだったんだぞ!! なんで、こんなところに来たんだよ!!」


 私は彼の大声を聞いて、驚いて目を見開いた。クレメントは付き合っている時、小さな喧嘩になったとしても、こんな風にして怒鳴ることなんて……なかったから。


 ぽろりと涙が溢れたのは、不可抗力だ。


 別に彼に怒鳴られた事自体が悲しかった訳ではなくて、薬草が無事でほっとして……あと凶悪な蛇の顔には、本当に驚いたから。


 でも、クレメントはそう思わなかったのかもしれない。私を付き合った時のように、ぎゅうっと抱き締めた。その行為に対する余りの驚きに、それをすぐさま拒否することが出来なかったのは仕方ない。どうか、許して欲しい。


 元彼クレメントの匂いは、当たり前のことだけどそれに慣れ親しんでいた頃のそのままだった。


「ディアーヌ……ごめん」


「……はなして」


「ごめん……俺が使った火を、危険を承知で消しに来たんだな」


 その言葉を聞いて、クレメントも私がそうしようとした状況を把握したんだと知れた。だからって、この体勢はおかしいと思う。


 私たち、関係上は他人だし。なんなら、目的を果たして、早く帰ってランスロットに会いたい。


「そうだけど……もう、良いから。離して。色々連続したから、驚いただけなの」


 間近に迫ったクレメントの顔は、物言いたげだ。整った凛々しい顔立ち。それが好きで好きで、堪らなかったこともあった。今はもう、何もかもが過去の話だけど。


「な……やっぱり」


「嫌。言ったでしょう。もう、騙されないって」


 私が腕をつっぱらせて強めにそう言い切ると、彼は眉根を寄せて大きく息をついた。


「……悪かった」


 それは、熱くなりやすい彼なりに、色んな意味を含んでいた謝罪なのかもしれないとは思った。


 もし、それが気になるなら、追求する事は容易いだろう。彼が何か言いたそうなのは、良く分かった。でも、私はそれに気がつかない振りをした。


 だって。私たち、もう別れているから。他人だし。



◇◆◇



「はー……えらい格好になったね」


 扉を開けたグウィネスは、泥だらけになっている私とクレメントを見て苦笑した。彼女はクレメントに無言で渡された紫色の薬草を、矯めつ眇めつ。私は訳もなく、落ち着かない気分にはなった。


 それで良いのか、どうなのか。早く、結論を教えて欲しい。


「どう……ですか?」


 気の短いクレメントが、私の疑問をグウィネスに聞いてくれた。若干、敬語が出てこなかったのも、彼らしいと言えば彼らしい。


「良いね。新鮮だし。今から調合する用意するから、二人とも風呂に入って着替えでもしたらどうだい。一応ボールドウィンさんには、着替えを用意していたんだが。そちらの女の子にも必要になるとは思わなかったねぇ」


「ご迷惑をおかけして、すみません」


 私がぺこりと頭を下げると、グウィネスは微妙な表情になった。


「……この国の上流階級のご令嬢は、皆こんな感じなのかい? 調子が狂うねぇ」


「ディアーヌは……彼女は貴賤結婚の縁戚を持つので、身分に関しては普通の令嬢のように余り気にしません」


 クレメントは私の事情を、サラッとグウィネスに説明した。確かに私の父の弟で大好きなエリック叔父様は、大恋愛の末に貴族の身分を持ちつつ平民の叔母様と結婚した。優しくて美しくて、私は良く懐いている。エリック叔父様は複数の爵位を持っていたお祖父様の跡を継ぎ、現在はハクスリー男爵でもある。


 そうした意味で、私は余り血統主義に拘りを持ってはいないのかもしれない。


「はー……流石は、元彼だねぇ。詳しい事情に、精通していること。育ちの良いお嬢さん。余り綺麗な浴室とは言えないが、身体中泥で汚れているよりマシだろう。すぐにお風呂に入っておいで」


 いかにも私達二人の事情を面白がった様子のグウィネスはそう言って、私を物が溢れる家の中へと案内してくれた。

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