第12話 うわ、陰湿

 夕方、普段はあまり感情を表さない水元の顔がやたらと上機嫌に見えた。


 普段は素通りする新宿駅のコンコースで、『自分へのご褒美』として1個200円のドーナツを5個購入する。女性店員から手渡された紙箱を提げると、彼は中央線快速のホームに向かって、スキップでもし始めるかのような軽い足取りで、歩いて行った。


 数時間前、彼のキャリアの中で最高額となる工具の売買契約が正式に締結されたのである。


 販売先は首都圏近郊に工場を持つ大手自動車会社の系列部品メーカー、イーテクノ社だ。シャシーのプレス加工が主力事業で、プレスに用いる金型も自社で製造している。


 外回り中の水元の携帯電話に『042』から始まる見慣れぬ番号の着信があったのは、1カ月ほど前のことだった。イーテクノの開発責任者が、旧知である野口から連絡先を聞いたといい、商品の説明を受けたいので都合のいい時間に来社してほしいと伝えてきた。開発中のシャシー用の金型を切削する上で、従来の工具ではどうも精度が出ないので、G社製の工具を使いたい、とのことだった。 


 イーテクノは、伊賀精密加工と秩父プレス機械工業の2社が経営統合して誕生した会社だ。旧伊賀の工場は西日本地域の顧客に、旧秩父の工場は東日本地域の顧客に製品を供給するという棲み分けがなされている。水元に声を掛けたのは旧秩父の人間である。


 水元は埼玉の山深くにある工場にG社の工具で切削加工したサンプル品を持って訪ね、そこで簡単なプレゼンテーションを行い、納入方法などについて担当者からの質問に答えた。試用分として小ロットの注文を受けたものの、1カ月後には本格受注となった。初回の受注額は15億円強。これほど簡単に注文がとれるのはかつてないことだった。


 野口を通じ接触した顧客はイーテクノにとどまらない。スポットの発注を含め、月に3、4件は野口がらみの新規取引があり、自身の成績を底上げしている。スポーツ選手で言えば、ドーピングに手を出したようなものなのかもしれない。東京の営業担当者のうち、成績トップの座には河内が常に君臨し続けてきたが、いつの間にか水元は肉薄するようになり、その月に至っては入社以来、初の首位に躍り出る可能性が高まっていた。

 

 にもかかわらず、社内における水元への評価はまちまちだった。数年間、シンガリの位置にいた彼の好成績をプラスに捉える者もいれば、彼の本当の実力を見極めるのにはなお時間が必要だ、との見方もあった。これまでの彼の実績からしてみて相次ぐ新規顧客の獲得はやはり不自然であり、何らかの不正を働いているのではないか、と訝しがる者も少なくなかった。


 ネガティブ評価側の急先鋒に立つのが河内である。営業手腕に強い自信を持つ彼だからこそ、優柔不断で、押しが弱く、話術を持たない水元が、矢継ぎ早に新しい仕事を取ってくることは、理解できなかった。河内は疑念をすぐに周囲に口にすることはなかったものの、水元がイーテクノの注文を引き受けた時には、行動しないわけにはいかなかった。


 河内はイーテクノに対し、水元よりも遥か前からコンタクトをとっていた。先方の予算の都合で商談が進まなかったのである。イーテクノの仕事が取られたと耳にしたとき、河内は頭に血が上るのを感じた。水元は仁義を切らなかったのだ。


 水元も、河内が食い込もうとしていた客だったということを周囲に指摘されるまで気付かなかった。


 執念深い河内は、実はずいぶん前から、日常業務を適当にこなすことにして、ストーカーさながら、成績を伸びに伸ばす水元の足取りを探っていた。シンガポール鶏飯の店で会話した日、河内は有給休暇を取得し、早朝から仕事着のまま、水元を尾行していたのである。


 休みの日はそうしたこともできるが、普段は無理だ。水元が定期的に出社しないのは厄介であった。社員だった頃は、何時に会社に来て何時に退社するか、そのリズムを掴むのは容易であった。今やそうはいかない。仲のいい同僚や、かつての上司が社内にいる訳でもない。


 水元が出社した事実をいち早く把握し、その後の彼の動線を記録し、退社後も状況が許せば尾行をするという地道な手段しかなかった訳である。


 河内は妙な自信があった。役に立たないと思えるような事実を積み重ねることで、秘められた真実を突き止める足場を築けるはずだと考えていた。


 それでも一人では限界がある。河内は受付嬢の恵美子を使った。ある日の昼休み、恵美子を給湯室に呼び、水元が来社したらその都度メールで知らせて欲しい、と頼み込んだ。理由を聞かれたが、社内プロジェクトに関わるので話せないと濁した。


 恵美子は見返りを求めた。河内は、報告1回ごとにランチをご馳走すると提案した。


 しかし恵美子は水元が頻繁に出社したらその分、ランチに行く回数が増えるかもしれない、社内に変な噂が立っては困ると言い、報告3回で1食1万円以上する高級ランチ1回にするよう求めてきた。河内はしぶしぶ承諾した。


 さらに出社後の水元の行動を掴むために、信頼する派遣の女性事務員に対し、LINEのメッセージを合図に、彼の社内での居場所を教えるように依頼した。手口は簡単だった。製造業向けの見本市の招待状が入った封筒を用意しておき、そこに水元の所属と氏名を記したシールを貼り付けた上で、受付から水元さんが来社したと聞いたのだが預かり中の郵便物を渡したい、と関係部署に電話で聞いて回るのである。


 愚直な作戦に思えるが、成果はすぐに出た。水元の行動にあるパターンを見出すことができたのである。


 彼は基本的に2日、12日、22日と、10日おきに出社していた。それも決まって午後3時以降に受付を済ませ、業務委託者を管理するフランチャイズ部に立ち寄る。報告書類を部員に手渡すと同じ室内で複写機に近いデスクの1つを借り、ノートパソコンを立ち上げて作業をするのだ。


 水元が社屋を経った後、河内は姿をやつして彼の後を追った。もう一つの習慣が明らかになった。武蔵小金井駅を降りて自宅に戻る前に、水元は決まってコンビニエンスストアに寄り、デジタル複合機の前に立つのである。黒皮のカバンからクリアファイルを取り出し、中にあるA4の紙を数枚、取り出して、硝子板の上に置いてボタンを押す作業を繰り返している。FAXを送信しているようだった。


 河内は勘付いた。G社は毎月、上旬、中旬、下旬と3回に分けて、イントラネットに拠点ごとの最新の営業実績報告をアップロードしている。土日でなければ1日、11日、21日がその日にあたる。営業実績報告は拠点ごとの売上高などを記録したレポートと、新規顧客リストが含まれている。これらは会社が付与するIDとパスワードを使ってログインすることで閲覧ができる。


 <水元はやはり宮川と同様、顧客リストを誰かに売っているのではないだろうか>


 不正を糾弾するには、証拠を突き止めなければならない。FAXで送信している書類が顧客リストだと証明できれば一番なのだが、下手に手出しをしてこちらの動きを悟られてはならない。考え抜いた河内が協力者に指名したのは、先の受付の恵美子だった。


「この前、地元の川越の商店街、歩いていたら、短大のときの先輩がいて声を掛けたんですけど『は、あんた誰?』って目をされて、その時、気付いたんですよ。面倒くさいからアイメイク、ネグっていまして、眼鏡掛けていたんですけど、そうすると別人って思われるんだって」


 会社から離れた市ヶ谷界隈のフレンチレストランで、河内は昼休みに、約束したランチを恵美子と共にしていた。


 恵美子は背は低めだが、色の白い、やや丸顔の両頬には薄い紅色のチークが塗られ、二重まぶたにカールの効いた付け睫毛と栗色の瞳が、顔つきにエキゾチックなスパイスを与えていた。


「それやわ」


 河内は思いついたかのように言った。


「悪いけど、もう1つお願いごとをしてええかな」


 白身魚のソテーをナイフとフォークで切り分けていた恵美子の手が止まった。


「今度はなんですか? これでも結構、色んな意味で私の負担になっていたんですけど」


 女子学生のあどけなさがまだ消えぬ恵美子の声に笑みをこぼしながら、河内はたった今、頭の中に浮かんだ作戦を打ち明けた。


「今度、水元さんが会社に来るとしたら、おそらく2日の夕方になると思うねん。その日の夜、俺と一緒に、武蔵小金井のコンビニについて来てもらえへんか」

「コンビニ?」

「そう。これ内密にして欲しいねんけど、あの人多分うちの新規顧客リストを会社でこそっとプリントアウトして、それをどこかにFAXで送っとる。絶対そうやわ。メールで送ってしまえば足つくやろ。会社じゃなくてコンビニのFAXやったら、記録が残らんと踏んどんねん」

「社外秘の資料を外に持ち出すのは規定違反ですよね。あの水元さん、すごく素直そうに見えるのに、そんな人には見えない」

「内緒やで」

「分かっています。でもそういえば随分前に、ニューハーフっぽい方が水元さんを訪ねに会社に来たことがありましたよ」

「ほんま?」

「ええ。やっぱり水元さん、基本は変態なんですかね。それで、あたしはコンビニで何をすればいいんですか?」

「そうそう、恵美子ちゃん、とりあえず仕事は5時には終わるねんな」


 恵美子は頷いた。


「そしたらな、まずどこかでそのアイメイクを取って眼鏡をかけてな、ジャージかなんかに着替えてきて欲しいねん。ジャージじゃなくてもええけど、普段、家でゴロゴロとしているような格好な。それで2人で武蔵小金井のコンビニの前まで行って、水元さん来はるのを待ち伏せする訳や」

「え? スッピンの顔を見せるんですか」

「アイメイクだけでええって。でな、あのコンビニの向かいに本屋があんねん。俺そこからコンビニの方、じっと見てんねんけど、水元さんが来てな、コピー機の前でカバンをゴソゴソとしだしたら、合図だすから、恵美子ちゃんはコンビニに入って、シャカシャカと思いっきり振ったペットボトルのコーラを持って、すっと彼の傍に近づく」

「はあ」

「もしどこかにFAX送ってたら、モニターに番号が表示されとるはずや。その書類も確かめてほしいけど、そこまで無理は言わん。いずれにしても、どこかに書類を送ろうとしていると分かったら、ペットボトルのキャップを開けて、思いっきりシャツと鞄にコーラをぶちかましたんねん」

「うわ、陰湿」

「これは一度、公園かどこかで練習しよ。とにかく水元さんは怯むはずや。ほしたら、すんませんすんませんって、とにかく謝り倒してな、そんで『こちらでクリーニング代出しますけど、いいですか?』って言ってから、ちらっと、硝子板の方に目をやって『書類とか大丈夫ですか』とか言ってみてな、確認すんねん。それがうちの顧客リストだったら、携帯電話が掛かった素振りをしてくれ。駆けつけて俺が話をする。俺が水元さんを問い詰めている間に、コピー機に表示されたFAX番号と顧客リストを携帯の写真かなんかに収めてくれ」


 恵美子はきょとんとした姿で、河内に尋ねた。


「顧客リストがなかったらどうするんですか?」

「そん時は普通にクリーニング代を渡せばええ。5000円ぐらい渡せばええやろ。水元さんの性格ならそれで収まるはずや。むしろ『いいですよ、お金は』とか言い出しかねん人や」


 恵美子は河内の話を耳にし、つれない表情を浮かべた。無理もない。段取り通りに物事を進められるか自信がなかったし、アイメイクを取った自分がG社の受付嬢だと気付かれてしまうのを想像すれば、それだけで気が滅入る。荷が重い仕事だった。


 恵美子の気持ちを察した河内は二の矢を放った。


「今度はバイト代、現金で払うよ」

「いくらですか?」


 恵美子の声が弾んだ。


「1・5でど?」


 女は首を横に傾けた。


「もう一声」

「2」

「5!」

「5万?」。河内の声が裏返った。「軽く海外行けるやん。3万。それでいこ」

「クリーニング代は?」

「そっから天引きや」

 恵美子は口を尖らせながら、しぶしぶ了承した。


 河内は恵美子を新宿区内の雑居ビルに呼んだ。


 河内が大学時代に所属していたラクロス部の後輩が経営するITベンチャー企業のオフィスだった。後輩は事業に失敗し、会社は清算に向けた準備に入っていた。今後の行く末を相談しようと先輩の河内に電話をかけたところ、彼は学生の頃に入り浸った居酒屋で話を聞こうと答えながら、ちょうどその時、恵美子との練習の約束を思い出し、居酒屋に行く前にオフィスを稽古場に使わせてもらうよう、頼み込んでいた。


「先輩、複合機にはコーラ、掛けないでくださいよ。売り物なんで」


 壁紙がやに色に光るかび臭い室内に置かれたデジタル複合機は、債務返済のため中古商に売却することになっていた。河内はちらりと恵美子を見た。恵美子は頷き、稽古を始めた。


 複合機の前に後輩が立ち、恵美子は何も持たぬまま、河内の指示を受けながら距離や段取り、間合いを確認し、コーラを掛けるジェスチャーを繰り返した。一連の動きが自然にできるようになった後、河内は本物のコーラの入ったペットボトルを大きく振り、恵美子に渡して実践練習に入った。恵美子はさりげなく複合機に近寄り、タッチパネル画面に表示された番号とカバンに位置を確かめてから、ペットボトルの栓を開ける。


「あっ」


 薄勢いよく噴射された薄茶色の泡沫に河内の後輩は思わず大声をあげた。書類への注意を奪い取る上で、効果は絶大だった。

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