第16話 資本の力学・経営の美学

 立川駅の北口からペデストリアンデッキに出ると、左手に鋼鉄製のモノレールの線路が目に飛び込む。手前には百貨店の無機質な黄土色の外壁と大型の映像表示装置が迫って見える。透明感のある紺色が空を覆う時間帯だった。


 水元と、顔に化粧を施した奈美は、中村が指定した居酒屋〈どんぶり〉に向かうため、ペデストリアンデッキを北に歩いて行った。奈美は30分も経たないうちに、足と脇、腕の脱毛を済ませ、爪の手入れとメイクをし、Tシャツとジーンズ、ミュールという格好になった。


 雑居ビルの1階に入居する〈どんぶり〉の木戸を横にずらし狭い店内に入ると、中村が右手を上げて存在を知らせた。同じ席に短髪の作業服姿の男性が背中を丸めていた。


 男は振り向くと、軽く一礼をした。


 板前と女将が二人で切り盛りをする小さな店だ。5つあるテーブル席はすべて客がつき、残るはカウンター席のみだった。中村と男が座っていたのは、板場から最も離れた角にある席である。すでに2人は生ビールと、小料理を2皿ほど注文していた。


 水元は水元は自分の背後に隠れるように立つ奈美を2人に紹介した。中村と男は奈美の外観を見て、はじめ苦々しい表情を浮かべたものの、野口のせいで食い扶持を1つ失ったことを明かすと、ともに表情を柔らかくした。


 中村が男を紹介する。


「こちらは、響工業の社長の日引さん。水元君は、息子さんには会ったことがあるんだっけ」


 日引は頭を下げた。工場から駆け付けたのか、エメラルド色の作業服に身を包み、毛髪は脂で光る部分がある。頑丈そうな体躯で、眼つきからは精悍さが滲みでている。


「その節はどうも、お世話になります」


 中村は2人分の生ビールを追加で注文してから、奈美と野口の関係について質問した。奈美は、塩津社長がスナックの常連客で、一時は互いに特別な感情を抱いていた間柄であったことなどを包み隠さず話してから、数時間前に水元に話した野口とのいきさつを伝えた。


「そういうことか」


 中村はそう呟くと水元の方に目を向けて言った。腕組をした険しい顔つきの日引は頷き、しゃがれた声で続けた。


「塩津社長の前妻の美千代さんは弊社の株主なんです。ご存知の通り、塩津さんの会社を承継したでしょう。美千代さんは食品工場にパートとして勤めながら、亡くなった塩津社長のお母様を自宅に引き取り、介護なさっているんです」

「株主構成ってどうなっているんですか?」


 水元が口を挟む。中村はカバンの中からルーズリーフとボールペンを取り出した。


「ちょっと長くなるけど、説明しようか。注目すべきはパーセントの数字だよ。統合する前の響工業と塩津製造所の株主構成は、それぞれこうなっていた。便宜上、日引社長の奥さんやご子息の保有株は、日引社長の保有分としてカウントするよ。その方が分かりやすいから」


 中村はボールペンを滑らせて、紙に次のように書いてから、解説を始めた。


■響工業の発行済株式総数:1万株

株主・保有株数(保有比率) 日引社長 5100株(51%)

              美空銀行 4900株(49%)


 ■塩津製造所の発行済株式総数:1万株

株主・保有株数(保有比率) 

タカサキ・キャピタル・インベストメント 6800株(68%)

              塩津美千代 2100株(21%)

              塩津フミ  1100株(11%)


「発行済み株式総数は両社とも同じ1万株。塩津フミというのは、塩津社長のお母様。タカサキ・キャピタルっていうのは、塩津製造所の株式上場を目論んでいた高崎銀行系のベンチャーキャピタルだ。美千代さんはもともと、塩津製造所株を10%持っていたんだけど、塩津社長は亡くなる前、保有していた自社株11%分を彼女に譲渡しているから、足し算した結果21%になっている」


 女将がビールジョッキを水元と奈美の前に置いて去って行った。日引は紙の上の文字列を指で差す。


「この美空銀行というのは、うちのメーンバンクなんです。ずいぶん前、資金繰りが苦しくなった時に融資をして助けてもらった経緯がありました。株式会社になってから、美空の人間を財務担当役員として、こちらに受け入れて働いてもらったこともあるけれど、その方が定年退職された頃には、うちの業績は回復していて、向こうが人を送ることはなくなっていたんですけど」


 奈美は数字を前に目を細めている。中村が言う。


「2社が統合する際に響工業は1万株の新株を発行し、塩津製造所株との1対1の株式交換契約を結ぶことになる。響工業の発行済み株式総数は2万株に増え、塩津の株主にとっては、それまでの塩津株が響工業株に置き換わることとなる。統合後の響工業の株主構成比率を書くと、こうなる」


 さらに中村はルーズリーフに以下を書き加えた。


(統合後)

■響工業の発行済株式総数:2万株

株主・保有株数(保有比率)

 タカサキ・キャピタル・インベストメント 6800株(34%)

               日引社長  5100株(25・5%)  

               美空銀行  4900株(24・5%)

               塩津美千代 2100株(10・5%)

               塩津フミ  1100株(5・5%) 


「あれ?」


 水元は日引の顔を見た。


「統合後は日引社長が、筆頭株主でなくなっていますね。創業家なのに、どうしてこんな条件を呑んだんですか?」


 日引が口を開いた。


「紙にある数字は今の比率とは違うんですよ。響工業は僭越ながら、日本のモノづくりの重要な部分をさせてもらっています。そういう会社を育てた自負が自分にはあるんです。だから筆頭株主でなくなることには、わずかな期間であっても、言葉で言い尽くせない、それは複雑な感情があったもんです」

「ですよね。その後、何がどうなったんですか?」


 日引は再び、紙の上の文字列に指を置きながら、説明した。


「美空銀行はメガバンクの一角に位置する都市銀行でしょう。一方のタカサキ・キャピタルを持つ高崎銀行は、彼らからみたら格下の一地銀に過ぎません。響工業にとっては縁もゆかりもない地銀系ベンチャーキャピタルが筆頭株主になるなんて、そもそも不自然なことです。塩津社長は、経営統合後にタカサキ・キャピタルが持つ響工業株を半分ずつ、美空銀行と私とで分け合う形になるよう、ご存命中に話を付けていたんですよ」


 中村は黙って紙の上の数字を見ている。経営統合によって広告出向先が1社減ったことを思い出しているのかもしれない。日引社長はなおも続ける。


「そもそも塩津社長が保有していた塩津製造所の株式を、前妻に渡していなかったら、亡くなった後、彼の株を誰が持つのか、揉める要因ができてしまうでしょう。銀行、美千代さん、そして私どもを含め、全ての関係者の顔が立つようにしてから、逝ったとも言えます。どういう原因で亡くなったのかは分からないけど、自分が死ぬのを予期して動いていたと受け止めることもできますよね」


 中村は付け加えた。


「高崎銀行にとっては、体力のある格上の銀行と争っても仕方がないという心理が働きやすかったのかもしれないね。株主構成とは別に、響工業の取締役になっているのは、常勤で日引社長と社長の奥さん、そして長男と次男の4人だ。塩津家から非常勤取締役を入れようという話もあったけど、最終的に美千代さんらが固辞をされたんだ」


 日引は作業着の胸ポケットからホープを取り出した。そのゴツゴツとした浅黒い手の甲は、技術で会社を支えた男の苦難と辛酸を示すに十分な説得力を持ちあわせていた。中村はボールペンを手にしたまま続けた。


「統合後すぐに契約通り、タカサキ・キャピタルの6800株のうち、日引社長本人と美空銀行に3400株ずつが譲渡された。その結果株主構成は、こうなった」

 

(現在)

■響工業の発行済株式総数 2万株

 株主・保有株数(保有比率) 

      日引社長  8500株(42・5%)  

      美空銀行  8300株(41・5%)

      塩津美千代 2100株(10・5%)

      塩津フミ  1100株(5・5%) 


「こうして日引社長が再び、筆頭株主になって今に至る訳だ」


 ボールペンを胸ポケットにしまう中村を目にやりながら、会話についていけない奈美がしびれを切らしたかのように声を出した。


「あの、全然意味が分からないんですけど。今日って、野口の話をする日じゃないんですか? 日引社長ごめんなさいね。でも御社の株の話なんて、あたし全然興味ないんです」

「まあまあ」


 中村が奈美をなだめながら言った。


「話はここからなんだ。この美空銀行の大口融資先の一つに、わが国を代表する総合電機メーカーの東京電工がある。東京電工は美空がメーンバンクだ」


 奈美は興味を抱けぬまま中村らの話になおも付き合わされる羽目になった。中村が続ける。


「響工業が部品を納めている東京電工の航空宇宙部門は事業規模は小さいけれども、技術力には定評がある。その実績も指折りだ。東京電工の力なしに国の次世代衛星プロジェクトは進まない、というのも事実だ」


「その航空宇宙部門で響工業と東京電工をつなぐ接点にいるのが、野口勇ということですね」


 水元の放った一言に、日引は大きく息をついた。響はビールを喉に流し込んでから、会社の現状について切り出した。


「その野口さんがね、変な動きを続けているんです。彼とはずいぶん長い付き合いになります。10年ほど前に部品納入業者のゴルフコンペでご一緒したのが最初かな。東京電工の役員になる前だったと思います。それ以来、向こうの役員になられてからも密にやらせていただいていたんです。退任されて、投資組合の代表という立場に変わられた後も、何ら変わりなくお付き合いさせていただいきました。やがて、当社の非常勤顧問になっていただいた訳なんですけど。すみません。一本、いいですか」


 日引はショートホープを胸ポケットから取り出して火を着けた。それからビールを一口飲んでから、話を続けた。


「東京電工が次世代観測衛星について、国から開発、設計、製造業務を受注したのが2年前です。ロケットは1発つくって終わりではなくて、何回も試作品を作る訳で、響工業は試作エンジン用の基幹部品の製造に携わりました。ただこれが難しくて。技術というよりはコストの問題が大変でした。限られた予算の中で、技術水準の高い部品を加工しなくてはならない。何度か試作品を仕上げるうちに、これは採算が合わない仕事だということが徐々に分かってきたんだけれども、必要な設備投資をすでに実施していまして、財務の健全性が大きく損なわれてしまいました」


「東京電工は助けてくれなかったんですか?」


 水元の質問に日引が答える。


「当社としては、まず美空銀行の担当者と相談して、プロジェクトの重要性を認識してもらいました。美空銀行からは最大限、資金面でのサポートをしたい、との返事をいただいたんです。それから東京電工の担当者と価格交渉をしました。しかしながら、東京電工からは取引先1社の納入価格を上げたことが漏れ伝われば、他の会社も同じように値上げ交渉をしてくるかもしれないから、現実的に難しいと言われ、要するにゼロ回答でした」


 日引の話に3人は沈黙した。


「そうこうしているうちに円高が進んで、響工業が得意先とする他の電機メーカーが、部品の調達方針を見直すと言ってきたんです。うちで作っていた部品を東南アジアのメーカーから調達する、と。アナウンスがあった翌週からその会社からの大口の注文がパタッと途絶えてしまい、資金繰りがさらに一気に悪化しました。数カ月後、銀行側の態度が急変しまして、資金面での援助は難しいと言ってきました。頭を抱えていたタイミングで、東京電工の担当者が野口を連れて来社してきたんです」


 中村は摘まんだエイヒレにマヨネーズを付けながら、日引に言った。


「社長からしたら、野口が来る意味なんて最初は分からなかったんじゃないですか? 東京電工を退任した後は『過去の人間』でしたし」


 日引は中村の方を向いて言った。


「優秀な方だったから、東京電工との仕事の条件がもっとマシなものになるよう交渉に臨んでくれたらいいな、と初めは思ったよ。でもやっぱり、それはこちらの思い違いだったな」


 ショートホープの火種を灰皿に押し付けてから、日引は水元と奈美に顔を向けた。


「来社された際に、彼が渡した名刺には〈社団法人次世代ロケット要素技術研究開発協議会理事〉と記されていたんです。東京電工OBとしてではなく、業界団体の幹部という立場で来られて、弊社に様々な仕事を紹介したいと言ってきました。大手メーカーが試作中の電気自動車の部品であったり、実験中の新型電池の構成部品だったり、本当に色々ありました。当社にとってまさに『渡りに舟』でした」


 中村が口を挟んだ。


「でもそれは初めだけの話でしょう。新規業務の発注で響工業を救おうというのは、一時的な効果はあるのかもしれないけれど、彼の狙いはもっと別次元にあったんだ」

「別次元?」


 水元が訊いた。中村の目の色が変わったように見えた。


「結論から言えば野口が社長のもとに来たのは、塩津製造所と響工業を統合させることと、企業規模を大きくして上場させ、どこかのタイミングで出資して投資組合として利益を得ることだった。そうでなければこれまでの野口の動きは説明できないはずだ」


 奈美が口を開いた。


「塩津さんの会社と合併しましょうって話は、ずいぶん前からあったんですか?」 


 日引が口を開く前に、中村が答えた。


「野口は社長に対し、塩津と統合しようと直接、進言したことは一度もなかった。結果的に一緒になったけれども、日引社長のもとに東京電工の担当者が野口を引き連れてきた時点で、ある意味レールが敷かれていたんだ」


 日引は中村の目を見た後、胸ポケットから再びショートホープを取り出し、その1本に火を着けた。


「結果論ではなく、予め定められていたということですか?」


 水元の質問に中村は黙した。


 日引は水元に顔を向け、なぜか微笑んで答えた。その作り笑顔は、会社経営の苦悩と向き合ううえでの彼なりの癖なのだろうと水元は思った。


「推測にしか過ぎないのは確かなんだけど、根拠の1つには塩津製造所と統合する際の『手際の良さ』にあると思うんです。しばらくして、野口が、中小企業に過ぎない当社の顧問に就任したいと申し出た時、こちらとしては美空銀行に伝える必要があったんだけども、まるで既定路線であるかのように、それを受け止めていました。自分の知らないところで何かが回っているのではないか、という不安のようなものが頭をよぎるぐらいでしたよ。……ところで水元さんは今、いくつなの?」


 丁寧語を使い分けていた日引が突然、距離感を縮めるように水元に尋ねてきた。水元はもうすぐ30になる、と答えた。


「なら、うちの2番目の男の子と同じ歳だな。息子に話すように喋らせてもらうけど、野口が顧問から役員に就任する時も、手際の良さを感じさせられたよ。あの時は本人が、こちらの企業体質にあれこれ注文をつけ始めてきて、やがて自分から株は要らないから非常勤の役員にしろと言うんだ。取締役会であれこれ言われては敵わないから、こちらは渋ったんだけど、外堀は埋められていてね。銀行側は野口さんの言う通りだという立場で、株主総会では野口さんの議決権はないんだから、吞みなさいよと言う有様だった」


 日引は少し間を置いてから、声を絞り出すようにして話した。


「過去のことはよく分からないけど、今の野口の頭にあるのは、株式上場時に受け取る手数料ではなく、東京電工が当社を子会社化した時に得られる『成功報酬』に変わったのではないかと思う」


 水元ははっとした。奈美を通じてなされた塩津の前妻に対する干渉がなぜあったのか、日引の仮説を通じ、理由が少しずつ明らかになっていくように感じた。


 東京電工はなぜ響工業の子会社化を目指すのか。その背景を尋ねようとする前に、中村が言った。


「社長は創業家だから色んな想いがあって当然だけど、職人さんや従業員の方々と飲むたびに、野口について悪い話ばかり聞かされているんだ。水元君には前に話したかもしれないが、相変わらずね。会社の皆さんがおっしゃるには、はっきり言って、彼は技術のことを何も分かっていない。その割には現場に色んな注文をする。『他の会社の部品を加工する時間があるなら東京電工の分に回せ。君らは東京電工の仕事がないと路頭に迷うんだから』と野口が迫ってきた時、現場責任者は茫然としたそうだ。中小企業が顧客を選ぶことなどできないのに、野口は選べという」

「それは完全な越権行為じゃないですか?」


 水元の言葉に日引はうつむき加減で答えた。


「非常勤とはいえ役員だからね。実際、東京電工の仕事がなければうちなんてとっくに終わっている。東京電工OBの野口に頭が上がらない面があるのは確かなんだ。中村君が今言ったような話は一面に過ぎない。そうは言っても、言いたくないけれども、彼は技術を大切にしてきたわが社の風土を踏みにじろうとしていると言わざるを得ない」


 日引はプレス加工に使う金型を例に話を続けた。高精度の機械加工を手掛ける企業にとって金属を思い通りの形に曲げる金型の管理には細心の注意が必要だ。温度による膨張や収縮、機械の癖による摩耗の偏りなどを考慮して金型の表面を研磨するなど、宝物のように扱わなければならない。野口はメーカー出身だから、分かっているはずだとは思っていたけれども、細かいところは無頓着のようで、朝晩の温度差の激しい場所で金型を保管させようとしたり、機械の保守・メンテナンスの時間を削ったりするなど、現場を知る人間には考えられないような指示を出していたのだという。


「かわいそう」


 奈美が唸った。


「それなら野口をクビにしちゃえばいいじゃないの? どうせ非常勤なんでしょう」


 中村がすぐに言葉を返した。


「そんなことしたら東京電工の仕事がゼロになってしまう。他に大口の仕事がいくつもあれば問題はないけど。そもそも野口が役員になってから響工業と結んだ契約の中で、新規の顧客開拓などの営業活動はんだ。なのに彼は営業面でも口出しをしている」


 日引は、顔をしかめた。


 中村は水元に向かってなおも続けた。


「そのビジネスを工具屋に紹介して貰おうと思ったのに、クビになったとはな」

「それは、水元君のせいだけじゃないわよ」


 肩を落とす水元を奈美がフォローする。不満そうな中村は語気を強めながら、なおも水元に詰め寄った。


「当時の人脈は使えないのか」


 水元は黙した。重い空気が一同に流れた時、何か思いついたかのように、奈美が水元に向かって言った。


「そういえば、あの台湾の人は?」

「台湾人?」


 中村は眉をひそめた。奈美は繰り返す。


「台湾人。名前なんて言ったっけ。塩津さんの香典を渡したいって言って残照に来た……」

「ああ、台北なんとかの李、なんだっけな」


 水元の頭に下の名が浮かんでこない。


「向こうはきっと僕のことなんて忘れていますよ」


 奈美は声を大にして言った。


「そんなの、会いに行かなきゃ分からないじゃない。あたしみたいに会社に直接行くのよ」


 水元は中村と日引に、李という名の投資顧問の日本支部代表とどのように知り合い、どういう人物だったか、説明した。李が高崎銀行を通じ、亡くなった塩津社長の知遇を得たこと。出資する台湾メーカーが塩津製造所に大量に部品を発注したことに伴い、新たに必要となった工具の注文を水元が窓口となって受けたことなどを話した。


「李の出資先のメーカーは欧米企業も相手にしています。そこからの注文が取れれば、野口に引導を渡したとしても、しばらくはやっていけるという青写真は描けますけど、思惑通りにいくかは……」


 日引の顔も浮かばない。無理もない。台湾企業といっても様々だ。取引先との持続的な関係性を重要視せず、一方的に無理難題を押し付けてくるところもある。経営者としての判断を誤れば、会社が一気に傾くリスクがある。


 とはいえ野口の横暴を見過ごすわけにもいかない。東京電工との仕事に影響を及ぼさない程度に、台湾の仕事を取るのが一番であるのには間違いないが、そんなことなどできるのだろうか。日引の頭を様々な考えが巡る。奈美が口を開いた。


「社長。一度、会ってみたらどうです? 李という男に。顔を見て悪い予感がすれば、止せばいいだけの話じゃないですか」


 日引は黙考してから、重々しく口を開いた。


「そうだね。会って決めてもいいのなら、そうすればいいか。水元君、連絡先知っているんだろう。当たってくれないか」


 水元は不安げな表情を隠さない。


「実際にコンタクトできるか分かりませんけど。あと、銀行側の意向はどうなんですか。41・5%は立派な大株主ですよね」


 中村は困惑しながら、答えた。


「確かに、そこも不安だな。東京電工のメーンでもあるし、何をどう考えているのかはこちらでは」


 日引が口を開いた。


「東京電工がうちを傘下に収めようとしているのは間違いない。それだけの技術力はあると思うし、もともと言うことを聞かない会社だからね、うちは。子会社化で響工業の牙を削ぎ落して、従順な会社にしてやろうという一点で、野口と美空銀行はガッチリとつながっていると見ていいんじゃないかな」


 水元は反応した。


「そもそも銀行を説き伏せることなんて難しいじゃないですか」


 日引は言う。


「まあ、普通にやっていたら無理な話だと思う。はっきり言うと、美空が持つ41・5%分の株式は、いつ東京電工の手に渡ってもおかしくない。まともな経営者なら東京電工と美空の意向に反することはしないと思うよ」


 奈美の頭では、ようやく複数の要素が結びついたようだ。


「銀行と野口……。野口があたしのところに来て、塩津さんの前の奥さんに株を手放すよう、協力を持ちかけてきたのは、つまり、東京電工が響工業の主導権を握られるよう、銀行が後押ししているから、ということ?」


 前妻の美千代と美空銀行の保有比率を足すと52%と過半数を握る形になる。塩津の母の保有分を加えれば、美空の割合は57・5%に高まる。


「要するに、銀行は社長の会社を乗っ取ろうとしている訳ね。まあひどい」


 日引は苦笑して奈美に言った。


「乗っ取りなどというと穏やかじゃないけど、銀行が過半をとれば今以上に管理体制を強化するでしょう。野口なんかまだ序の口なのかもしれない。『言うことを聞く』会社になった段階で、株式を東京電工に引き取ってもらう、そんな算段なのかもしれない。ただね、座して地獄を待つというのも、癪に障る話だからな」


 日引はショートホープの煙をたっぷりと肺に含んで、天井に吐き出してから、日引は水元と目を合わせた。声には悔しさがにじみ出ている。


 水元は、形だけでも日引の依頼を引き受けようと考えた。気乗りはしなかったが、日引の真っ直ぐな瞳が背中を押した面もあった。

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