第15話「薬」

 これは彼女に知られれば失礼になるかもしれないけど、あまりにも沢山の物に溢れている魔女グウィネスの家の奥にあった小さな浴室は、私が想像していたより綺麗で清潔でほっと一安心した。


 来るまでに通り抜けてきた廊下などには、数えきれないくらいの古い書籍や良くわからない箱に入ったものなどが山積みされていて、本当に足の踏み場もないくらいだったから。どんな事になっているんだろうと不安を感じてしまったから。


 ここに案内をしてくれた後に、もう一度出て行ってすとんとした白いワンピースを貸してくれたグウィネスは、ぽつんと一人脱衣所で彼女を待っていた私に揶揄うようにして言った。


「……なんで、ボールドウィンさんと別れたんだい?」


「とても、個人的な事情なので」


 出来るだけ、素っ気なくそう言った。


 もうこれ以上、私たち二人の関係に深入りして欲しくないという強い気持ちを楽しげな様子の彼女に察して欲しくて。


 でも、好奇心に目を輝かせたグウィネスには、それは無理な事のようだった。


「向こうは、もう……未練たらたらって、様子だったけど?」


「別れを告げたのは、あの彼自身です。自由な恋愛は、二人の同意によるものだと思いますし、私は彼の意志を尊重します」


 そろそろ出て行って欲しい事を示すように泥に塗れた白いシャツのボタンを外しつつ肩を竦めると、複雑な表情になったグウィネスはどうしてだか残念そうに言った。


「私も好き同士だけど、何かの事情で別れなければならない二人はよく見て来たけどね。だって、二人はまだ……」


「あのっ……もう、出て行って貰って良いですか? 早く泥を流したいので」


 ここはグウィネスの家だからと、ある程度の我慢をしていたけれど、もうこちらは限界だと眉を寄せた私はそう言った。


 誰にも詳しい事情を話したくもないような、最低な恋の終わりだったのに。これ以上、関係のない誰かにどうこう言われることが耐え難かった。


「ああ。すまないね……悪かったよ。私も、東の地ソゼクを出る時は色々とあってね。それにしても……お節介が過ぎたね。ごめんね」


 切ない表情ですまなさそうに微笑んで、グウィネスは脱衣所をゆっくりと出て行った。もしかしたら、こんな辺鄙な地に一人で住まなければならない辛い事情を思い出させてしまったのかもしれない。


 でも……だからと言って、自分自身の叶わなかった恋と私達を重ねられても困る。


 最低な理由の始まりとひどい終わりだったと知れた後は、私とクレメントの甘かったはずの恋の記憶は、思い出すのも嫌なくらいに苦いものに成り果てた。


 黒い泥に塗れた身体を綺麗にして身体を拭き、私は簡単な作りの白いワンピースを着た。そうしている時に、トントンと扉を軽く叩く音がした。


「はい?」


「……悪い。まだだったか」


 扉の向こうに居るクレメントの、聞き慣れた低い声だ。私が浴室を使っていた間も、彼は泥塗れのままで待機していたんだった。慌てて長い髪を拭いていた布を置き、扉を開けた。


「ごめんなさい。遅くなって」


 背の高い彼は、なぜか難しい表情で目の前に居る私の顔を覗き込むようにした。


「……何?」


 彼の妙な動きを訝しむような私に、クレメントは淡々とした口調で言った。


「いいや。付き合っている間に、一回くらいヤっときゃ良かったって思っただけ」


 クレメントの真剣な赤い目は、彼の思いもよらなかった言葉を聞いて口をポカンと間抜けに開けたままの私を、まじまじと見つめている。


 私だって一応は貴族令嬢の端くれなので、初夜までは純潔な事が必須事項だ。だから、彼とはそういう意味で夜を過ごした事はなかった。元彼と言えど、キス止まりのとても健全なお付き合い。


「もうっ……本当に最低っ」


 私が両手をぎゅっと握りしめて睨みつけると、彼はフンと鼻を軽く鳴らして肩を竦めた。


「お前の言う通り……確かに、俺は最低だよ。だが。ランスロットだって、そうだと思わないか? お前を傷つけたくないからと、よくわからない理由でずっと俺の事を黙ったままでいたんだ。どうせ近い未来には、傷つく事になるんだ。それならお前にちゃんと話すべきだったと、そう思わないか?」


「それは! 私が、クレメントの事を好きに……なってて。だから……」


「そうだろうな。俺だって、王宮騎士団の筆頭騎士の一人で女に嫌われる風体でもない。デビュー直後の、無知で純情な令嬢を誑かすくらい訳もないよな。だが、あいつはそれを知っていて、一年も黙っていたんだ。惚れた女が騙された事を知っているのに、それなのに何も言わなかったんだ。俺のした事が罪なら、あいつだって立派な罪に当たるとは、思わないか? あいつは、お前を傷つけたくないんじゃなくて……」


 自分のしたことを棚に上げて、ランスロットを悪者にしようとしてる? 今更、一体何が言いたいのかわからなかった。そんな事、当事者である私が一番思っていて。自分で落とし所を見つけている話だと言うのに。


「もう。それで……気は済んでくれた? 私を遊び道具にしていたのは、貴方でしょう? ランスロットが怖かった気持ちが、私にはわかる。私だって、好きな人には好かれたくて……嫌われたくなくて。怖くて! 本当の自分を、押し殺していたの。バカみたいに言いたいことも、言えなくて。クレメントにつまらない女だと思われていたのは、もう知ってる。けど、あの時の私にはそうするしかないって思ってて……もう貴方を好きじゃない今なら。バカな事をしたってわかってるけど、好きだからこそ出来ないことがあるのを知っているの。だから、私は……ランスロットを決して責めないわ」


「ディアーヌ……」


「良いから。そこを退いて。ここを、出ていくから……貴方も、早く泥を落とした方が良いと思うわ。クレメント・ボールドウィン。ついでに、水でも被って頭でも冷やしたら? だって、私たち。別れているのよ。その後で誰を好きになったり付き合ったりするのは、私の自由なんだから。貴方はもう二度と、口出しをしないで」


「……悪かった」


 掠れた声でクレメントは呟き、ようやく扉の前から身体を動かした。私はもう、彼の事を見なかった。


 クレメントは、あの庭園であっさりと私に別れを告げ去って行ってしまった。あの時のみじめな気持ちを思い出す度に、どうしようもない切ない気持ちにはなる。


 たった一人に別れを告げられただけだと言うのに、まるで世界から味方がいなくなってしまうような……ぽっかりと胸に大きな黒い穴が空いているような気持ちを、彼は……一度でも味わったことがあるのだろうか。



◇◆◇



 そして身綺麗にした私たち二人が重い沈黙を守り、物で溢れている居間に座って待つこと数時間。グウィネスから渡された薬は、小さな小瓶に入っていた。それはとても美味しくなさそうな、毒々しい暗い紫色をしている。


「あの……私が来た理由って……」


 文字通り、ここに来ただけの気がするけどと首を傾げれば、グウィネスは苦笑した。


「ああ。お嬢さんを知っていることが、この薬を作る術者……つまり、私に必要だっただけだから。よかったね。早く飲ませてやんな。この森で移動魔法を使えないのは、私が術をかけているからでね。入り口までは、私が魔法で送ろう。それからは、騎士さんの魔法でいけるだろう?」


 グウィネスの言葉に、椅子から立ち上がっていたクレメントは無言で頷いた。どうやら、私たちは大変な思いをして抜けてきた森の復路を辿らなくて良くなりそう。


「ありがとうございます」


「私は、王太子様に頼まれた仕事をしただけだからね……お嬢さんも、悔いのない決断をするんだよ」


 こんな深い森に孤独に暮らす、美しい魔女。それは、色々と入り組んだ事情があるとは私にも察する事が出来る。グウィネスは、しっかりと握手をしてくれた。そして、すぐに吸い込まれるような感覚がして、私は森の入り口に立っていた。


 一瞬の内に変わった視界に慣れようと目を何回か瞬いている間に、すぐに移動して来たクレメントが隣に立った。


「……手を」


 私は差し出された大きな手を躊躇う事なく掴み、ほっと大きく息をついた。


 これで、私の気持ちや何もかもを失くしてしまっていたランスロットを、元に戻すことが出来ると安心したから。

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