第13話 それは、あなたの責任ですね

 午後3時半、何も知らぬ水元はふらりとG社に姿を現した。


 受付のカウンターで氏名が記入された来社カードと引き換えに、入館証を手渡したのが恵美子だった。彼女は心音が高鳴る自分に気づき、声のトーンをいつもより低くした。


 水元は、その月の2日に来社した。社内には、自分と同じように資料を横流ししていた小沢という名の人間がいたのである。時間とともに疾しさは消えつつあった。


 恵美子はフラッパーゲートの光センサーに入館証をかざして中に入る水元を目で追い、エレベーターに乗ったのを確認してから、上半身をかがめて河内に電話を掛けた。


 河内は早速、指示した。


「退社時間になったらアイメイクをとって眼鏡を掛けて、着替えを済ませて、そんで武蔵小金井駅の改札前のキヨスクに6時半に到着してくれ。そこでペットボトルのコーラを買って待っとこ。俺も私服に着替えて大体そのぐらいの時間に本屋に着くようにするわ」


 4時間後、水元のシャツは見事にコーラ色に染まった。


 彼が怯む間、恵美子は顧客リストの存在を確認し、段取り通り携帯電話をポケットから取り出して耳にあてた。河内はコンビニに駆けつけた。


「水元さん何してんすか。ここで」


 水元の頭が真っ白になった。何が起きているのか把握できない状況が2、3秒ほどあった。この場を立ち去ろうと考え、複合機の硝子板に置いた紙を手にしようと振り返ると、カシャ、という電子音がする。


 恵美子の手には携帯電話がある。河内は問い詰めた。


「証拠とったんで、もうあきませんよ。どこに流してはるんですか。正直に言うたらどうですか」


 恵美子は店外に走って消えた。


「違うんだこれは」


 咄嗟に口をついて出た護身の一言は、自分が卑しい人間の一人であることを水元に思い知らしめた。


「上に言うておきますから。FAX番号も控えたんで、覚悟しといてください。クリーニング代は会社に請求すればいいんちゃいます?」


 河内は駅の改札口で恵美子と合流し、約束の3万円を渡した。水元の顧客は、この先は自分の担当に鞍替えされるはずだ。会社が支給する成績連動型の奨励金が今後、増加するのだと考えれば、ストーカー行為に労力を割いたのは無駄ではなかった。


 翌月の河内の営業成績は、G社史上最高額を見事に更新することになる。


 水元はコーラでベタ付いた肌をシャワーで洗い流したばかりだった。バスタオルで皮膚の水分をふき取り寝室に入ると、そのまま裸でベッドに倒れこみ、目を閉じた。


 まぶたの裏に、自分が出会ったありとあらゆる顔が次から次へと現れては消えた。一様に嘲笑していた。彼の内的世界が貧弱なのを嗤っている。自己防御本能が働く。どこかに逃げ去りたいとの衝動に駆られてしまう。


 落ち着かずベッドから起き上がった。テレビをつけてソファに腰を掛ける。


 画面に映ったのはフランス語講座だ。男性がスクリプトを反復して声にするのに耳を傾けようとしたが、集中できない。


 そのまま10分ぐらいは呆然としていた。ようやく水元はスマートフォンを手にとり、野口の番号に電話を掛けた。


 3コール目で野口は電話に出た。カラオケでムード歌謡を唄う声が聞こえる。野口はスナックで飲んでいた。水元は遅い時間に申し訳ないと詫び、顧客リストを提供していたことが社内の人間に突き止められてしまったと伝えた。


 野口は一瞬、言葉を失った。重圧的な空気が流れた後、淡々とした口調で言った。


「それは、あなたの責任ですね」


 返す言葉はなかった。沈黙する彼に野口は言い放った。


「これまでの話は、なかったことにしてください。あなたがやったことなんですから。私を恨まないで。もう、よろしいですから、では」


 電話が切れた。


〈……では次は、ノンで答えてください。エスク・ヴ・ザヴェ・デザミ・ア・トキヨ? どうぞ。はい。正解はノン・ジュ・ネ・パ・デザミ。ノン・ジュ・ネ・パ・デザミ。東京に友人はいますか。いいえ、友人はいません。ですね。分かりましたか……>


 その頃、G社の総務部のプリンターが慌しく紙を吐き出していた。河内と恵美子の報告を受けたリスク管理担当者が内規に則り、水元とのベンダー契約の解除を決定した。すぐに手続きがとられ、契約解除同意書などの必要書類が、プリントアウトされていた。


 翌朝、仕事に出る支度をする水元のスマートフォンに、〈通知不能〉の着信が入った。


 電話に出ると総務部長の声が聞こえた。社内書類を許可なく外部に流出させる社内規定に違反した行為をした以上、契約を続けることはできないので、本日中に来社をしてほしい、と用件を述べた。


 もう一度、野口の携帯に電話をかけてみた。今度はコール音すら聞こえない。着信拒否の設定に変更したようだった。


 ますます混乱した水元は午前中、アバンラバンギャール投資育成組合のオフィスのある品川に寄った。受付に備え付けられた電話で用件を伝え、ロビーの椅子に腰を掛けていると、いつも笑顔で迎えていた総務部門の女性が顔を強張らせながら現れた。


「失礼ですが、どのようなご用件でしょうか。本人は約束をしていないと申しておりますが」

「定期的に訪問させていただいているのですけれども」


 水元の言葉に女性は表情を変えず切り替えした。


「すみません。野口本人は水元さんのことをすでに存じあげておりません。お引取り下さい」


 水元は食い下がった。


「じゃあ、ご伝言をお願いします。『会えないというのであれば、塩津さんの件で、野口さんにご迷惑を掛けることになります。それでもいいですか』。これを伝えてください。お答えいただくまで、ここで待たせていただきます」


 女性は一礼し、ドアの奥に消えた。


 水元はソファに座った。啖呵を切ってはみたものの、迷惑を掛けるための具体策はなかった。そもそも、野口が自分に打ち明けた塩津の死の真相がどこまで信憑性のある話なのかも分からない。


 女性が姿を現す気配は一向になかった。30分ほど経ち、居ても立ってもいられなくなった水元は再度、受付電話の受話器をとった。総務の女性に野口からの返答を求めたものの、先程と同じような口調で、ご対応できない、と返された。


 正午頃、水元はG社に到着した。昼休みのランチに向かう社員らでフラッパーゲートの周囲が混雑していた時だった。来社カードに名前と連絡先を記入し、受付カウンターの女性に渡した。厚いアイメイクを施した女性は、ロボットのように笑顔を見せて入館証を差し出し、エレベーターでお2階のC会議室にお向かいください、と言った。


 会議室の机には紙束があった。表紙に〈業務委託契約解除同意書〉と記されている。


 契約書の下半分のスペースにはすでに社判が押されてあった。


 すぐに総務部の担当者が現れた。中年男性で態度は横柄だった。


「住所と名前、書いてもらえる? あと印鑑。営業なんだから持っているでしょ」


 水元は固まった。自分が職を失おうとしている状況に改めて気付かされた。中年男はまくし立ててくる。


「あんたが悪いんだ。書かないんだったら訴えるけど、それでもいいの? 証拠があるんだ。4万%あんたの負けになるんだよ」


 卑屈になった水元はつい、欧州に栄転した小沢の名前を出してしまった。


「私は小沢さんと、同じことをしただけです」


 中年男性は一瞬、目を開き、水元を覗きこむように身を前に出して睨んできた。が、すぐに元の姿勢に直り、これまでと同じトーンの声で返した。


「証拠あるのか」


 水元は口をつぐんだ。


「余計なこと言わないで観念しなさい。違っていたら名誉毀損で訴えられるだろう。たとえ小沢君が同じことをしたとしてもね、君の罪が軽くなる訳じゃないんだ。小沢君が社内に残って、君が会社を去るのが解せないのか。そもそも小沢君をどうするか、というのはあんたの仕事じゃないだろ。こちらがやる話じゃないのか」


 水元の喉元の筋肉は硬く固まり、唾液を飲みこむのに違和感を覚えるほどだった。


 中年男性の視線に水元は観念し、契約解除に合意した


 水元が外に出ると、街は直射日光を浴びている。いっそのこと、ここで自分の肉体を構成する全てのものが、解けて蒸発しまえばいいのにと考え、彼は肩を落とした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る