第18話 田ウナギからキノコスープまで

 日引は旧知のメッキ業者と午前中の商談を終えた後、李とのアポイントの前に一度本社に戻るべく、黒塗りのクラウンを青梅街道に走らせていた。前の軽自動車が後続車を気にすることもなく、時速30キロ近くでノロノロと走行している。溜まりかねてハンドルを右に切り追い越し車線に出た。アクセルを力強く踏むと、ギアが一速ダウンし、エンジン回転数が急上昇する。


 彼は頭に血が上っていた。数十分前のことだ。美空銀行の融資担当者が携帯に電話を掛けてきた。


(融資をストップするかもしれない)


 意味が分からず困惑していた日引に担当者は午後1時過ぎに本社を訪問し、事情を説明するとだけ言い残して電話を切った。


 どういうことだ。財務体質には問題はあっても、借金は何とか返済してきたし、着実に受注も重ねている。次世代衛星の部品をはじめ国内産業の競争力を左右する重要な分野に携わっているということは、銀行だって分かっているはずだ。なのになぜ――。


 東京電工と銀行のパイプ役でもある野口に何度も電話を掛けてもつながらない。野口にやられたのか、疑念が日引の胸を突き上げる。


 本社工場の敷地内にクラウンを滑らせるように停めた頃、美空銀行の担当者は高価そうな黒のスーツを身に纏い、背筋を伸ばしながら応接室の革張りのソファに腰を掛け、社長の帰社を待ち続けていた。重厚な木製扉が勢いよく開くと、日引は顔を真っ赤にしながら怒鳴った。


「どういうことだ。お宅だって、うちがなければロケットが飛ばないのを分かっているはずだ。国に背を向ける気なのか」


 担当者は臆することなく、ブリーフケースから書類の入ったクリアファイルを取り出し、ガラステーブルの上に置いた。そこには〈臨時株主総会招集通知(案)〉との文字が透けて見えた。


 担当者は融資の停止について東京電工が響工業に発注した次世代人工衛星のロケットエンジン関連の部品にあたり、度重なる設計変更で当初の計画と実際の進ちょく状況が大きく乖離しつつあるため、響工業から別の会社に変更する可能性が高まっていることが主な理由だ、と伝えた。


 そんなバカな話はないと、直感的に日引は反発して言った。


「設計変更を求めたのはうちじゃない。こちらも意見はしたが、それを受けて十分な性能を満たすために必要だと、東京電工も納得していたんじゃないのか」


 担当者は淡々と、その証拠はあるのかと問い詰めた。日引は怒りで身体を震わせた。目の前にある灰皿を男に投げつけたい衝動に駆られた。だが、融資を止められてしまえば、従業員に対し給料が支払えなくなる。そうなれば響工業は終わる。


 重々しい雰囲気の中、銀行の担当者は妥協案を伝えた。それがクリアファイルに入った招集通知の趣旨だった。融資の停止は、場合によって実施時期の延長が可能だが、それには日引が社長の座を退くことが条件だ、という話だった。


 創業者一族の日引にとって銀行側の要求は大手企業のエゴに満ちたものに見え、容易に受け入れられるものではなかった。しかし要求を拒否すれば美空銀行は響工業の株主として、経営陣に臨時株主総会の招集を要求する方針だという。


 銀行側は日引の退任を求める姿勢を鮮明にしていた。


 設備投資などで資金を要する製造業の中小企業経営者にとって、銀行が企業の生殺与奪の権を持つということは、言う間でもない事実だ。メーンバンクからの融資が突如、ストップしたとなれば、他行に融資を申し込んだとしても、その事情を説明しなければならず、一般的な金融機関との付き合いを始めることなどできそうにもない。株主としての姿勢を説明する融資担当者を前に、日引の表情は徐々に青ざめていき、やがて怒りの色は消え失せてしまった。


 日引は返答の期限が欲しいと言った。銀行担当者は3日後までに回答をしてもらいたい、もしなければ臨時株主総会招集の要求に踏み切ると伝え、その場を去った。


 切羽詰まった人間がとる行動は不思議なものだ。一人応接室に取り残された日引は足早に社長室に向かい、執務用の机の引き出しにある名刺入れから、金融機関に勤務する人物の連絡先をリストアップしようとした。すると、かつて飛び込みで営業に訪れた地元の信用金庫や信用組合、あるいはノンバンクの営業マンの名刺が見つかった。彼は片っ端から電話を掛けてやろうと意気込んだが、受話器を取った瞬間に迷いが生じた。切羽詰まった状況で電話をし、金に困っている人間だと向こうに悟られれば、足元を見られるどころか、妙な噂を立てられてしまう。


 受話器を降ろすと、社長室の中で円を描くように歩きまわった。10分ほど経つと、再び受話器を手にし、高崎銀行に電話をかけた。塩津製造所のかつてのメーンバンクだ。電話口で女性行員に、塩津製造所の事業を承継した響工業の社長であると明かした上で、当時の塩津の融資担当者と話をしたいと伝えた。


「お調べいたしますので少々お待ちください」


 女性行員は電話を保留にし、上司と相談をした。上司は塩津という名を聞くと急に表情を曇らせて首を横に振った。塩津を担当していた支店長は1年以上行方不明になったままであったが、行内でその話題はなぜかタブーとされていた。


 上司の入れ知恵で女性行員が当時の担当者は退職したと告げると、日引は黙って電話を切った。


 時間だけが過ぎていき、社長室に西日が差し込んできた。午後7時には李と会うために会社を出なければならない。水元が会合の場に選んだのは、池袋の百貨店の上層階にある中華レストランだった。響工業の最寄り駅から電車で1時間半はかかる。


 柱時計の指す針を目に、頼みの綱は最早、李だけなのではなかろうか、と日引は考えていた。


 響工業の定款では、株主総会で提案された議案の決議には、議決権を持つ株主の過半数の賛同が求められている。要するに、この時点では美空が株主総会を招集し、社長解任の議案の採決を取ったとしても、塩津美千代・フミの二人の株主が賛成側に回らない限り決議には至らない。3日後までに彼女らを説き伏せれば済む話でもあった。


 しかし、塩津製造所の買収後、日引はろくにこの2人の株主と接する努力をしてこなかった。


 塩津家の2人にしてみても、響工業との付き合いを深める義理はなかった。日引には助言をするブレーンがいなかった。2人に会う必要性に気付き、自宅に電話を掛けた頃には、すでに塩津美千代は美空銀行の融資担当者と、東京電工の幹部とともに、赤坂の日本料理店で夕食をともにしていた。そこには野口も同席していた。


        *


 売上高10億円、経常利益1億円。資産合計15億円、負債9億円。有利子負債6億円。うち1年以内に返済が必要な短期借入金4億円――。


 李の仕事場にある重厚感のある木製の机の上には、響工業の資産を査定する上で必要な過去数年分の事業報告書や登記簿謄本などをまとめたファイルが山積みになっていた。彼が普段接する企業の規模と比較すると、からし種にもならないぐらい、小粒な会社だ。


 書類はいずれも、池袋の中華レストランで日引と面会した際に、李が提出を求めたものだ。その日の晩に全ての書類を用意し、内容証明付きの速達で届ける彼の動き方から、響工業が危機的な状況に立たされているという社長の言葉は、強ち誇張されたものではないと推測できた。


 その後、日引から東京電工と美空銀行が塩津家を口説き落とそうとしているようだ、との報告をメールで受けていた。


 ブラインドカーテンが開いた窓からは、曇空の下に広がる新宿の高層ビル群が霞んで見えた。台湾から運んできた調度品が、風水思想をもとに部屋の所々に置かれた仕事部屋は、李にとって熟考をするのに最適な空間だった。日本人の女性秘書が台湾茶を淹れたガラス製の急須とカップを運んできた。李は濃紅色の茶湯を注ぎいれたカップを右手で支えながら顔の方に近づけ、芳醇な薫りを愉しんだ。


〈これまで国家のために必死で汗水を流してきましたが、このような扱いを受けて、誰のために踏ん張ってきたのか、分からなくなってきました。国家のためという言葉が使えるのは結局、役人と大手企業と、銀行家だけなのでしょうか。私には会社と従業員を捨てることはできません〉


 日引が呟いた一言は李の心を捕えていた。国家や顧客、ステークホルダーに手のひらを返されたとしても、自分の会社は自分で守ると表明した彼の意思は、ある面では強がりにも見えたが、そこに塩津社長の言葉と共通する、一つの普遍的な価値があるようにも思えた。


 書類上の数字を見る限り、財務状況は芳しくない。売却し資金化できる土地・建物などの固定資産や有価証券もない。美空が融資をストップすれば、忽ち借入金の返済が滞るのは火を見るように明らかだった。


 だが、再生が全く不可能という訳ではなかった。


 李は中華レストランで見た日引の目の色と食事の仕方を見て、直観的に、響工業に自分の指示をもとにパートナーが資本投下をすれば、息を吹き返すばかりでなく大きく成長することができるのではないか、と感じていた。突発的な事象に視野が狭まり、正常な判断能力を失いかけているようにも見えたが、何としても金を巻き上げようと、李自身を獲物か何かのように睨む鋭い眼差しがそこにあった。


 そればかりではない。普通、銀行から融資のストップを言い渡されたならば、その途端に経営者の多くは食事が喉を通らなくなるはずである。しかし日引は、上海名物の田ウナギの炒め物から蟹の姿蒸し、小龍包など料理が運ばれれば率先して口をつけ、挙句の果てには壺入りのキノコスープの最後の一滴まで惜しむように飲み干していた。


 美空への怒りが食欲に転化しただけなのかもしれないが、その食物への執着心は、ビジネスを成功させる上で最低限必要な要素であるのも確かで、それが際立つ日引の姿には異様なものがあった。日本人の経営者にもまだこのような人間がいるのだと、李は内心頼もしく思った。


 不安もあった。響工業に投資した後の成長戦略に関してである。台湾の製造業は、エレクトロニクス分野が中心となりつつある。1年以上前に台湾企業が塩津製造所に発注した部品の単価が、今や半値以下にまで下落してしまうほど変化の激しい市場だ。塩津を買収した響工業は、重工分野を得意にしており、電機業界向けの仕事を多くこなすことはなかった。資本投下をすれば、内向きな日本企業は海外への技術流出に警戒感を示し、場合によっては、響工業との取引を解消する方向に動くところも出かねない。


 台湾の電機関連メーカー向けの仕事を響工業に仲介した際に、響工業の業務に何らか混乱が生じ、損失を計上する必要に迫られ、財務体質がさらに悪化することがあれば、部品を安定的に調達できなくなるとして国内外の顧客が一気に響工業から離れる恐れもある。もしかしたら、台湾の仕事だけで響工業を救うことなど土台無理な話なのかもしれない。


 李は受話器を取った。通話先はパリに本部を置くプライベート・エクィティ・ファンド、ギャルソンノーブルの日本支社だ。機関投資家や個人から資金を集め、企業の株式などを取得し成長をさせ、株価が上昇した時に売却して利ザヤを確保する投資ファンドの一つで、李や野口の同業者でもある。


 欧州は太陽光や風力、波力などの自然エネルギーを活用した発電技術や次世代電池の実用化に熱心な企業が多いだけでなく、フランスであれば航空機産業も集積している。響工業の得意先の東京電工も、こうした分野で事業を展開している。


 日本の技術力に高い関心を示す欧州は、響工業にとって事業の親和性が高い市場だ。台湾に加え、ギャルソンノーブルが欧州向けの事業を後押しする体制を整えれば、中長期に見れば高い投資対効果が期待できるかもしれない。


 李は親しい日本支社長に連絡し、アポイントを取り付けると、台湾人の部下を呼び出し早速、プレゼンテーション資料の作成にあたらせた。

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