第17話 悪人しかいないじゃないか

 そんな甘い話はない――。


 李とのアポが取れたという、水元から日引と中村の二人にあてたメールを目に、中村は嗤った。


 馬鹿だ。仕事を失ってまでして、金が目的でもないのに何故他人に尽くそうとするのか。人を見る目がなさすぎる。


 自分が空虚だからこそ、他人からの依頼の真意を峻別することなく無条件で受け入れてしまい、周囲に存在を認められたいがゆえ、目標を達成しようと動くのだ。


 中村は職場で営業報告書の作成を済ませると、トイレに行く素振りをして給湯室に入り野口に電話をした。日は暮れかかっていた。


「あの、また情報料いただいてもいいですか?」

「今度はどんな情報だ?」

「響工業の件ですけど」


 中村は日引社長と水元、奈美を交えた昨晩の居酒屋におけるやり取りと、その後の水元の行動の結果について、野口の耳に入れた。


「ご苦労さん」

「恥ずかしい限りですが、消費者金融で借りたカネの返済日、2日後に迫っているんですけど」

「明日受付に受け取りに来ればいいよ。今回は弾んでおくから」


 野口は、そのまま美空銀行の幹部に電話を掛けた。


「日引がどうも、台湾の投資法人と接触するようです」


 幹部は驚きを隠さなかった。すぐに折り返えす、と伝え電話を切って数分後、野口の携帯電話が鳴った。銀行として、響工業に対する融資を回収する方針を伝えた。


 李が運営するのは投資顧問だ。実際に出資するのは彼のパートナーである別の投資法人である。野口は投資顧問ではなく、投資法人と伝えた。


 簿外債務の増大など何らかの切羽詰まった状況があるのではないか。美空銀行はそう判断したのである。


 野口は咄嗟に切り返した。


「穏やかじゃないね。響工業を潰したら、東京電工が困るじゃないの。お宅がそういう方針なら仕方ないけれども、ちょっと聞いてほしい提案があるんだよね」


 中村はデスクに戻った。事務所に残るのは、彼と所長のみだ。


 卓上カレンダーを見ると、中村は嘆息した。経営難の業界紙の給与水準は低く、ここ数年間はボーナスがない。旧友の結婚式への出席などできっこない。それでも年に数回は、実家のある盛岡で法事があり、帰省せねばならない。


 彼には借金をするより他はなかった。気が付けば毎月の返済額は給与の半分以上を超えていた。


 上司と幾度も衝突を繰り返し、溜りに溜まったストレスを酒や性風俗で解消し続けてきたたことも、家計の悪化に拍車をかけた(実はこれが一番の問題なのだ)。


 スーツや靴を新調できない中村の容姿、生活習慣上の問題などを、上司は事細かく指摘し、改善するように求めてきた。営業で長年のキャリアを積んだ中村にとって、そうした上司の小言は、聞き流すのが最善な対処法ということを頭では分かっていた。だが、リーマン・ショック後の不況下にあって、数字を出せない中村に対し、上司の注意は棘を増すようになった。 


 所長から、このままでは営業現場から退いてもらうと宣告されたのは、ちょうど塩津社長が他界した頃だった。


 以来、食事が喉を通らぬ日々が続いた。しばらくして希望退職の募集も始まった。

 営業を外されたら自分はどこに飛ばされるのだろう、そうした不安が常に付きまとうなか、藁をもつかむ思いで、通夜の際に名を知った投資育成組合共同代表の野口に、駄目で元々だと電話を掛けた。


 野口なら、創業して間もないベンチャーなど、新たな広告出稿主を紹介してくれるかもしれない。そう思った。


 実際に野口は協力を惜しまなかった。が、見返りとして中村に対し、管轄エリアの企業情報を都度、知らせるように求めたのである。


 十分な対価を支払うから、という一言に中村は全身の緊張が解きほぐれるような心地がした。


 情報料の授受にとどまらない。中村が請け負った仕事は多岐に渡った。支局管内の顧客リストの提供から、自身が所属する業界紙の人事や社内事情の報告などが当たる。そうした行為が彼の会社人生を危うくする可能性があるという点では水元と共通していた。


 中村が金に窮しているのを悟った野口は、肉体的・精神的な負担を強いる業務を彼に依頼した。それは野口を取り巻く人間の身辺調査だった。


 まず、響工業の株主である塩津美千代やフミの日常に変化がないかどうか、定期的に視察に向かわせた。業務に支障がない範囲で美千代の家に足を運ばせ、行動記録をとらせることにした。水道メーターの使用量、郵便受けの中身、集積所に出しされたゴミ袋の確認など、興信所さながらの行為を中村に命じ、それなりの報酬を与えた。野口にとっては、信用力に乏しい興信所に頼むよりも安心だった。


 彼女ら以外にも、身辺調査の対象はいた。ほとんどは中村と面識のない人間ばかりだったが、例外がいる。水元だ。


 響工業で野口は水元と初めて対面した際、塩津社長の一件について野口自身は「喋りすぎた」。彼に言わせれば、「あえて喋りすぎた」のだが、口外を避けるべき内容も含まれていたのもあり、リスク管理が求められることとなった。


「時間があれば、水元の自宅と交友関係を突き止めてくれないか」


 成功報酬として最大4万円の支給が約束された。残業代の出ない職場にいる中村にとって、魅力的に映った。


 G社の正門を出る水元の背中を追い、武蔵小金井のアパートの場所と部屋番号を突き止めるまで、そう長く時間はかからなかった。オートロックがなく、部屋の玄関ドアが道路から見えるアパートの近くで、中村は携帯電話を動画撮影モードにし、遠目で水元が部屋の中に消える様子を証拠として収めてから、住所を本文に記したメールを野口に送信した。すると、早速、投資育成組合のオフィスまで報酬を受け取りに来てほしい、という旨の返信が来た。


 中村は自分の行為が道義上適切なものではないと思いつつ、やはりキャッシュフローに余裕が生まれたのを喜んだ。ただ交友関係は、掴めずにいた。


 水元には上司に小沢がいる。野口は小沢には顧客リストの提供などを求めた過去もあった。小沢に頼めば、社員としての情報はいくらでも知ることはできたのである。


 中村は泥臭い仕事でも指示通りに動ける人間だった。営業マンとしては、本当は優秀だったのである。半面、小沢にはすでに立場がある。


 それでも野口は情報収集を怠らなかった。小沢に電話を掛けて、部下の冴えない社内評価の理由(数字を残せないばかりか、会社の理念に染まらず、報・連・相がいまだにいい加減なところがある)や、大学時代の先輩にあたる京都市出身の女性と交際しており、彼女は野口が東京電工の常務であった時代に取引関係があった自動車部品メーカーの海外営業セクションに勤務していることなどを聞き出していた。


 情報源は多いに越したことはなかった。


 野口は奈美とも接触している。塩津社長が面白半分で、会社に接触してきた野口を残照に連れてきたことが何度かあり、奈美自身もそれを覚えていた。東京電工の子会社化には、塩津美千代・塩津フミの保有株放出が必要となる。その設計図に即して野口は奈美を利用してみたが、結果として創業者一族の反発を強める結果となったのは先に記した通りだ。


 ところで野口の目にはじめ水元は、巷に大勢いる何の取り柄もない30代の男性のようにしか見えなかったが、響工業の会議室での1時間にも満たない面会の時間中に、水元に並々ならぬ技能が1つだけあるのを見出していた。それは人に気持ち良く話をさせる才能だ。


 なぜこうした技能を持つ人間が十分な営業成績を残せないのか、余程、仕事が嫌いなのか、野口には理解し難かった。


 彼が喋りすぎた理由には、水元の傾聴力が働いたのかもしれない。


 その水元の契約解除は、上司である小沢の要望に則ったものであった。小沢はかねてから自分が犯した不正を暴かれることに、強い警戒感を抱いていた。


 部下の水元が以前の自分と同じ立場に置かれたことにより、水元が不正を暴露することがあれば、自分の立場は危うくなる。水元が社員から個人事業主としての取引先の立場になったとは言っても、それは変わらなかった。


 部下の宮川が会社の重要な機密情報を流出させたとして懲戒解雇となったことも小沢を動揺させた。社会的に立場が不安定となった水元が、いつ背後から刃を振い襲いかかってくるのか分からないなかにあって、不透明要因に先手を打って対処する必要があるとの思いを抱くこととなった訳だ。


 小沢は大学の後輩で営業成績トップの河内に国際電話をかけ、自らの不正は隠したまま、宮川と同様、顧客情報を提供している疑惑があるとの指摘が外部からあったと伝えた。事実を立証した際、人事面で優遇されるのではと期待した河内が、水元の足取りを追いかけるようになったのは、こうした背景もあった。


 水元が河内に不正を明らかにされた日、報告を受けた小沢は野口に国際電話で水元との契約を解除する方向で動いている、と伝えた。その時、野口は勝手なことをするな、と小沢を罵った。水元が自分の与り知らぬところで勝手に動き出す状況をつくることは避けたかったのだ。小沢は、そうは言ってもと譲らなかった。


 気分を晴らしたいと考え、カラオケスナックに出向いた野口の携帯電話が鳴った。水元本人からだった。


 不正行為が会社に知れ渡ることになった事実を告げられると、野口は酒の力もあり、水元に深く失望し、突き放してしまった。


 省みるに、浅はかな行為だった。職を斡旋するなどして、水元を自らの監視下に置き続けることが、先々のリスクを最小限にとどめる上でも、最も適切な行為だった。野口は、やはり水元の行動を把握し続けることが自分の立場を保つうえで必要だと考え直し、数多くの仕事を依頼し多額の報酬を支払ってきた中村に、水元と会うよう命じたのである。

 

 中村にとっては塩津社長の一周忌は、水元と会うための口実だった。日引社長と水元を引き合わせたのは、ひとつ作戦を立案することにより、水元と自分を結び付けることが可能となるとの計算によるものでもあった。


 それまで中村は自分の他に、情報提供を求められている人間がいることなど知る由もなかった。水元が会社をクビになった(正確には業務委託契約を解除された)のを聞き、その背後に野口の存在がいたことを知った時、自らの危うい立場を再認識し、戸惑った。野口の逆鱗に触れてもしたら、下手したら自分も同じようになるのではないか。野口は自分をどう扱おうとしているのか。疑心暗鬼に苛まれるようにもなったのである。


 中村はパソコンをシャットダウンした。


 何食わぬ顔で他人と会い、御託を並べ情報を得る。


 学生時代に憧れていた、一応、マスコミの世界で、その現実に身を浸すにつれ忌避するようになっていった新聞記者の姿と、何ら変わりない中村がいるのは皮肉なことだった。


 今日ぐらいは携帯電話の電源を切り、一人になって酒でも飲みたいと、財布の中を見たものの、1000円札が寂しく3枚あるのみである。銀行口座の残高は1万円にも満たず、消費者金融の返済日が迫る。誰にもぶつけられないやり切れぬ思いを抱えたまま、中村は少々腹を立てたような口調で、お先に失礼します、と所長に伝えた。


 中村の存在を無味無臭の気体のようにそれまで感じていた所長は、中村の声を耳にし、いたのか、というような反応を一瞬見せたものの、結局一言も放つことなく、パソコンの画面に目を戻し、作業を続けた。

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